第2話(正平視点)

僕は天才に産まれたかった。

佐藤正平は、ことある毎にそう考えた。


何の? と問われれば、何だっていいと応える。そう、何だっていいのだ。たとえば、容姿。たとえば、スポーツ。たとえば、音楽、文章、ゲームでも学問でもいい。テレビやスマートフォンから入ってくる洪水のような情報のなかに、自分と同世代で国内外を問わず第一線で活躍している天才たちを見ると、その内容、活動の幅に拘わらず、彼ら彼女らの才能に憧れ、羨望を抱き、終いにはいつも筋合いのない嫉妬を抱く。


唯一特技と呼べるモノは陸上競技の短距離走であるが、とはいえそれも突出しているとは言い難い。去年、一昨年と各大会、茨城県・県北地方予選は上位通過だったものの、県大会ではベストエイト入りがやっとだった。中学時代は競技人口がすくなかったおかげもあり、関東大会の決勝の舞台に立った経験もあるが、そのような場数の差は才能の爆発力の前にはあまりに無力だった。この二年、自宅のリビングには中学時代のささやかな栄光の脇に、あまりぱっとしない成績の賞状がいくぶん居心地わるそうに並べていくばかり。モチロン同級生のなかでは一番脚が速く、「やっぱりすげぇわ、適わねぇや」と体育の時間や体力テストの際に言われることもあり、その時は当然わるい気はしないが、かといって高校生ともなれば脚が速いというだけで異性の劣情をくすぐれる齢ではとうになくなり、早い話がただの『学年で一番脚が速いヤツ』である。そんな者は日本に存在する高等学校の数だけいるわけで、実に普通、何の特別感も有してはいない。


だいたいが佐藤という苗字である。何十年に渡り日本人性ベストフォーに君臨し続けている苗字界の圧倒的マジョリティ。学年に必ずひとりふたりはいるザ・普通の苗字。ごくありふれた存在のなかのひとりであることを産まれながらに、いや、寧ろ先祖の代から呪いの如く宿命づけられているような気もしてくる。そして極めつけの正平である。両親はいったいどういうつもりで『正しく平凡』の略としか思えないような名前を息子に冠したのだろう。


なかには県大会ベスト八という結果を「充分すごいじゃないか!」と手放しに讃えてくれる人もいる。しかしそういった言葉をかけられればかけられるほど、自分の上には何十人という同級生スプリンターがいるのだという事実がより重量のある現実感を伴って正平の心にのしかかってきた。「平凡が一番難しい」だとか「それはきっと正しい平和、の略だ」とか言う者もいたが、それらはモチロンたいした慰めにはならなかった。彼が欲するのは言葉でなく、圧倒的な才能のみ、しかし、そう考えてしまうこともまた月並みであると正平はきちんとわかっているのだ。



正平はつい先日、高校三年生に進級した。それはつまり進路を決めるという大問題が一年の猶予も残されていないところまで差し迫っているということだ。彼はどうしたものかと思い悩んでいた。声を大にして言ったことはないが、正平は陸上競技に携わることを生計の道にしたいと考えている。それ以外に彼が打ちこんできたと言えるモノはないし、中の上レベルとは言え人より優位に立てるモノもまたそれ以外に見当たらないからだ。しかし彼の親は違う見解を持っている。そこそこの大学に進学し、そこそこの企業に就職をして、そこそこの年齢になったらそこそこ綺麗な女性と結ばれ、とびっきりかわいい孫の顔を見せて欲しい――そのようなことを明確な言葉も素振りもなく、それとなく向けてくる視線で暗に伝えてくるのだ。せめて我が子には安心・安定・安寧の、山も谷も限りなくすくない人生を歩んで欲しいという親心もわからないではないが理解と納得とはまた別の次元の話である。納得しかねる気持ちにチラとでも感情の水撒きをしてやれば、それではそういうツマラナイ道を歩めるようにと正平なんて冗談みたいな名前をつけたのではあるまいかと邪推の芽を吹き、抗い難し運命であればこそ抗い甲斐もあるというモノ――この頃ではそんな反骨の蕾も顔を出し、以前にも増して陸上の練習に熱をあげていた。


とはいえ短距離走の世界で口に糊する道といえば、プロ・アスリートになるか実業団アスリートになるか、あるいは指導者になるかしか選択肢はない。いずれにせよそれなり以上の実力と実績とが必要になってくるわけで、モチロンそのような華々しい結果と正平は何千光年もの距離を隔てていた。スポーツ推薦で強豪大学に入れそうな望みもコスモスの花弁みたいに薄く、通っている高校は特段スポーツに力を入れているところではないから何かしらのコネクションも期待できない。「ふつうのサラリーマンになんかなりたかないぜ!」という、これまたひねりのない気骨だけでどうにかなる状態ではないのだ。今年行われる高校生活最後の公式戦――つまりは夏の大会の結果にすべてを委ねる他ない、それが正平の現状であった。そんなほとんどギャンブルを両親や教師陣に表明できるはずもなく、彼は先週配布された『進路希望調査用紙』なるモノを白紙のまま鞄のポケットに突っこみっ放しとなっていた。



