鎖で繋いで(3)
一年B組と書かれたプレートを見上げて、下田は立ち止まる。
初日と同じだ。あの日は開けられなかったが、今日こそ自分で扉を開けなければならない。
なんてことはない。今日は早めに登校したからまだ生徒は数人しかいないだろう。教室もそんなに騒がしくないような気がする。
それでも、それ以上足が進まない。
「……下田?」
後ろで声がして振り返れば、そこには月守がいた。
「おはよう」
月守は静かに微笑んだ。
「入るの、怖い?」
「……」
「じゃあ、こっち」
月守は下田の手を引いた。
その手の感触が肌の質感ではないことを不思議に思って、月守の手の方を見る。
「お前、その手どうしたんだ」
「え、これ? これ、前からだよ」
「俺が休んでる間に怪我したとかじゃないんだな?」
月守の両腕には包帯が巻かれていた。そういえば普段は袖で手が隠れているから、気付かなかったのかもしれない。
下田はチェーンメールの内容を思い出していた。もうとっくに二十四時間は過ぎてしまっている。『約束を破ると、あなたは呪われます。友だちや、家族、大事な人にまで影響が及びます。』確かそう書かれていた。これから起こる悪いこと全てを結びつけてしまいそうだ。
「心配してくれたの?」
「いや、その……」
まさか呪いのせいだと思ったなんてくだらないこと、言えるわけもなく。
「大丈夫だよ。大丈夫」
月守はもう一度ぎゅっと下田の手を握ると、もう片方の手で宥めるように優しく撫でた。
包帯越しに伝わる温度が、随分と温かく感じた。
「おう、待ってたぞ」
海沼がこっちを見てにっと笑った。
月守は何かあるといつも保健室へ行く。海沼に一番心を許しているというのもあるのかもしれないが、下田は改めてここに来て、気付いた。
この場所の空気はどこか違う。温かくて、安心できる場所だった。
海沼が意図的に過ごしやすい空気を作っているのか、あるいは本当に不思議な力が働いているのかはわからなかったが、この部屋へ入った瞬間にふっと肩の力が抜けた気がした。
「水しかないが、とりあえず飲め」
「……ありがとうございます」
「んで、どうだ体調は」
海沼はソファのいつもの定位置で同じように水を飲みながら問う。
月守は海沼の隣へ座った。自然と向き合う形になる。
「体調は、問題ないです」
「体調は?」
「いや、特に含みはなくて」
ぐっと一気に紙コップに入った水を飲み干すと、海沼は目を細めてこちらを見た。
「俺には見えるけどな。お前、耳が垂れてる」
「は……はい?」
「あからさまにしょぼんとするわんこみたいだ」
突然わけのわからないことを言われて拍子抜けしてしまう。
そして海沼はまた、にやっと笑って言った。
「だが良かった。ちゃんと登校できたな」
深入りされたらどう答えようか、迷っていた。少なからず何があって、どうして連絡もせず休んだのか、聞いてくると思ったから。しかし海沼も月守もそれ以上の詮索はしないようで、これからもう少ししたら授業が始まるというのに随分とのんびり寛いでいるようだった。
時計が壊れているのか疑うくらい授業開始ぎりぎりになって、月守はやっと声を上げる。
「そろそろ行こっか」
「……」
ぎりぎりまでここにいたのは、二人の計らいだったのだろうか。だとすればどうしたって、教室までは行かないとならない。
横に置いた鞄をぎゅっと握りしめて頷くと、月守はいたずらが成功した子どもみたいに笑って言った。
「サボっちゃおっか。一緒に」
「ようし車出すぞー。あ、くれぐれもうるさいせんせー方にはバレないようにな」
「は? ちょ、待ってください、どういうことっすか」
「わからないか? 授業が始まればみんなそっちに集中するから気付かれにくい。教師陣もそれぞれの教室にバラけるし、敵は少なくなる。それにまず裏口から出て気付くやつはなかなかいないだろうしな」
「いや、そういうこと聞いてんじゃなくて!」
「ボランティアに行くんだよ! 授業よりずうっと楽しいんだから!」
「目的地を聞いたわけでもねえよ!」
あれよあれよという間に海沼の車の後部座席に乗せられて、車は学校を飛び出した。
保健室には外出中の札が下がっている。それに気付かれるのは、もう少し先の話。
「あらぁ羽留ちゃん! 朝からなんて珍しいねえ」
