第2話
まだ十代半ばの頃。
近衛騎士になったばかりのオスカーが、王太子であった現王とともに初めて神殿に上がった日。
清らかな雪がはらはらと降る朝に、神殿の静謐な湖で、リュシルは禊をしていた。
それは、たとえ王であっても侵してはならない聖域であり、邪魔してはならない神事だった。
屈強な男であっても凍えて震えてしまうほど冷たい湖の中で、ほんの十歳にも足らぬ年頃の少女が水を浴びていた。
そして禊を終えると、神を讃える歌を歌いながら、透明な水と戯れるように軽やかに舞った。
「アレが、我が国の要……我が妹にして、この国の神子。そして、次代の予言者だ」
どこか羨望の混じった声でポツリと王太子が告げた言葉に、オスカーはひとつ息を呑み、そして言葉もなく頷いた。
この世のものとは思えないような清らかさ、透明さ、静謐さ。
あまりにも美しすぎるリュシルに、一瞬でオスカーは恋をしたのだ。
「あなたを守る剣になりたくて、あなたを守る盾でありたくて、私は近衛騎士として務めておりました。王でもなく、国でもなく、あなたのために」
精一杯柔らかな声で告げながら、オスカーは内面の激情を押し隠していた。
近衛騎士として栄達を求めたのは、少しでも上に登って、王の側に居たかったからだ。
異母妹を気にかけている現王は、月に何度か護衛たちを伴って神殿に足を運ぶ。
けれど、リュシルの住まう神殿の奥まで伴う事ができる護衛は、一人だけだ。
『王の騎士』と呼ばれる、そのただ一人の護衛は、近衛騎士の中で最も能力が高く、最も王から信頼された者が選ばれる。
王の騎士としての立場を得るために、オスカーは必死になって努力したのだ。
リュシルに会うためだけに。
「この想いを受け入れられたいなど、身の程知らずな望みは抱いておりません。ただ、お伝えしたかったのです。この世界が滅んでしまう前に」
満ち足りた気持ちで告げれば、リュシルは白金の美しい眼球がこぼれ落ちそうなほどに目を見開いた。
「……酷い方だ」
春の陽光のような輝く瞳に透明な涙を溢れさせ、幼子のように顔を歪めて、リュシルはオスカーを詰った。
「ご自分の心だけ、楽にして、そして、死を待とう、だなんて……随分と、身勝手ですね」
「リュシル様……?」
ポロポロと大粒の涙を零しながら、金色の瞳でオスカーを射抜くように見つめているのは、いつも俗世とは隔絶されたような静謐な空気を纏わせている、高潔で美しい神子ではなかった。
そこにいるのは、年相応に悲しみに打ちひしがれる、哀れな少女だった。
「オスカー殿……私も……、私は」
意を決したように、リュシルが強い意志の籠もった眼差しでオスカーを見つめた。
「いつもこの国と民のために剣を振るい、守ってくださったあなたを、……そして、あらゆる悲しみから私を守ろうとして下さるあなたを、ずっと、……ずっと、お慕いしておりました」
「っな、そんな、ばかな……」
止まってしまいそうなほど、どくんと跳ねた心臓が、ドクドクと高速で拍を叩く。
高揚に痛む胸を押さえて、オスカーは呻くように呟いた。
「そんな……奇跡、が」
「奇跡でも、なんでもありません。現実です」
信じられないとばかりに首を振るオスカーに、リュシルが苦笑して近寄ってきた。
床に跪いたままのオスカーの前にそっと膝をつき、視線を合わせる。
「私も、あなたを愛しております。オスカー殿」
「っ、あぁ、神よ!」
堪らず、オスカーはリュシルの華奢な体を思い切り抱きしめた。
神をも恐れぬ禁忌を犯しながらも、神の名を呼ぶ矛盾を意識することもなく、ただ腕の中の温かい体温に心を奪われた。
軽い体をそのまま抱き上げ、オスカーは立ち上がる。