そんな懊悩を抱えたある月曜日のことである。

正平が通う高等学校はどういうわけか毎週月曜日にすべての部活動が休養を余儀なくされていた。実践的な英語教育に力をいれている(とされている)いわゆる自称進学校で、「週のはじめこそ学生の本分たる学問に力を入れられるように」との元学長の思惑からそのようなしきたりが確立されたらしい。しかしモチロン、そのような大人たちの配慮は十全に生徒たちへ伝わっているとは言い難く、あるいは充分に理解はしていても尚、友だちとのカラオケやプリクラ撮影に血道をあげたり、小遣い稼ぎのためのアルバイトや恋人との青臭い閨房に勤しむ少年少女が後を絶たなかった。にも拘らず、正平はその日、どこに寄り道をするでもなく帰路を辿っていた。別に優等生ぶるわけでも奇を衒うつもりもなく、単にデェトをする彼女がいないというだけのことである。友人ともなんとなく遊びに行こうとはならなかっただけで、人間関係の構築能力に著しい問題が生じているわけではない。



ともあれ、そんな月曜日のことである。

正平がただいま、と玄関を抜けてリビングに行くと、母親がいやに神妙な面持ちで、且つ背筋をミーアキャットみたいに伸ばしてソファに座っていた。おかえり、と応えるでもなく、「荷物置いて、手洗ったらちょっと話があるんだけど」と母は言う。そんな実母の姿にある種の異質さを正平は感じた。おそらくは姿勢がよすぎるせいだろう。ロイヤル・ミルクティー色をした革張りの三人がけソファに、体育祭の来賓に呼ばれた若手市議会議員のような佇まいはあまりにミスマッチだった。ソファというモノは深く座って背を凭れるか、そうでなければ煎餅でも齧りながら寝転び寛ぐための家具なのだ。どんなに一流のソファ制作職人でも座面と垂直で座られることを想定して設計はしないだろう。ソファ自身でさえ、経験のない体重のかかり方に驚きを覚えているに違いない。改まってなんだろう? と一瞬訝しく思ったものの、特に拒む理由のひとつも見つけられなかったので正平は手早く着替えやら何やかやを済ませて母の向かいに腰を下ろした。


「進路のことなんだけど」と母は切り出した。「どうするつもりなのかと思って」


随分とタイムリーな話題だなと思い、正平は応えに窮する。かろうじて「急に何?」と乾いた声を絞り出した。


「急じゃあないでしょ、ぜんぜん。アナタもう三年生なんだから。進路希望調査用紙には、一体なんて書くつもりなのよ?」

「調査用紙? どうしてそれを?」と正平は声を裏返す。どうしてそれを?

「あなた、まだ提出していないんですってね。担任の先生が気にして電話をくださったのよ。『親御さんともよく話し合って、本人に後悔が残らないように』と仰っていたわ」


正平は首を傾げないわけにはいかなかった。あの担任が? 彼はいつも眠たそうな目をした中年の生物学教諭を思い浮かべる。どうにも信じられない。担任になってからまだ数週間なので詳しいことはわかりかねるが、そういった熱血性を持ち合わせ、生徒自身や生徒の保護者に干渉をするタイプにはまず見えないのだ。その上、提出の期限は今週の金曜日までだから未だ提出がされてないとはいえ、このタイミングで催促を受ける――それもわざわざ電話で自宅に――のはあまりに不自然である。おそらくは昨日あたり、僕が部活に行っている間に母が勝手に鞄のなかを覗いたのだろうと正平は考えた。母親という生命体は息子の秘匿しておきたい何かを悉く暴き立てることを生き甲斐にしているきらいがある。そしてそれを何喰わぬ顔でからかったり元に戻してあったりとどう対応してくるのか推測できないところもまた畏ろしい。学校から帰宅するや、本棚の裏に潜ませておいた桃色書籍が枕元に移動されているのを見たのも一度や二度ではないのだ。今回は直截にぶっつけるのは憚られるが何も聞き出さないわけにもいくまいと考え、適当な話をでっちあげているのだろう。その狡猾さに、腹の底からじんわりと憤りが滲み出るが、正平はそれを呑みこむことにする。文句を言って余計な諍いが勃発するのは彼の望むところではないし、忘れた頃にやってくる仕返しがひょっとするとあるかもしれないからだ。

「ちゃんと受験して、大学に行くよ。そのために勉強もそれなりにやっているんだからさ」と正平は言った。嘘ではない。前回の全国模試でも、そうわるくはない点数を取れていた。モチロン名門大学と呼ばれるところへの進学は到底不可能だが、条件に贅沢を言わなければいくらでも選択肢はある。そこには無論妥協というしこりが潜んではいるのだが。


「部活が好きなのはわかるけどね、もうすこし受験生っていう自覚を持ってちょうだい。もっと頑張って勉強すれば、よりよい大学に入れる可能性はまだあるんだから」


「わかってるよ」苛立ちを押し殺して正平は言った。よりよいってのはいったい誰にとってだよ――喉元にせり上がる文句もぐっと堪える。「ちゃんと頑張るからさ」、モチロン、陸上の話だ。

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