「学校はどうしたの、今日はお休みかい?」
「そうだよ、ちょっとだけお休み!」
「嘘つけ……」
施設に到着して早々、月守はお年寄りたちに囲まれていた。
暖色の光と庭の緑が優しく室内を照らしている。庭へ続く窓から少し離れた机にそこらじゅうの椅子を集めて、月守を囲むように老婦人たちが座っている。
海沼と下田は少し遠くの壁に寄りかかりながら、婦人たちに揉みくちゃにされる月守を眺めていた。
「あいつ、ここでも人気なんですね」
「ああ。クラスでも人気か?」
「まあ基本は。……でも、たまに恨んでるやつもいますよ。いい奴すぎて、妬まれてる」
「……そっか」
白衣のポケットに手を突っ込んだまま、海沼はずっと月守から目を離さずに言う。
「お前は。月守のこと嫌いか?」
「え、……どっちでもないです、別に」
「お前にはどう見えてる」
「……優等生、世話好き、おせっかい。でも、わからない、が一番かもしれないです」
月守のことがわからない。何故いつも自分に構うのか。何故今日、教室に行かずここへ来たのか。何故いつもあんなに優しく笑うのか。
「多分あいつのこと好きだって思ってるやつはいっぱいいるんです。あいつが与えた分の優しさとかを、同じだけ返せるようなやつが。なのにいつも俺なんかにばっかり構ってるみたいで、それが理解できない」
下田が一人でいる時、他のクラスメイトより下田を選んだ。いつも朝一番に挨拶をするのは月守で、放課後最後に挨拶をするのも月守だ。何も聞かずに手を引いて、明るい場所へ連れてくる。一度も授業なんて休んだことないはずなのに、下田のために初めてサボってここまで来た。全部、どうしてそこまでするのか、わからない。
「全部があいつの善意だけでできてるんだと思ってるなら、そりゃあ人間を知らなさすぎる」
「だから、信じられないんですよ」
「なら、月守にも月守なりの理由があるのは、理解できるんじゃないか?」
理由。月守が下田に構う理由。月守が誰にでも優しい理由。
そんなもの、今の下田には想像もつかない。
「……あいつ、俺に恋でもしてるんすかね」
「っだはは!! そりゃいいや!!」
海沼は腹を抱えて笑った。そんなに笑わなくてもいいのに。
「羽留ちゃん、今日はお外の天気がいいねえ。あたし外に出たいよ」
「一緒にいきましょ、羽留ちゃん」
海沼が腹を抱えて大爆笑していると、そんな愉快な声が聞こえてきた。途端、海沼はぴたりと笑うのをやめて慌てて駆け出す。
「あ! ちょちょちょ、たんま! ばあさん、羽留は外はだめなんだよ」
「ごめんね、文子さん」
「あらどうして? お外は気持ちいいわよ」
月守を庇うようにして婦人たちから遠ざけながら、海沼が下田の方を向いて叫んだ。
「下田! ばあさんたち外に連れてってやってくれないか!」
「は……? いや急にそんな」
「大丈夫だから!」
「俺が大丈夫じゃないんすけど」
渋々了承すると、先ほどの月守のように今度は下田が揉みくちゃにされる番だった。
「あなた、羽留ちゃんのおともだち?」
「……あ、はい。そんなところです」
友達という言葉に若干引っかかるが、ここで変に言い訳するのも違うと思って受け入れる。
「あらそお。可愛いわねえ。とっても優しいお顔立ちしてらっしゃる」
「え……?」
「羽留ちゃんの周りには素敵な人がたくさんいるのねえ」
「あのお医者さまもハンサムでねえ」
「そうよねえ」
春の日差しが下田たちを照らして、ぽかぽかと温かい。
「あなた、おなまえはなんておっしゃるの?」
「……下田東弥です」
「東弥ちゃん、素敵ねえ」
「ありがとう、ございます」
ここにある全てのものが、温かく感じた。
まっすぐで、曇りのない言葉。
昨日まで、外に出たら敵ばかりだと思っていたのが馬鹿らしくなるくらい。
自然と口角が上がっていた。
人の優しさには理由があるかもしれない。それでも。
どんな理由があったって、感じたものが本物だと思ってもいい。
そこにあるものを、素直に受け入れてしまえばいい。
中庭と室内を繋ぐ窓の向こう、月守と海沼がこちらを見て手を振った。
下田は少しだけ手を上げて、手を振り返した。
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