開かずの扉(4)
月守の言う通り、後日田村は学校に来ていた。少し顔色は悪いが病み上がりだからだろう、という程度で、月守のすぐ後ろの席で静かに説明を聞いていた。
今日は部活動の紹介がある。体験入部などは来週からだが、上級生がクラスまで来てアピールをするのだそうだ。
下田は部活動に参加する気はなかった。学校では必要最低限のことを学べさえすればそれで良く、帰りが遅くなる活動はなるべく控えたい。人との関わりが増えるのも面倒だった。
「では続いて、漫画研究会の先輩方です」
テニス、バスケ、サッカー、吹奏楽、料理、美術。運動部も文化部も様々な紹介があって、中には教室でいきなりボールを投げ始めたり、大きな楽器を持ち込んで演奏する者もいた。そんな中で教室に現れたのは、見知った二人組。
「どうも、漫研の牧田っていいます」
「白井です」
校舎案内を担当していた牧田と白井だった。牧田は田村や鈴木の姿を確認すると少し申し訳なさそうな顔をして、それから話を始める。
「漫研は漫画描くだけじゃなくて、イラストとか、あとコスプレとか、割となんでもやります。アニメとか漫画とかサブカル系に興味ある子はぜひ! みんな気のいいやつなので楽しいと思います!」
「男女比は同じくらいなので、そこは気にせず入ってもらって平気です。コミ……イベントで作品を出してみたり、他にも部員の子がやりたいって思うことはなんでも、できる限りはしたいと思っているので、ぜひ」
「ちなみにこれ、俺が描きました!」
牧田はピンク色のツインテールの女の子が印刷されたコピー用紙を黒板に貼り付ける。素人目にも絵の上手さが伝わるものだった。ただ、下半身の露出が激しいため少し目のやり場には困る。
「これ貼っといていいすか?」
「あー……うん、とりあえずは」
担任は苦笑いを浮かべつつ二人を出口へ促した。去り際に軽くお辞儀をして、二人は廊下へと出て行く。
担任が次の生徒を呼ぼうとした時、がたん、と誰かの机が動く音がした。
音の鳴った方へ視線が集まる。田村だった。
「田村、どうした」
田村は口元を抑えて苦しそうにしている。机は少し蹴飛ばされて前の月守の椅子に当たっていた。驚いた担任は田村の方へ駆け寄ろうとするが、田村はより一層体を丸め、背中を波打たせた。
咄嗟に月守が、クラス中の視線から田村を庇うようにその体を支える。苦しそうな呻き声が聞こえた。
「田村さん、水道まで歩ける?」
月守が一瞬下田の方を見た。すぐに廊下へ出て行く月守に下田ははっとして、
「保健室、連れて行きます」
「あ……ああ、よろしく頼む」
呆然とする担任に一声かけて月守の後を追った。
すぐ近くの水道で、蹲る田村の背中を摩る月守を見つけた。その学ランは少し汚れている。
「大丈夫、なのか」
「大丈夫、大丈夫」
月守は優しい声色を意識したように、いつにも増して柔らかな声で田村に話しかける。
「楽になるまで出しちゃっていいよ。誰も見てないから大丈夫」
背中を摩りつつも、その視線は田村からは外れている。下田も咄嗟に違う方を向いた。
「ごめんね、男だけで。女の子に任せた方が良かったな」
「だ……だいじょうぶ、です。ありがと……」
「そう? もう平気かな」
「一旦、落ち着きました」
田村はハンカチで口元を抑えながら体を起こした。
「ご……ごめんなさい、汚しちゃって」
「いいの、気にしないで。それより保健室行こう? ゆっくり休んだ方がいいよ」
「あ、あそこは! いや、です」
田村は口元を抑えつつも大声で叫んだ。怯えたような表情で。
「大丈夫。曲がらなければ見つからないよ」
「え……?」
「おれが先に行って見えないようにするから。ね? 行こう」
触れるか触れないかの距離で、倒れても大丈夫なように手を添えながら、田村を促す。
「それに、保健室は安全なんだよ。バリアが張られてるからね」
戯けたようにそう言う月守に、少しだけ田村の表情が緩んだ。
保健室はあの開かずの扉へ向かう廊下の手前にある。保健室を過ぎて少し行くだけで、ステンドグラスの青空が広がっている。そこを曲がればあの扉が待っている。田村が怯えるのも無理はなかった。
「先生、具合が悪いみたいなので診てあげてください」
「うわ、なんだ月守か。どれどれ、とりあえず……」
保健室に入るといきなり月守の名前を呼ぶ軽薄そうな男が出てきた。白衣は皺だらけで髪はグレーに近い黒。染めてもバレないぎりぎりの色を選んでいるようで、耳に注目すればピアス穴のような跡まで見えた。
