太陽に嫌われたこども
太陽に嫌われたこども(1)
道路の真ん中に横たわるのは、白く美しい翼を折り畳んだ天使だ。
いつか見たあの光景に似ている。
しかし、道行く人間はその姿に見向きもしない。まるで天使が見えていないかのように。
虚ろに揺れる瞳は、こちらを見ているような気がした。
じわりと広がっていく赤が、嘘みたいに溢れて止まらない。
やがて道路一面を赤に染めて、波のように押し寄せてくる。
逃げる気は起きなかった。何故だか飲み込まれても良い気がしていた。
真っ白な体が赤い海に沈んでいく寸前。
天使は小さく笑った。
「…………」
時計を見ればまだ時刻は朝六時を少し過ぎたところだった。
不思議なことにはっきりと目が覚めてしまい、今まで見ていた夢のことも、朧気にだが思い出すことができる。
体育祭当日。今日は休むわけにはいかなかった。
自ら引き受けた役目があるのだから。
事は二週間ほど前まで遡る。
「さて、来月半ばには体育祭が行われますが、そろそろ選手・役員決めをやろうと思います。月守、本庄、進行任せていいかな」
「はい」
担任の生島が学級委員二人の名前を呼び、月守羽留と本庄霞が席を立つ。学級委員はクラスから男女一人ずつ選出される。下田は月守のノートを確認しつつ、名前と顔を一致させる。
本庄霞は優秀な生徒だ。成績も授業態度も申し分ない。両生類好きと書かれたメモから多少変わり者のイメージはついたものの、クラスをまとめられるしっかりした生徒であることが窺える。
本庄は柔らかな黒髪を揺らしながら教卓前まで来ると、資料を読み上げ始めた。
「体育祭では一人ひとつかふたつ、競技に出てもらうことになります。今から読み上げるので、月守くん書いてもらえるかな」
綱引き、縄跳び、百メートル走、クラス対抗リレー、騎馬戦。順番に書かれた種目は正直どれもやりたくはない。運動が苦手なわけではないが、極力面倒なことは避けたいのだ。
下田が頬杖をついてどれが一番ましかと悩んでいる間にも、話は先へ進んでいく。クラスの大半は体育祭に乗り気なようで、選手の名前はあっという間に埋まっていった。
「残りが騎馬戦とクラス対抗リレーだけど……」
「リレーは代表四人なんでしょ? 速い人のほうがいいんじゃない」
「でも、まだ何も決まってないのが佐久間くんと下田くんで……」
「はいはいー、月守もじゃね?」
手を挙げたのは佐久間だった。ひらひらとその手を振って、にやりと笑う。
「俺騎馬戦出るよ。リレーは下田と月守は決定で、他は速いやつで決めればいんじゃね?」
黒板に名前を連ねていたはずの手が止まる。月守が何か言いたげに振り向くと、生島が多少言いづらそうにしながらも立ち上がった。
「あー、月守は今回は参加しないんだ。入学式の時も言ったはずだが、日中外に長時間いることができない体質なんだそうだ。だから月守には他の準備を手伝ってもらうことになっていて」
「長時間が無理ならリレーの時だけ出ればいいじゃん。なあ?」
「え、っと……」
「つか、暑い中何時間も外にいたら誰だって体調悪くなることあるだろ」
「あ、あの、暑さは関係ないんだ」
「でもちょっとならいいんだよな? だいたい、外にいるのだめなら登校だってできてないはずじゃん」
月守はまた黙ってしまう。どう説明しようか、考えあぐねて、言葉が出てこないといった風に。
「はい、決定な。一種目なんだからいいじゃん。せっかくの体育祭なんだから参加した方が楽しいぜ」
満足気に話を終わらせて進行を促す佐久間だったが、次の瞬間黒板に書かれた文字を見て唖然としていた。
「おれ、佐久間くんとなら走ってもいい。それでどう?」
「……は? なんでそうなるんだよ」
クラス対抗リレーの文字の下には、佐久間、月守と続けて書かれている。
「下田は騎馬戦でもいい?」
「……へ、あ、ああ。別にいいけど」
突然話を振られた下田は二重に動揺した。月守の考えていることがわからない。
「おい、勝手に話進めんなよ!」
「勝手じゃないよ、おれは聞いてるの。佐久間くんは、おれと一緒に走ってくれる? クラスの勝利を賭けて。その責任を背負って」
「ああもう知らねえよ、勝手にすれば?」
「月守、大丈夫なのか?」
「佐久間くんの言う通り、自分の番で少しだけなら、なんとかできるかもしれないです」
心配そうに眉を下げた生島に、やけに強気な声で、月守は力強く頷いた。
「お前あんなこと言って大丈夫なのか?」
