第3話 スーツください
綾野さんは服の掛かったラックのあいだを縫うように歩いている。私服姿が想像できず、チョイスが気になって仕方のないぼくは、いらないスニーカーを目で探していた。ぼくならあまり、買い物中に他人に注目されたくないのだ。
「なあ、お前の私服ってどんな感じなの」
「普通です。量販店のマネキンを、そっくりそのまま。綾野さんは?」
「スーツしか持ってない。お、これどう?」
振り返ると、ど派手なティーシャツを胸に当てた綾野さんと鏡越しに目が合った。
「似合ってます。いかにも金貸しっぽくて」
「ひでえ」
欲しいとも思っていない服を面白半分で何度も着替え、その度ぼくに感想を求めた。スタイルのいい綾野さんは、正直何を着ても似合う。ただ、不思議なことに何を着てもガラが悪かった。デザインとしては一番無難な白ニットは、もはや不気味と言ってもよかった。結局、綾野さんが決めたのは、ラインの出る黒スキニーとシンプルな黒シャツだった。そでをまくれば、ヤクザからホストに変身だ。
「それジャケット着たらかわりばえしませんよ。せっかくならもっと楽な服にすればいいのに」
「いやいや、もう満足。ああ楽しかった」
チラと見やる。案の定、脱ぎ散らかしたスーツは更衣室で丸まっている。しわになる前に頂戴したい。鏡の前でご機嫌な綾野さんに、遠慮がちに声をかけた。
「あのう」
「何?」
「……あれ、もらってもいいですか」
「構わねえよ」
少しの未練もない。さすが、与える側の人間だ。いやしいぼくはお礼もそこそこに更衣室に飛び込んだ。香水の染みたジャケットを羽織り、腹筋に思い切り力を入れてチャックを上げた。凶器のように重いベルトを締め、勢いよくカーテンを開けた。どうだろうか。新しい自分になった気分だった。けれど冷静な綾野さんのリアクションは、残酷なほど的確だった。
「ヤンキーの成人式みてえ」
そのひと言で、しゅるしゅると魔法がとけた。三面鏡にうつるぼくは、まるでチンピラのなり損ないだった。もともとあか抜けない顔立ちと、イモっぽさに拍車がかかっていた。
「これは……」
「別に悪くねえよ。ははっ」
「じゃあ何で笑うんですか。返します」
「そのまま着てろよ。お前なんか百年働いたって買えない代物だぞ」
「二日後に死ぬんですってば」
「なおさら遠慮はいらないね。それに俺たち、ふたりきりなんだぞ。ハメ外そうぜ」
確かに、と、思ってしまった。言い返す言葉を探していると、綾野さんが化粧品コーナーから何か持ってきた。後ろを向かされ、頭をこねくりまわされた。整髪料の匂いが鼻をつく。仕上げに前髪をがっと上げられ、視界がぱっと明るくなった。
「よく見えるだろ」
その通りだった。この世界は、ぼくが思っていたよりずっと明るかった。今気づいた。
○
西日が差し込み、一日の終わりを意識した。ぼくたちは食料品を見つくろい、家具屋のモデルルームでくつろいでいた。ベッドは当たり前のように綾野さんに取られた。我が物顔で本屋から取ってきた車の雑誌を読んでいる。ぼくはソファに寝そべりながら、同じ広告を繰り返すテレビを見るともなく眺めていた。ファミリー向けに作られたハリボテのリビングは、綺麗すぎて落ち着けない。
「明日は六時に起きます」
「嘘だろ。お礼参りでも行く気かよ」
「いえ、月見バーガーを探します。月は金曜に落ちるんだから、タイムリミットはあと一日と考えて行動すべきです」
「思うんだけどよ、ここの食品売り場にあるもので、それっぽいもの作れそうじゃねえ」
「そんなの反則です。そもそもお店のハンバーガーは手作りとは別物です」
「俺、朝弱いんだよなあ」
「ぼくはたぶん、ここには戻りません」
「わかったわかった。優しく起こしてくれよ」
喋りながらも雑誌から目を離さない綾野さんは、ぼくの馬鹿げた行動に疑問を抱かない。ぼくにはわかる。黒く塗りつぶした画用紙を、「上手だね」と褒めてくれるような人だ。そしてそういうことを決して言葉に出さない鈍感さが、冷たくてあたたかい。綾野さんは優しい。
目を閉じて、空に浮かぶ月を思い浮かべた。鈴虫のそら耳に急かされ、目覚まし時計をセットした。食べたいときに、食べたいものが食べられる。それはつまり、ひとりで生きていけるということだ。死んだように死を待つだけなら、最後に自分に証明してみたかった。それに、なんと言っても月見バーガーはとても美味しい。
「綾野さん」
「あ?」
「スーツ、ありがとうございます」
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