「月守はこのタオル使って。君は、うがいはしたかな?」
「ゆすいだだけで、そんなには……」
「じゃあちょっとそこの水道でしておいで。すっきりしたら戻ってきて」
その見た目に反しててきぱきと指示をする男は下田を見て首を傾げる。
「お前は?」
「保健委員、です」
「なるほど、じゃあ家庭科室行ってこのやかんでお湯沸かしてきて」
「え、お湯、っすか」
「そうお湯」
「なんかないんすか、他の、電気ケトルとか、ウォーターサーバーとか」
「ないないそんな洒落たもの! いいから早く」
ほい、と渡されたアルミのやかんを手に、下田は指示されるままに家庭科室へ向かった。
家庭科室は保健室の真上にある。昇降口横の階段とは逆の、保健室側の階段を駆け上がって家庭科室の前まで行くと、当然ながら鍵がかかり真っ暗だった。
「おい、鍵は……」
思わず独り言を洩らしつつ、あの男が持っているとも思えず職員室に向かった。
「あ、あの、すみません、家庭科室の鍵貸してもらえませんか」
下田の声に数人の教師が振り返る。やかんを持って息を切らした間抜けな新入生が、そこにはいた。
「なんだ君、どういう状況なんだそれは」
「あ、あの、保健室の、先生に言われて」
「……また
合点がいったと呆れながら鍵を渡される。
「あの……いつもこうなんすか」
「いつもこうよ。お疲れ様」
憐れみを多分に含んだ笑顔で見送られつつ、また家庭科室へと走る。
コンロの使い方は正直自信がないが、迷っている暇もない。中学時代に習ったことをできる限り思い出しながら火をつけて、水道水を入れたやかんを置いた。
どれくらい沸かせばいいのか聞いてくるのを忘れたな、と思いつつ、半分くらいを沸かしてから火を消した。コンロのチェックを済ませ、鍵はポケットへ一旦しまって保健室へと急ぐと、田村がブランケットに包まれながらソファに座っていた。
「ご苦労新入生」
やかんをひったくられるとそのまま紙コップにお湯が注がれる。湯気が立ち上り、かなり熱そうだ。
「ちょっと冷ましてから、ゆっくりね」
「……はい」
少し待って、田村はゆっくりとその紙コップに口をつけた。
「ぬるま湯の方がいいんだよ、こういう時は」
恐らく下田に向けて言われた言葉に内心どきっとする。お湯と言われたから沸騰させたのだが、間違っていたのだろうか。
「なんか、すんません」
「あ? いやいや、いいんだよ。水道水は沸騰させてから冷ました方がいいんだ。だから正解」
予想に反した答えに呆気にとられているうちにも男は話を続けた。
「新入生は知らないだろうけど、ここで養護教諭してる
言葉のぶっきらぼうさに反して優しく微笑みながら、田村の正面にあるソファを勧められる。
「俺は別に、体調悪くないんで」
「まあいいじゃねえの。退屈でしょ、教室は」
「はあ……それ先生が言っていいんすか」
「いーのよ」
下田は紙コップに入った水を一口飲んだ。こちらはとても冷えている。恐らく部屋の隅にある冷蔵庫から取り出されたものなのだろう。
「お前は?」
「え?」
一拍置いて、名前を聞かれたことを理解して下田東弥です、と名乗る。ふうん、と目を細めて、
「お前が月守の友達ねえ」
「え、は? いや、」
「そうです。噂の下田くんです」
月守がベッドから顔を覗かせた。
「こっちで洗濯してくか?」
「家でできるので大丈夫そうです。あと、先生に任せるのはちょっと……」
「あーいかん。これは傷ついたー」
「ええ、すみません! でも先生もなかなか不器用じゃないですか」
「先生これでも一人暮らしなんですけど。洗濯くらいできるけどな」
「ううーん」
月守が楽しそうにしている。初めて見た、と思った。
いや、本当は初めてではないはずだ。入学してからいつだって月守は笑顔だった。
けれど、なんだかいつもと違う様子に下田は戸惑った。初めて見る月守だ、と。
心を完璧に許しているような、そんな笑顔。
「田村さん、体調が落ち着いたらちょっとだけ話をさせてくれないかな」
月守は学ランをビニールに詰めて、ワイシャツ姿でベッドの方から出てくる。
「話、って」
「君が楽になるように、お手伝いをしたい」
田村はブランケットをぎゅっと握りしめた。
「話っていうのは、例の扉のことなんだけど。田村さんが昨日お休みしてたのは、もしかしたらあの扉に関係しているのかなって思ったんだけど、どうかな」
月守は下田の横に座り、田村と海沼に向かい合うようにして話を始めた。
「……関係、ないわけじゃ、ないです」
「君はあの日、何かを見たのかな」
