第5話(母視点)

来し方を振り返ってみると、わたしの息子は昔から天才、そして普通や平凡という言葉に敏感だったように思います。その言葉たちに反応する意味は別で、しかしその理由は同じモノで。傾向としてはモチロンスポーツ選手が多かったのですが、将棋界や芸術の分野で活躍する人など、ジャンルや活動の幅に拘わらず、天才と称される彼ら彼女らが出演するドキュメンタリー番組などを、それこそ齧りつくように見ていたものです。天才と呼ばれる人と自分との違いは何か、その淵を埋める方法、そのヒントのようなモノがどこかに隠されていやしないかと切実な表情をしながらテレビの画面を見詰めていました。それはもはや、羨望や憧憬というにはあまりに生易しく、普通であること、異端でないことを恥じてすらいるようであるのです。才能人に産まれたかったという気持ちを、わたしもまた人混みに紛れれば見つけ出すのに容易でない人種のひとりとしてわからないではないのですが、息子のそれは尋常ではないと思わざるを得ないのです。



たとえばこんなことがありました。


あれはたしか息子が中学一年生の頃だったでしょうか。当時、彼が所属するクラス内でいじめが起こり、そのいじめを受けた生徒が不登校になってしまったのです。いじめを行っていたのはいわゆるイケてるグループ、つまりスクールカーストの上位に君臨する男女数名で、いじめを受けていた生徒が学校に来なくなってすぐに「教師に何か訊かれてもチクるんじゃねぇぞ」といじめの存在を認知していたクラスメイトたちに釘を刺して回っていたようです。呪いの藁人形よろしく、その釘の効果は絶大で、ほとんどの生徒たちは学校が行った『いじめ調査アンケート』に無記入、あるいは無関係・無知の旨を記入して提出しました。しかし、あぁ、我が息子! わたしの息子は、その鋭利な排他性に屈さず、能う限り知っている情報を記した数少ない生徒のひとりでした。そこで万が一にも彼に人間関係上の被害が及ばないようにとの学校側の配慮から、日曜日に息子は「詳しい話を聴かせて欲しい」と、わたしといっしょに呼び出され、事情を聴いた先生方は、よくわかったと肯き、息子の勇敢な選択を讃えました。わたしも実のところ、我が子の取った正しい行動に、いくぶん誇らしい気持ちを抱いたものです。しかし、息子はことが起きている時に何もしなかった自分を恥じていました。後出しジャンケンで以て、誉れを受けている自分のことを。当時の担任教師は言いました。「気にすることはない。多対一でいじめに立ち向かうなんて、普通の生徒にはなかなかできることじゃない」と。しかしその言葉は、息子をひどく傷つけたようでした。慰めの言葉に含まれていた普通という単語が、息子にとっては烙印のように胸に焼きついたのでしょう。その日は浮かない顔をしたまま帰路を辿り、夕食も摂らずに息子は布団に潜りこんでしまいました。数日後、件の不登校になった生徒は隣県に引っ越したと聞きました。


わたしの息子はその日以来、普通から逸脱すること――それに固執するようになった気がするのです。



そんな息子に、どこか危うさを感じてしまうのですが、わたしはもうひとつうまい言葉をかけてあげられないでいるのです。だって、「自分が平凡でさえなかったなら、そのクラスメイトは転校などせずに済んだのかもしれない」と我が子が思うのは、あくまで正義感の発露でありますから、オマエは間違っている! などと頭ごなしに押さえつけるわけにはいきません。かといっていじめっ子の徒党にひとり立ち向かい、孤軍奮闘できるのならともかく、悪意の矛先が我が子に向いてあっという間に返り討ち、件の不登校になった生徒の二の舞を演じる羽目にならないとも限りませんから、「正義漢たることに躊躇してはいけない」などとは口が裂けても言えません。世間一般のお母様方がどうお考えかはわかりかねますが、わたしはテレビのニュース・ショーが報じる事件や事故を目にするたび、その被害者が我が子でなくてよかったと胸を撫でおろしてしまう卑しい人種なのです。それと同様、国内外問わず何かしらのプロフェッショナルとして活躍し、天才と持て囃されている若者を見ると「きっと誹謗中傷の類も凄まじいのだろう、プライヴェートの時間すらあってないようなモノよね」と考えてしまい、『天才の育て方』だとか『○○はいかにして天才になりしか』とかいった書籍の類にはコショウひと振りほどの興味も抱けないのです。そんなわたしと息子では、平行線どころかほとんどねじれの位置に価値観があるようなモノですから、どこに立場を置いて、どのような角度から何と言葉をかければいいのか皆目見当がつきません。


そんなわたしの懊悩を知ってか知らずか、息子はより一層陸上に心血を注いでいます。部活動で充分練習をしているはずなのに、夕食を終えて暫くすると「走ってくる」と言って夜の公園に繰り出し、また暫くして帰ってくるや息を荒らげては汗まみれ。疲れて勉強が手につかないのではないか、無理をして怪我をするのではないか、夜道にひとりでいたら加減の知らない少年窃盗団になけなしの財布を強奪された上で叩き殺されるのではないか――心配事は枚挙に遑がありません。夫には何を訴えても「最後の夏前なんだから邪魔しちゃわるいよ」と、まるで男同士で秘密の協定を結んだのではないかと疑いたくなるようなことを軽々と吹かし、「ほら、青春って密なので」と煙に巻く始末です。心做しか息子の顔が窶れたようにも見えますが、果たして親として母として、わたしはいったい彼に何をしてやれるのでしょうか?

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