そういえば以前、外はだめだとかなんとか、海沼も言っていたような気がする。
入学式に遅れて来たため下田は詳細を知らない。
しかし、海沼が言うのだからそう簡単に扱っていい問題ではないのだろう。
「悔しくって」
「……は?」
「あそこで折れたら、負けちゃうみたいで悔しい」
「お前にも悔しいって感情あるんだな」
「おれだって負けるのは嫌だもん! それに体育祭、参加したら楽しそうだなって思ったから」
月守は心から楽しそうに笑って、それから下田の耳元で囁いた。
「先生にはナイショにしてね?」
「……はあ」
月守はたまに変なスイッチが入る時がある。唐突というか、脈絡がないというか。
先の読めない突拍子のなさは、月守の印象をわからなくさせる。
何を考えているのかわからなくて、何のためにそうしているのか理解できない。
下田は迷っていた。この件の深刻さを自分は知らない。
月守が言う通り、少しなら大丈夫なのか、それとも海沼が止めたように重く受け止めるべきなのか。詳細を聞くのもなんだか気が引けて、わざわざ海沼に相談するのも違う気がした。
何より、月守の必死さにまだ圧倒されている。あいつはあんなに体育祭に熱くなる性格だったのか、と。
***
ゴールデンウィーク中頃、下田は最寄り駅近くのカフェまで来ていた。
月守に「大事な話があるから」と言われ、休み前に予定を立てたのだ。
連休でも比較的静かなここでは話がしやすいだろう。
カフェ前の屋根のある場所で数分待っていると、まもなくして月守はやってきた。
「おまたせ下田!」
「お前、さすがにそれ暑くないのか」
月守は長袖に長ズボン、帽子をかぶって目には色付きの眼鏡をかけて、黒い傘をさしてやってきた。
眼鏡は日差しによって色が変わるのか、いつもの形ではあったがオレンジ色が強く出ている。
「ちょっとあつい……はやく入ろ?」
おそらく全ては日除けのためなのだろうが、ここまでの対策をしているということはやはり、そう放っておいていい問題でもないのかもしれないと思い直す。
「お前、やっぱり日中の外出ってきついんじゃないの」
「え、ああ……少しなら大丈夫なんだよ、本当に」
仕切りで区切られた一番奥の席に案内されて、月守はようやく暑そうな上着を脱いだ。
汗がじわりと滲んで、いつも真っ白な顔も今は火照ったように赤く染まっている。
メニュー表を眺めて少し、それほど空腹なわけでもない下田は、後ろのページにあるデザートの中からティラミスに決めて、早々に月守の方へとメニュー表を渡した。
「下田、もう決めたの? はやいね」
「そう長居するわけでもないんだろ。少し食えればいい」
「そ、そっか。どうしよう……」
様々なメニューとにらめっこを続けて、何度も同じページを往復しては悩む月守。
「優柔不断だな、なんでもいいだろ」
「だ、だめだよ! こういうところあんまり来ないから……あ、こっちのケーキもおいしそう」
変な決断だけはやたら速いのに。とは口に出さずにおいた。
結局迷った末に、月守はいちごの乗ったプリンパフェとオレンジジュースを、下田は最初に決めた通りティラミスとメロンソーダを注文した。
大した話をする間もなく到着したデザートたちを眺めて、月守は僅かに眉を下げる。
「……ティラミスもおいしそうだね」
「やらんぞ」
「うん……」
しばらくの間、沈黙が続く。なんとなく、ティラミスをできるだけ細かく口に運んで、食べ終わるまでの時間を引き延ばそうとしてしまう。月守も同じらしく、どこかぼうっとしながらちまちまとプリンパフェを食べ進めていた。
大事な話、といっても思い当たる節はないのだが、至極真面目な顔で言われたので嫌でも身構えてしまう。月守にとっては言い出しにくいことなのだろうと想像はつくが、こちらから持ちかけるのも気が引ける。ひとまず月守が話し出すまでは黙っていようと、なるべくゆっくり食べ続けた。
ティラミスを半分ほど食べ終えたあたりで、月守が沈黙を破る。
「……あ」
「どうした?」
「下にコーンフレークがあった」
「……そうか」
「クリームとプリンと、一緒に食べると美味しいんだよね」
「よかったな」
「…………」
ざく、とスプーンを突き刺して、クリームとプリンを一緒に掬って、しかしそれは口に運ばれることなく、パフェの上に戻される。
「……どうやって話し出せばいいか、全然わかんなくて」
「……」
「気づいたら、一ヶ月経っちゃった」
そう言って月守は話し始める。