「愛しています。ずっとずっと、あなたに焦がれてきた!あなたに触れたくて仕方なかった!」
「……っ、私も、ずっとあなたに触れられることを、夢見ておりました。こんな日が、来るなんて……っ」
耳元で囁けば、感極まったような震える声が絞り出された。
オスカーの心をかき乱す甘い声が、どうしようもなく愛おしい言葉を紡ぎ出すのだ。
もう、どうしようもなかった。
「どうか、私のものになってください」
「オスカー殿……ッ」
オスカーの情けない懇願に、リュシルはぐしゃりと顔を歪めた。透き通る瞳からぼろぼろと美しい涙が溢れ落ちていく。
「あぁ……あぁ、あぁっ!」
ぎりりと奥歯を噛み締めながら、リュシルが苦しげに胸を押さえて叫んだ。
「私は神子失格なのです。神の慈悲よりもあなたの愛を求めてしまう……あなたの熱を欲してしまう……!」
「リュシル様ッ」
その言葉に歓喜し、オスカーは足早に奥の寝室へと足を進め、柔らかな寝台の上へ細い体を横たえた。
「それを言うのならば、神子を穢そうとする私は、神をも恐れぬ大罪人でしょう。……けれど、神の怒りも怖くないほどに、愛しています。私の神子」
「オスカー殿……」
押さえきれない激情に、オスカーの視界が潤み、リュシルの無垢な瞳が揺らぐ。
懇願の眼差しでリュシルを見つめるオスカーの震えを止めようとするように、リュシルはそっと両手をオスカーの頬に添えた。
リュシルは一度恥ずかしげに目を伏せた後、これ以上ないほど幸せそうに微笑んだ。
「……あなたの手はきっと温かくて、あなたの胸はきっと大きいのだろうと、ずっと想像しておりました」
頬に触れていた両手をオスカーの首に回し、リュシルは躊躇いがちに抱きつく。
そして頬を赤く染めながら、夢を見ているかように呟いた。
「こんな幸せが、この世にはあったのですね」
「リュシル、さま」
寄せられた体から伝わる熱に、オスカーの腹の奥がどくりと脈打つ。
オスカーはリュシルの小さな体を思いのままに抱き寄せ、背骨を折りそうなほどに強く強く抱きしめた。
そして、尋ねた。
「神からあなたを奪っても、よろしいでしょうか?」
清らかな神の御子には、決して相応しくない問いかけを。けれど。
「ふふっ」
リュシルは幸せそうに笑いを漏らし、オスカーの耳元で甘い声で熱く乞うた。
「どうか、私をあなたのものにして下さい。……神のものではなく、あなたのものに」
十年分の思いの丈をぶつけるように、オスカーとリュシルは何度も何度も情熱的に抱き合った。
「愛しています、リュシル様。どうか、私のものになって下さい。……神ではなく、私のものに」
泣き出したいほどの祈りを込めて、オスカーは何度も同じ願いをリュシルの耳元で囁く。
「オスカー殿……っ、私も、あなたのものになりとうございます。私たちを救ってくれぬ神のものではなく!私を愛し、救って下さると仰った、あなたのものに」
「あぁ……リュシル様っ、リュシルさまッ……リュシルッ」
オスカーは箍が外れたように激しくリュシルをかき抱いた。熱く蕩ける体を重ね、深い口づけを交わすたび、リュシルが纏い続けていた人ならざる清らかな神気は消えていくような気がした。
「……あぁっ、わたしの、リュシル……ッ」
「オスカー……」
切れ切れに喘ぐリュシルの、快楽に溶けた瞳を覗き込み、オスカーは笑った。
「これで、私のものだ……」
清らかで高潔な神子など、もうどこにもいなかった。
オスカーの腕の中には、ただの愛おしい恋人が残ったのだ。
あぁ、それなのに。
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