第3話(母視点)

義理の姉の言葉を借りるのであれば、わたしは「我が子の才能を認めてあげられない親」の方に分類されるのだと思います。しかしその類の親のなかにもいくつかのタイプがあり、たとえば、本当にたしかな才能がその子に具わっているにも拘わらず、その才能によって親としての尊厳や面子が脅かされるのではあるまいかと怯えるあまり我が子の才能を認めてあげられない、出る杭はたとえ実の子であろうと打ちのめす親――という例があげられますが、モチロンわたしにそのような傾向はありません。息子は陸上部に所属し、百メートル走を専門にしていますが、わたしは運動の方がからきしでして、潰される面子とやらをそもそも持ち合わせていないので、そういった虚栄心や自尊心のために我が子の可能性の芽を摘むような質ではないと思います。なれば件の問いに対し、わたしが前者に属すると自認せしめる根拠は何かと申しますと、わたしは我が子に何かしらの才能があるとは思えていないからなのです。


モチロン、何も「ウチの子は何をやっても駄目だ」などと思っているわけではありません。運動も勉強も平均に較べたらうまくできる方ですし、人並みの優しさやコミュニケーション能力も具えていると、親莫迦に思われるかもしれませんが、そう思います。音痴という難点はおそらく今後の人生設計に大きく陰を落とすモノではないでしょうし――そこは夫に似たようです。夫も歌は不得手ですが会社でうまくやれているようですから――彼女が今のところいないという点についても本人にとっては忸怩たる思いがあるようですが母親としては安心、あ、いや、とにかく焦る必要はないことだと鷹揚に構えています。そうです、わたしの息子は大いなる才能に恵まれていないだけなのです。そして、それでいい、過不足がなければそれでいいのです。わたしにとって、母親という生きモノにとってはそれで充分なのです。五体満足に産まれ、いわゆる不良になる兆しの片鱗も見せず、健やか且つ平々凡々に成長を見せてくれる息子――それでいて何の不満や文句がありましょう。今以上を望むなど、どうしてそんなバチアタリなことができましょうか。その平凡性に胸を張れないことはある種の不幸と言って違いないはずなのです。


しかし哀しきかな。


息子はそう考えません。

明言したことこそありませんが、彼は陸上競技に青春はおろか人生までも捧げるつもりでいるようなのです。たしかに息子は速く走ることが平均よりも得意であり、大きな記録会への出場経験もありますが、決して世界で通用するような、それどころか国内同世代のなかでトップスプリンターですらありません。にも拘らず、いや、だからこそと言うべきか、「他に取り柄もないから(わたしはそんなふうには思いません、モチロン)唯一得意と言える陸上を究めるしかない」と思いこんでいるようなのです。他の道も数多くあるのだと、何を究めるでもない平凡な人生も決してわるくないのだと、わたしが伝えてみても息子は聞く耳を持ちません。表面上「わかっている」と口先だけで肯くものの本心では舌を出しているのが丸わかりなのです。


その道でごはんを食べていく、その厳しさを息子が理解しているとはどうしても思えません。自分ひとりだけで生きていけるのならともかく、おそらくそうはいかないでしょう。妻子ができればその糊口をつながなくてはなりませんし、わたしたち親だっていつまで元気で生きていられるかもわからないのですから。たとえ汎用性の渦の中心のような人生であっても、その営みがどれほど尊く大変なことかをもうすこし彼に考えて、わかって欲しいものです。


その上、進路はどうしようと思っているのか? と訊ねたあたりからでしょうか、近頃以前にも増してわたしの話をまともに聴いていない気がしてなりません。まさか、勝手に鞄を覗いたのが露見したとは思えませんし、他に何か、著しく気に障ることをした覚えもありません。年度の節目、そのタイミングで部活の指導者が変わったようなので、そういう変化の諸々や受験生特有のストレスが彼の双肩にのしかかっているのでしょう。とはいえこの大切な時期にきちんと会話ができないというのは問題です。


そこで、異性の親では話しにくいこともあろうと、夫に息子と会話をしてもらえるよう説得を試みましたが面倒臭がっているのか、あるいは本気で楽観をしているのか、「まぁなるようになるよ」と取りつく島もありません。陸上を生計の道に選ぼうとするくらいなら、手に職をつけてくれた方が安心だ、とわたしが零すと夫は「腕一本で喰っていくより脚二本で喰っていくって方が馬力はありそうだ」と冗談を宣う始末。馬力があって金や米が転がりこんでくるのならば不満も不安もありませんが、この資本主義の世ではそういうわけにもいきません。「俺たち親が、そう齷齪しても仕方ないよ、決めるのは結局あいつなんだから」と夫は言い、そのように鷹揚に構えることもひとつのたしかな見識というモノでありましょうが、人生の綱渡りに参加しようとする息子をみすみす往かせることが果たして親の務めなのでしょうか。我が子が大きな後悔をする可能性が少なくない確率で横たわる道に笑って送り出せる親がどれほどいると言うのでしょう。


いまさらながら詮なきことを言えば、どうして百メートル走などを選んだのかしらと考えてしまうのです。いえ、何もスポーツのなかに貴賎があるとか、そういうことを申しているのではありません。しかしそもそもこれが野球やサッカーであったなら、大人の休日の趣味として気の合う仲間と集う――そうやって交友関係を拡げる手立てのひとつにもなったのに、と思うのです。同じ陸上競技であっても、せめて長距離走であったなら話はまた違いました。近年、健康維持のためにジョギングをする人も増えていますから、その他球技と同様の効果を期待できますが、休日に集まって百メートルを全力疾走し、そのタイムを計測するという話はちょっと聞いたことがありません。そういう方々がもしも存在したとして、それは決して和気藹々としたモノではなく、あくまでもストイックで心身共にタフネスを要求されることは容易に想像がつきます。それで予定外にも健康を損なうようなことがあったなら、それこそ堪ったものではありません。


それに、たとえば幸運にも陸上で大学に入り、あるいは実業団スプリンターとして就職が決定したとして、選手生命を断たねばならぬほどの怪我を負ったならばどうすると言うのでしょうか。そこで人生設計のすべてが狂うなんていう話はいくらでも耳にしますし、いくらでも聞くことだからといって我が子がその当人になることを受け容れられるわけではありません。

しつこいようですが、これが球技やランニングの類であったらば、地域の少年少女のためのスポーツ団は数多くありますから、待遇に贅沢を言わなければ競技に携わり続けることは難しくないでしょうが百メートル走となると話はうまく運びません。


姪は結局、義姉の希望もあってピアノのレッスンを継続することに決めたらしいのですが長いことやっていれば音楽の教諭や町のピアノ講師など、つまり有り体に言えばつぶしが効きますからその決断に後悔する可能性はほとんどないと言っていいでしょう。しかし繰り返し申しあげている通り、わたしの息子は他に転用のしようもない――あるいはそれはわたしが知らないだけで、転用の道があるのかもしれませんが、わたしの想像の釣り針に引っかからないほどにマイナーな道だということです――百メートル走ですので、そこに費やす時間を勉強か何か他の日常生活において実際的に役立つモノに回していたのなら、と考えてしまうのは親としての致し方なき人情というモノではないでしょうか。


どのような人生を歩むにせよ後悔のまったくない人生というのは存在しませんから、我が子にはせめて、酷い親だ、煩い親だ、と詰られ憎まれ恨まれたとしても、人生そのモノを蝕むほどの大きな後悔だけは味わわせたくない――そのような老婆心、親心がどうしても息子にだけは伝わらないように世界は回っているのです。

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