第7話(母視点)

夕食に使う食材の買い出しを終えて自宅玄関の扉を開けた、正にその瞬間でした。ハンドバッグに仕舞いこんだスマートフォンが震えだし、いや、まさかね、と見ればなんということでしょう、義理の姉からの着信がきているではありませんか。思わず何かしらのセンサー的なモノがどこかに仕掛けられていやしないかと四方八方、上下左右を見渡してみましたが、モチロンそれらしき物体は見あたりません。おそらく彼女は第六感、さもなければ千里眼の持ち主なのだろうとわたしは諦め、そして電話に応じました。


電話の内容は、母娘間に使われる単語として適切なのかはわかりかねますが、有り体に言わせていただきますと惚気、とでも言いますか、捉えように依っては自慢、とも受け取れないことはない、ともかく歓びと微笑みに充ち満ちた、甘味たっぷりのそれでありました。かと言って義姉の態度に鼻にかけた様子もなく、初恋に落ちた少女のように溌剌とした声で「ねぇ聞いて!」と話しはじめるものですから、聞く身と致しましてもついつい、なになに? と前のめりになるような、つまりは胸焼けせずに呑みこむことができる、悪意や誇張や虚栄心とは何万光年もの距離を隔てた楽しい話題でありました。電話を切る頃には着信時に感じた末おそろしさも忘れてしまうほどだった彼女とのやり取りは次の通りです。


話題はモチロン、義姉の娘、つまりはピアノを習っている私の姪に関することで、ことのはじまりは秋のコンクールに向けて自宅のアップライトピアノで課題曲を練習している時のことだった、と義姉は言いました。「娘が少し前に練習しているところにココナッツ・クッキーとあたたかいレモン・ティーを運んで行ったの。机の上にそれを置いて、ふと立ち止まって娘が演奏しているのを聴いていたら、なんだか――それはわたしが決して耳の肥えた聴き手じゃないからだと思うのだけれど――凄く贅沢な時間だわ、って思ったのよね。もしも娘がプロになんかならなくたって、楽しそうに音楽をしてくれて、時々それをわたし、紅茶なんか飲みながら聴けたりなんかできたなら、なんて貴重で、価値のあることだろうって。それを娘に話したらね、『ふぅん』なんて素っ気なく言っただけだったんだけど、それで気が楽になったのか、先週ピアノ講師からわざわざ電話がきて『突然どうしたんですか? 急に音がのびのびして、巧くなっていますよ!』って言われたの。わたし、すごく嬉しかったのだけれど、なんだか皮肉なモノだなって思ったわ。だって、期待なんかしない方が伸びるなんて思わないじゃない?」わたしはそれに対し、でも、それはある種の反動のようなモノじゃないかしら? と返しました。きっとはじめから自由にやらせていたとしたら、あるいは今まで続けていないかもしれない。ある種の縛りやプレッシャーがあって、それを抱え続けてきたからこそ、伸びるための下地が身についたんじゃないか、と。「なるほど」と彼女は嬉しそうに肯きました。そしてわたしは、ウチの子にもピアノを習わせておけばよかったかもしれない、と言いました。本当に、そうすべきだったと思ったのです。それからあたり障りのない会話を少しだけして、コンクールが楽しみね、と締め括り、電話を切りました。


電話を切り、夕食の支度をしながら、わたしは息子が自宅でピアノを弾き、その傍らで珈琲を啜る自分の姿を想像しました。なんと素敵な光景でありましょうか。まるで平穏や幸福そのモノ、最近教養系のテレビ・ショウで見知った情報によれば、左右の指を使って脳の全体を刺激してくれるピアノは左右の脳の連動性を高めて記憶学習や新たなアイデアの発想にも役立つとわかっているらしく、やはりウチの息子にはピアノをやらせておくべきだったのかもしれない、と強く思いました。いや、モチロン、百メートル走という競技そのモノにケチをつけるわけでなく、ただわたしの価値観のなかで、脳裡に浮かぶ光景と較べてしまうと、全力疾走をする息子を見ながら熱い珈琲を嗜むというのはあまりにそぐわない行動様式であり優雅に目を瞑る時間もありませんから、やはり我が子にはピアノもやらせておけばよかったかなと思ってしまう、ただそれだけの話でございます。


そういった後悔めいた思いのせいと言うわけではないのですが、わたしは息子が公式戦で走る姿を未だ一度も見に行ったことがありません。以前も申しましたように、わたしは専業主婦でありますから時間をやりくりして、いえ、実のところたいしたやりくりなどせずとも観戦に行くことは可能なのですが、わたしの目の前で転倒したり怪我などをしたらどうしよう、とか、時間をかけて見に行っても息子の勇姿を見られる時間は十五秒にも満たない時間だし、とか、だいいち息子が「来ても面白いモノじゃないから」と暗に来ないで欲しいと言っているような気がしていたりとか、様々な理由が重なり、賞状やメダルというカタチでしか我が子の努力の賜物を見ていないのです。わたしが義姉に伝えた言葉を改めて鑑みれば、あるいは息子の実力が息子の望むレベルに伸びていかないのは、わたしのもとより陸上に対して期待や希望を示さない消極的姿勢のせいではないかしら、だとすれば、それこそ皮肉であり、なんと残酷な現実であろうかと今になって思い至りました。何度か夫に「走るところ、見に行ってやったら?」と言われたこともありましたが、何か理由、――いや、そのような綺麗な言い方をしてはいけないことはわかっています。わたしは何かと言いわけ――を見繕ってはその機会を設けてきませんでした。それを思い返してみれば、目の下に作ったくまを日々濃くしていく我が子を見て何かと口喧しく声をかけるわたしより、「放っておいてやりなよ」と無関心を疑いたくなるような言葉を吐く夫の方が息子をより理解し、その未来を応援し、その存在を愛しているのではないか、そんなふうに思えてなりません。いいや、断じてそんなことはない! わたしの心の九割は全身全霊でそう叫ぶのですが、その声の主にしたところでたいした根拠を持ち合わせているわけではなく、残りの一割が小声で呟く「そうじゃない、なんていったい誰が言い切れるのよ?」という呪詛に気を取られて、火にかけていたおからをいささか焦がしてしまいました。


わたしは、母親失格なのではないかしら?

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