田村はしばらく黙ってから、口を開く。
「見た、わけじゃない。でも、確かにいたんです。あの人は出たがってた。誰かを恨んでる。……誰かへの、憎悪でいっぱいだった」
扉の向こうに感じた気配。それは下田にはわからなかったが、田村の怯え様で容易に想像することができた。
「あそこにいる人は、君や、あの日あそこにいたおれたちを恨んでいるわけではないよ。況してや君が過去に何かがあったとして、それと関係しているということもない」
田村は目を見開いた。下田も少し驚いて、横の月守を見る。あそこに"何か"がいることがさも当然であるように言って退けた。あの時立ち止まった月守は、扉の奥に何かを見ていたのだろうか。
「なんで、月守くん」
「君が何かを背負う必要はないよ。誰も、恨んでなんかいないんだから」
「そんなの、わからない。わからないんだよ」
「どうして?」
「だって、人の気持ちなんてわからないでしょ。どこで誰が恨んでるだなんて、わかるはずない」
「直接聞いてみたらいいんじゃないかな」
「聞けないよ! ……聞けるわけない」
田村が声を荒げた。目に見えてわかる動揺にも、月守と海沼は動じなかった。
「ねえ、よかったら話してみてくれないかな。君一人で抱え込んでも、ずっとそのまま苦しいと思うんだ」
「月守くんは、何を知ってるの」
「何も知らないよ。ただ、何かがあったことだけは感じたから」
月守が優しく微笑むと、田村はぽつぽつと、話を始めた。
田村が通っていた小学校では、いじめがあった。
田村は直接被害に遭ったわけではないが、同級生の女の子が複数の男の子に目をつけられていたのだそうだ。
その女の子は、ある日は上履きを隠され、またある日は机に落書きをされていた。そしてまたある日、トイレに閉じ込められてしまう。泣いても喚いても助けられることなく、大人がそれに気付くまで出ることはできなかった。
そしてそれをきっかけに彼女は学校に来なくなる。一日、二日と日数を重ねて、その出来事が忘れられた頃、転校したという話が教師の口から告げられた。
田村はずっと、それを見ていた。男子たちを止める勇気も出ず、見ているだけだった。たすけてと声が聞こえても、その声が酷く恐ろしく聞こえて、手を差し伸べることができなかったのだ。
自分一人では何かできるわけではないと諦めていたから。
次は自分が標的になるかもしれないと思ったから。
あの男子たちに逆らったら、邪魔をしたら、何をされるかわからなかったから。
彼女は自分と特別仲がいいわけでもなかったし、自分が助けたところで彼女が救われるとは思わなかった。
彼女を助けたところで、自分に何かいいことが起こるだろうか。
招くのは悪いことばかりだと考えてしまって、足が動かなかった。
今でもあの子の泣き叫ぶ声が耳にこびりついている。
もしあの子を助けることができたなら、いい友達になれたのかな。
「人を助けるって、すごく難しいことなんだ。田村さんだけがそれを背負う必要はないんだよ」
「だけど、最低でしょ。自分のことしか考えてない。結局わたし、あの男子たちと同じなんだ」
「同じなわけないよ。君はあの子をいじめてないでしょ」
「あの子にとっては、同じだよ」
田村は涙をこらえながら言った。震える手を庇うように、もう片方の手が重なる。
「気になるなら、伝えてみればいいんじゃないかな。その子に」
「連絡先なんて知らないし、今更合わせる顔もない……」
「連絡先なら先生の知り合いに任せればまず大丈夫だ。幼馴染に探偵がいる」
海沼が田村に目線を合わせながら言うが、まだ躊躇った様にブランケットを握った。
「怖い?」
真実を知って、恨まれていたらどうしようと思う。
自分はあの子を見捨てたのだ。いじめていた人間とそれを傍観していた人間は同罪だという。教師にクラス全員が叱られた時のことを思い出すと、今でも胸が締め付けられるようだった。
何もしていないと文句を言う生徒もいたが、自分にはそれができなかった。何もしなかったことこそが罪なのだと、思っていたから。
「君みたいな優しい人のことを、その子は責めないと思うな」
「……ずるいだけだよ」
月守はゆっくりと頭を横に振る。
「僕を信じて。絶対に大丈夫だから」
まっすぐに田村の目を見て、月守はふわりと笑った。
田村は躊躇いながらも、ゆっくりと頷く。
「……知りたい。あの子の、本当の気持ちを」
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