消しゴム一個
彼女のことが気になり出したのは先月辺りである。一年生の頃から噂は聞いていた。学年中の男子の注目を集めていると、相当人気があると。その為、私は一方的に彼女の存在を認知していた。廊下で擦れ違うと、知った顔の様に目で追うこともあった。しかし、相互の関係になることはなく、あくまで私は通行人Aであった。
この間柄に終わりが来たのが先々月、四月のことである。クラス替えがあって彼女と同じクラスになった。友人らからは結構羨ましがられた。ただ、私は別段何か異の実感は無くて、彼女のことは半ば芸能人の様な感触で眺めていたので、同じクラスになったところで何か関係が変わるかと言えば、そうではないと思っていた。実際、同じクラスになって約一か月は話を交わすこともなく、彼女は視界の隅にいるだけだった。彼女の笑い声が脳裏に焼き付いては奇妙な感覚を生じさせた。
そんなある日、席替えがあった。海の見える窓際の席になった。そして彼女の隣だった。
「よろしくー」
斜め後ろの男子が話し掛けてくる。名を鈴木といった。如何にも明朗快活とした人間だと思った。そして肝心の彼女は真っ直ぐ前を向いて、澄ました顔をしていた。そんな彼女に話し掛ける勇気は勿論私には無くて、結局一週間くらいは膠着状態が続いた。
最初に均衡を破ったのは彼女であった。彼女はある日消しゴムを無くした。
「ねえ、この辺に消しゴム落ちてなかった?」
実に日常的な感じで彼女は言った。しかしどうしても、私には何か特別な言葉に思えた。言外の意図を一瞬思案して、おかしな間が生れた。
「うーん…無かったと思うけど…」
「そっか」
「うーん…」
曖昧な返事をしながら机の下を見渡す。やはり無い。「やっぱ無いわ」と言おうとした時、鈍く光る物を見つけた。消しゴムであった。
「あ!あったあった!」
幼子の様に私は燥ぐ。
「え?どこどこ?」
彼女も声の調子を気持ち上げて私に応ずる。
「そこ、そこ!」
2、3m先の白色を私は指差す。
「えー?どこー?」
確かに消しゴムは見えにくい場所にあった。彼女のいる位置からは多分見えない。仕方が無いから席を立ち取りに行こうとした時、鈴木が通りがかった。鈴木は消しゴムを取り上げ「これ、お前の?」と言う。
「あ!うん」
思わずそう答えてしまう。
「ほい」
そう言われて投げられた消しゴムは彼女を飛び越えて私の元へ。その動きはいやにゆっくりに見えた。
消しゴムが手中に収まって、何秒か後、
「『あ!うん』じゃないよ~」
笑いながら彼女は言う。そこに窓から潮風。彼女の髪が靡く。
「ご、ごめん…!」
一瞬返答が遅れる。目線を落とす。
「はい!」
と手を差し出す彼女。
「ああ…はい」
敢えて私は消しゴムを乗せた手ごと差し出す。しかし、彼女の指は既の所で私に触れず、遠ざかってしまう。
「ありがと!」
また彼女は笑う。
「何もしてないって」
私は謙遜している振りをした。
「えー」
同意とも否定とも取れない声を漏らす彼女。だんだんと真顔に戻っていくのを私は黙って見ていた。雲間から差す陽が私と彼女を照らした。教室がやけに薄暗く見えた。
それからというもの、彼女は時たま私に何でも無いことを話し掛けては、笑うようになった。次の授業のこと、弁当の中身、昨日のテレビ番組、中学時代、私の妹のこと、休日の過ごし方、云々。最初の頃は私に若干ぎこちなさが滲んでいて、呆気無く会話が終わることもあったが、だんだんと余裕が生じてきて、ついには授業中も小さい声で話をするようになった。いつの間にか鈴木も話に加わって、彼女も如何にも心を許した様に笑った。
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