鎖で繋いで(2)
下田には仲良くしている女子生徒がいた。今よりずっと外交的で友好的な性格だった下田には一定数友人がいたが、その中でも特別一緒に行動することが多いのが、
那鴫はとても穏やかで、真面目で、大人しい性格だった。基本的に那鴫から誰かに話しかけることこそなかったが、こちらから話しかければ話は弾むし、どんな時も否定せずに受け入れてくれたので、一緒にいて楽しかった。
聞き上手だったのだと思う。那鴫は否定をしないから、自分の意見を押し通さないから、それに甘えすぎていた。
自分が心地よいと思っている時、誰かが我慢をしているのだと、その時は気付けなかったのだ。
そうして入学からおよそ二年が経った頃。那鴫は初めて、自らの意思で、下田に思いを伝えた。下田に恋心を抱いていたのだ。
那鴫には下田以外に親しい友達と呼べる存在がいなかった。下田だけに好かれるために、ずっといい子を演じていた。それ自体は心地よかったはずなのに、告白された時に下田は何故か違和感を抱いた。今までの全てが恋愛感情のもとで出来上がっていたことだと気付いた瞬間、今まで心地よかった何かが崩れ去った気がしたのだ。
那鴫には下田しかいなかった。
下田が告白を断った瞬間に、那鴫の支えとなるものが折れ、ばらばらと音を立てて崩れていく。唯一信頼していた相手に裏切られたような感覚だったのだと思う。心を壊すには十分な出来事だった。
彼女は自殺を選んだ。
誰もが見ている教室の窓の外。下田の目を見ながら、その体を後ろへ倒した。
鉄柵から滑る足。揺れるスカート。吐く息は白く、教室を冷やしていく。
ずっとうまくやれていたと思っていた。意識すらしていなかった。
いつから間違えていたのだろう。
どこで間違えたのだろう。
自分がたった一言、受け入れる言葉をかけていたら、何か変わっていたのだろうか。
後で知った。那鴫は他の生徒からいじめを受けていたこと。
だが、それも救いにはならない。他者に全てを押し付けて笑っていられるほど、下田は強くなかったから。
人との距離を縮めれば、それだけ関係性は変わってゆく。
深く、深く。繋がりは強く。
相手の人生の一部に組み込まれた、相手が思う自分という存在。
自分が思う自分とは違う。相手にとって理想の、都合の良い存在。
長ければ長いほど、そのかたちは安定して、変えづらくなる。
そして齟齬が生まれたその時は、相手が壊れるか。それとも自分が壊れるか。
あるいは、一緒に壊れるか。
下田は、二度と同じことを繰り返さないと誓った。
誰も壊れない方法——即ち、誰からも距離を置くという選択をして。
***
全てがどうでもよくなっていた。
あの書き込みを見た翌日から全く学校に行く気が起きなくなってしまった下田は、ソファから動けずにいた。あらぬ噂を流されたって別に関係ない。実際にあった最悪な出来事がもう既に言いふらされている可能性だってあるのだから。
それならそれでいいだろう。そういう人生なのだ。あの日選択を誤った自分の責任だ。
どうにも体が重くて、何を食べる気も起きないまま、眠気に任せて目を閉じようとした。
季節はまだ春が始まったばかりだというのに、なんだか肌寒い。ずっと動かずにいたから体が冷えてしまったのだろうか。
——そうではない。
明確に、冷たい冬の風が、肌を撫ぜるのを感じた。みるみるうちに手足の先から凍るように冷たくなっていく。
思わず目を開くが、体は金縛りにあったように動かなくなっていた。
そして、目を開いたことを後悔した。
目の前で微笑むその顔から、目を離すことができなくなってしまったのだから。
「ぁ……」
声を出そうとしても駄目だった。どうにかして身動きを取ろうとするのに、それを許してはもらえない。
スカートがゆらゆらと揺れる。風も吹いていないのに、あの日と同じように。
その口は、音を発さずともはっきりと動いた。
『いっしょにいこう』
「——っ!」
その時、がちゃりと玄関の方で音がした。
瞬きをすると共に目の前にいた”それ”は消えていて、代わりに顔を出したのは。