一ヶ月というと、ちょうど入学式頃になる。出会ったその時から、ずっと話したかった何か。そう言われてもやはり心当たりは全くなかった。
「おれは、下田のことを信頼してる」
「……おう」
「でも、それはずるい信頼……で、」
信頼にずるいも何もないだろうと思うが、月守は至って真剣に言葉を選んでいる。
うんうんと唸りながら、何度も考えては言葉に詰まってを繰り返し、吐き出す息に言葉を乗せるように。
「すごく卑怯で、すごく、下心がある」
「し、下心?」
まさか愛の告白でもされるのだろうかと身を引くと、月守は間違えたというような顔をした。
「そうじゃなくて、そういうんじゃなくて……えっと」
眉を下げてまた黙ってしまった。何かに怯えるように、少しずつ前進しては、またもとに戻ってしまう。このままでは一生話が進まなさそうだ。
「何か後ろめたいことがあるのか?」
「……! そ、そうかも……」
「俺に対して? お前が?」
「うん……」
大抵、人が心配しているようなことはそう大したことではないと思っている下田は、ただふうん、と続けた。それもこの目の前の大真面目な優等生の月守が言うのだから尚の事。
「別に怒らないから言ってみろよ」
「傷、つけるかも」
「そんな簡単に傷ついたりしない。女の子じゃあるまいし」
「本当に? 案外繊細だったりしない?」
「他人に案外とか言われるとそれもなんか違うけどな」
「あはは……ごめん」
残っていたオレンジジュースを少し口に含んで、それから意を決したように真っ直ぐに下田の方を見つめる。
「……下田の中学時代のこと、なんだけど」
瞬間、思わずはっと顔を上げて月守を見るが、心底困ったように眉を下げて口を噤んだ。
「だめだったら、これ以上言わない……」
「いいよ、続けろよ」
内心ひやりとしたが、あくまでも顔には出さずに話を促す。
「……不登校、だったんでしょ?」
「お……おう」
「お、おこった!?」
「いや、別に……そんで?」
「お、おしまい」
「それだけ?」
「うん……」
ふっと肩の力が抜けた。月守は小さく縮こまって申し訳無さそうな顔をしていた。
「ふ、不登校仲間、なんだよね、おれたち」
ぎこちなく笑って、いえい、とピースをしてみせる。
「お前もか」
「……うん」
意外なような、そうでもないような。これまでの月守の言動を思い出して納得する。
「……同情、か」
「っ……!」
月守は肩を跳ねさせてあからさまに真っ青な顔をした。
「いや、別に悪い意味じゃない。ただ、だからやたらと俺に構ってたのかと思って」
「それだけじゃないんだよ? きっかけは、そうだったけど……だから申し訳ないなって思ってるし、このまま黙ってるの、すごくひどい気がしてた。ごめんね」
「共通点見つけて話しかけるのは誰だってそうだろ。別にそれ以外の共通点はないけどな」
「そういう優しいところも、いいなって思ったんだよ」
微笑みかける月守の白い髪の毛がふわりと揺れる。
「どこをどう聞いたら優しいって認識になるんだよ。お人好しが過ぎる」
「そうかな? 下田はすごく優しいと思うけど」
「……もういいわかった、そういうことにしておく」
このままだと押し問答が続くだけだ。早々にこちらから折れて、残っていたメロンソーダを飲み干した。
月守もオレンジジュースを一口飲んで、それから少ししてまた口を開く。
「……友達が欲しかったんだ。だけどおれ、友達の作り方とかわからなくて。ぼうっとしてたら一ヶ月なんてすぐだね」
「お前が? 冗談だろ。クラスのほとんどと仲良くしてるだろうが」
「うーん……実はクラスで話すだけで、まだみんなのこと全然知らないんだよね。もっと仲良くなりたいんだけど」
「お前の言う仲良いの基準ってなんなんだよ?」
「そうだなあ……一緒にお昼食べたり、休みの日におでかけしたり……!」
「それはお前、今やってるな」
「……あれ? ほんとだ……ほんとだね!!」
月守は目をきらきらと輝かせて乗り出した。
「おれたち、なかよし……!?」
「お前の定義で言えば、そうなんじゃねえの」
「……!!」
ぱあっと花が咲いたように笑って、勝手に手を取られてぶんぶんと振り回された。
今日の月守はころころと表情が変わって忙しい。愉快なやつだなと呟いた声は、月守の耳には届かなかったらしい。
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