第6話(正平視点)

足元にはクラウチングブロックがひとつセットされていた。大会が目前に控えているから、これまでの努力の集大成、つまりは現時点で颯太やその他猛者たちに通用する実力に正平が達しているか否か、タイムを計ることになったのだ。傍らには東海林が立っている。時刻は午後の七時を回り、辺りは暗い。いつの間にか他の生徒たちは帰ってしまったらしい。グラウンドには東海林と正平、ふたりきりになっていた。風は凪ぎ、タイムを計測するにはうってつけのコンディションだった。


「準備はいい?」いつもの微笑を浮かべ、東海林が言った。


正平は、はいと肯く。と、同時に東海林の手に握られたモノに目がいった。


「何ですか? それ」

「あぁ、これ」と言って東海林は正平にそれを見せた。暗くてよく見えないが、サイズの割に重量がありそうだった。「空砲だよ。今日のために用意しておいたんだ」

「今日のために、わざわざ?」


そのシルエットは正平が知っている空砲よりもいくぶん大きいように見えた。親指でかちり、とセットして人差し指でトリガーを引く以外の機能がついた最新式のモデルなのかもしれない。しかし、陸上競技用の空砲に「ぱんっ」と乾いた音が鳴る以外のどんな機能が必要だというのだろう。だいいち、あんなにシンプルな構造のモノに最新式なんて概念があるのだろうか? 最新式が五十年以上前から使われているモデルだ、ということだって充分ありそうな話だ。


正平はかぶりを振ってそれ以上空砲の進化の実態について考えることをやめた。競技者にとって大切なのは、空砲のフォルムや歴史ではなく、それが放つ音のみである。いったいどれだけのランナーが空砲をまじまじと観察し、その変遷について真剣に考えたことがあるだろう? それらをしたことがないのは、彼ら彼女らにその必要がなかったからに他ならない。


正平は脚をクラウチングブロックの上に乗せ、ゆっくりと跪いてから地面に両の手をつけた。すべてではないが、結果のひとつがここで出る。今までやってきたことの、そしてこれから自分が歩む道の。大丈夫、大丈夫、正平は自分にそう言い聞かせる。動悸がいやに大きい。呼吸だっていつもは無意識でしているはずなのに、なんだかぎこちない。落ち着こう、いつも通り、平常心。東海林がレディ、と告げる。正平は目を開ける。自分がいつの間に、瞑目していたことに気づく。集中力が散漫になっているのだ。大丈夫、大丈夫。東海林がセット、と言う。硬い声。正平は臀部をあげる。夜。風はない。世界が草葉の陰から覗くような静寂。


沈黙。


反射的にスタートを切った。凄まじい音が聞こえた。空砲にしては大きすぎる、何より鋭さと重さを併せ持った音。聞き馴染みのある、あの乾いた「ぱんっ」とは一線を画していた。トタン屋根に思いきり木刀を振り下ろしたかのような、そうでなければ銅鑼をすりこぎでひっぱたいたような、ともかく尋常でない音が聞こえた。しかし正平は、反射でスプリントを開始していた。とにかく、大事なのはタイムである。空砲の音がよく知っているそれとは違くたって、それはたいした問題ではない。どんな音を出されようが、今はいいタイムが出ればそれでいいのだ。土を蹴る感触はわるくなかった。顔にかかる空気の抵抗も心地よい。あの銃声めいた音が背中を押してくれたのかもしれない。


銃声?


そう思い至った途端、左側の地面が持ちあがりはじめた。グラウンドが正平に迫っている。いや、違う。正平の身体が左側に倒れかけていると気づくまでにそう時間はかからなかった。なんとかこらえようと正平は左脚を踏ん張ろうとした。しかし、うまくいかない。力が入らないのだ。止まるには速度が出すぎているし、受け身を取るには既に手遅れの体勢だった。正平は地面に思いきり胸から滑りこむこととなった。不思議と痛みは感じない。ただ膝や掌に喰いこむ砂粒の感触が生々しく、無様に転んだことが恥ずかしく感じられた。いったい、何が起こったのだろう?


東海林が立っている地点に視線をやった。暗いせいで彼の表情は見えない。双眸だけが遠くで揺れるロウソクの灯のようにぼんやりとした光を放っている。彼の右手、そこにある空砲の先からひと筋の煙が立ち昇っていた。その煙の部分が夜の帳に走った罅の跡のように、辺りの闇に較べて明らかに深い黒であった。どうして陸上競技用の空砲からそんなに黒々とした煙があがるのだろう? いや、正平はわかっていた。それが空砲などではなく、まったく別の機構を持ち、まったく別の名を冠されたシロモノであると完全に理解していた。耳に残る音の余韻が、力の入らない左脚に感じる生あたたかさが、それは拳銃であると告げていた。


「どうして」と正平は言った。何に対してのどうして、なのかは自分でもわからなかった。どうしてそんなモノを持っているのか? どうして撃ったのか? いや、きっとそんなことを聞きたいわけではない気がする。しかし、その疑問の旗が突き刺さっている地点をうまく見定めることができない。ただ、混乱の渦中からかろうじて浮かびあがってきた言葉が、どうして――それだけだった。


東海林は何も応えない。

不穏な沈黙。


闇の沼を泳ぎきって鼓膜に侵入してきたのは、人参の頭を出刃包丁で斬り落とした時のような音だった。ぞり、ぞり、という生命の最後のしるしを断ち切るような音。そしてそれが鼓膜をノックするたびに音の発信源が近づいてきていることがわかった。東海林がこちらに歩み寄ってきているのだ。近づいてくる死神の吐息は彼のスニーカーが砂利を踏みしめる音だ。


逃げなくては、と正平は思った。


しかし身体がぴくりとも動かない。撃たれたはずの左脚に不思議と痛みはなかったが、力がまったく入らないのだ。その上無傷なはずの右脚も両の腕にも力が伝わらない。動け、と正平は思う。早く逃げろ、と強く思う。しかし身体は動かない。血が出すぎているのかもしれないし、恐怖に依って筋肉に出ているはずの電気信号が絶たれているのかもしれない。痛みがないおかげか正平の思考は大蒜と背脂を売りにしたラーメン店の利用客くらいよく回転した。とはいえいくら頭が回ったところで立ちあがれもしないことにはしょうがない。早くここを立ち去らなければ、大蒜だろうが生姜だろうが、それらを口にすることは二度とできなくなるかもしれないのだ。


およそ一メートルといったところか、近づいてきた影がそれだけの距離を置いて動きを止めた。

「才能もないやつが目障りなんだよね」低く、冷たく、そして硬い声。春の曇り空から突然降ってくる雹みたいに攻撃性を孕んだ声が飛ばされる。「まったく、時間の無駄だったよ」かちり、という金属音。ちいさいが、存在感のある音で響く。「叶うわけない夢ばかり抱いてさ」下げられていた右手が持ちあげられるのがわかる。「俺が、諦めさせてあげるよ」


正平は、向けられているはずの銃口を見あげた。すると、その、直線上にある一対の瞳と目が合った。一瞬、思考が止まる。思わず息を呑む。また、どうして、という言葉が吐いて出る。


どうして?


そこには正平の母がいた。

「もう、おしまいだから」


そこで正平は目が覚めた。

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