「東弥? 生きてるか?」
「っ……兄貴……なんで、」
呪いが解けたかのように途端に体が軽くなり、思わず飛び起きる。
兄の
必死に絞り出しても出なかったはずの声がいきなり出るようになって、驚きのあまり首元を押さえた。
「風邪でも引いたか?」
ふるふると頭を横に振る。
「なんで、急にうちに?」
「学校から無断欠席って連絡が来たっていうから様子見に来たんだよ。お前と連絡つかないから緊急連絡先の方……母さんに電話が行ったみたいで。俺がたまたま暇だったから良かったけど、何してんの。結構大事になってたみたいだぞ」
時計に目をやる。ちょうど昼休みが終わった頃だろうか。
確か目を閉じたのはまだ朝のはずだったのに。一瞬目を閉じただけに感じていたが、いつの間にか夢でも見ていたのかもしれない。
だが、もしも暁良に起こされなければ、どうなっていたかわからない。
そもそもあれは、本当に夢だったのだろうか。
「大丈夫か? やっぱ具合悪いのか?」
「……いや」
「じゃあなんで連絡しないんだよ。休むにしても連絡くらいしないと駄目だろ。先生たち心配してたってよ」
頭を掻きながら暁良はどこかに電話をかけ始めた。おそらく母親か学校へ代わりに連絡してくれているのだろう。
まだ夢か現実か曖昧な頭で、携帯をもう一度確認した。あれも夢であればいいと思った。
メールは変わらずそこにあって、同じようにURLが記載されている。
ただ、その先へ進んでもあの掲示板へは辿り着けなかった。
正確に言えば、パスワードが設定されていて入れなかったのだ。ページは相変わらず真っ黒のままだが、ヒントも何もないパスワード入力画面だけが表示されている。
パスワードを入力した先には、まだあの投稿が残っているのかもしれない。けれど今下田にそれを確認する術はなかった。
「兄貴、あのさ」
電話をかけ終えた暁良はこちらを振り返る。
「俺の、中学の時のこと、先生は何か言ってなかった?」
「中学? ああ……それはもう気にすんなよ。事故だったじゃんか。 高校、中学同じだった人いないんだろ? 大丈夫って言ってたじゃん」
「バレたかもしれないんだ。てか、知ってるやつ、いたかもしれなくて」
「なに、それで怖くて行けなくなってたの?」
暁良はソファへ座る下田に寄り添うように隣へ来て目線を合わせた。
「東弥、お前別に人殺したわけじゃないんだぞ。あれはお前のせいじゃないし、誰のせいでもない。他の人が聞いたって、お前が殺したなんて誰も言わないよ。第一知らない中学の知らない生徒の事件なんて、悪いけどみんなそこまで興味持たないよ。胸張って生きてればいい。忘れられないのもわかるけど、いつまでも過去に捕らわれてちゃ、一歩も進めないままだぞ」
兄や両親はもちろん詳しい事情を知っている。本当の所どう思われているかわからないが、同級生に責め立てられたり、あれがきっかけでいじめに遭ったりしたわけじゃない。
もしかすると、気にしているのは下田一人だけなんてこともあるかもしれない。
ただ、全ては憶測に過ぎなくて、本当の所はやっぱりわからないから、不安だ。
「そうだ、兄ちゃん一緒に行ってやろうか。だったら怖くないだろ」
「……いいよそんな子供っぽい」
「じゃあ一人で行けるな?」
「……」
「明日行って、嫌だったら行かなくてもいい。二度と行きたくないって言うなら、また母さんと父さんと話し合おう。通信にしたっていいんだから」
兄は自由奔放だが面倒見も良い。昔から、手を引っ張ってくれるのは兄だった。
「……わかった」
暁良の言った通り、明日を最後だと思えばいい。教室で万が一誰かに糾弾されたら、それまでだ。実家へ帰るのもいいかもしれない。また母の手料理を食べて、父と話して、たまに帰ってくる兄を迎える暮らしも悪くないだろう。
最後に忘れた荷物を取りにいくような気持ちで、気軽に。
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