ペトリコール

たなべ

恋ではないのです。

 その日は朝から大雨であった。覚醒するほどの轟音がした。窓から見える隘路には二階からでもわかるくらいに雨水が溜まっていた。そういえばこの間梅雨入りしたんだっけなと寝惚け眼を擦りながら階段を下りる。リビングには案の定、妹が一人。

 「おはよー」

 スマホを見ながら妹はそう言った。

 私は小さく「うん」と返事だけして席に着く。テーブルには若干冷えたトースト一枚。それを如何にも詰まらない感じで口に運ぶ。テレビには荒天に注意せよとの天気予報士。遠くない所で斜面が崩れたらしい。ただそんなことを気に揉む私ではなく、また義務的にトーストを嚙む。テレビの雑音と雨音だけが鳴るリビングは薄暗かった。一分もしない内に食べ終わすと、私はさっさと制服に着替える。

 「行ってきまーす」

 返事はない。扉に近付くと一層強く雨音が聴こえて、一瞬開けるのを躊躇した。意を決して開けると散々に雨。傘を差せどももう濡れた。不快な冷感が私を覆う。私はもう諦めて路を歩くことにした。歩を進める度靴下が雨に浸った。そして駅に着く頃にはあらゆる所から水が滴って悲惨な格好であった。路面電車は2分遅れてやってきた。かなり混んでいた。ほぼ満員の車内に水浸しの人間が入っていいものか、とか考えたが止むを得ず乗った。予想通り迷惑そうな顔をされたが、謝るのも何か違うなと思って知らん振りをして、いつも通り読書を始める。私は最近、小説を読み始めた。恋愛ものである。以前は実用書なんかを好んで読んでいて、恋愛小説ほど痛ましいものは無いと信じていた。夢や希望に充ちていて、如何にもこれが人間生活であると押付けがましく主張している、それが嫌味に思えて仕様が無い、と思っていた。しかし、いつの頃かその恋愛小説を読むようになった。思い当たる節はある、がそれを私は必死に無視しようと努めている。目を向けてしまったら、それこそ自分の気持ちを認めることとなってしまうからである。私はそれが嫌だった。ただ、完全に無視することはできずに、半ば本能的に今はこの小説を読んでいる。そうして主人公が自分の恋を自覚するシーンに入った時、最寄り駅に着く。この駅は校門の眼前にある。ただこの雨である。また水浸しになりながら教室へ向かう。その中途で背後から声がした。振り返ると何のことはない、鈴木であった。

 「お前やば」

 私の不格好を見るや否や彼はそう言った。彼は見ると殆ど濡れておらず、訊くと車で送ってもらったそうである。それは反則だ何だとか言っている内に教室に着く。もう結構揃っていて、彼女も来ていた。いつも通り友人達と談笑している。私はそんな様子を横目に席に着く。

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