第2話 ブラック企業を辞める日
ーーあの最終面接から数年後、
「やりたいことを仕事に!!」と威勢の良いことを言ったのが懐かしい。そして、あの頃の自分を殴ってやりたい。
私は、今や大黒堂で3年目になった。
入社後、第二テレビ製作部というゴールデンタイム向けのテレビを作る部署に配属された。本音を言うと、配信ドラマの方に興味があったが、やはりテレビドラマは予算も時間も段違いな花形部署なので気が引きしまる。
今日の仕事は恵比寿でのロケだ。
私が担当する「ゴールデンビクトリー」というヤクザと刑事のバディものは、次の2時間スペシャルで、人気キャバ嬢が殺されたという事件を追う豪華な内容になっている。今日はその、人気キャバ嬢の殺害現場ーーラブホテルの一室の撮影シーンだ。
朝7時、ラブホテルにキャバ嬢が入っていくシーンを撮影。
朝8時、ヤクザ役の主役、禰津鷹人役・内山田隆守と、刑事役の本谷銀次郎役・ムロオカチカラのシーン。
滞りなく撮影は進み、最後に内山田とムロオカがホテル街を歩きながら事件について語り合う長回しのシーンが残されている。
ト書きはこの通りだ。
○シーン14 ホテル街・路上
禰津と本谷がホテルから出てくる。禰津はタバコに火をつける。
本谷「こら、路上喫煙は禁止だぞ」
禰津「あんなの見ちまったら、一服したいんだよ。刑事さんも一本どう?」
本谷「今すぐに消せ」
禰津「ほーい。しかし、まあガイシャは散々だな〜。キャバやって、ホテルで殺されちまって。客とのトラブルかな」
本谷「本当にそう思いましたか?」
禰津「え?」
本谷「他殺にしては綺麗すぎるんですよ。争った跡もない」
禰津「!!」
シーンにして1ページ程度だが、これの撮影に1時間かかる。監督はこのシーンを長回しにしたいと言っている。これはすなわち、撮影途中で邪魔が入るのは許されない。通行人は大敵だ。
「おい!!」
助監督の波野が不機嫌な顔で近づいてくる。
「なんでここはこんなに人通りが多いんだ」
朝9時のラブホ街は、全然人がいないと思っていた。しかし、恵比寿は違うようだ。ホテルに入るカップル、宿泊後チェックアウトで出てくるカップル、さまざまなカップルが出たり入ったりする。
「お前、これ人止めどうするつもりだ?」
人止めとは、ロケなどで一般人が映り込まないように撮影中にストップすることだ。振り向かないことを条件に通行人として活用する場合もあるが、大抵の人はキャストをチラと目で追ってしまい、通行人として不自然になるのでやらない。
「製作部・助監督・P総動員でやります」と私が言った。
ホテル街の入り口にはベテランの制作部、すーさん(年齢不詳)を配置した。ホテル街の出口にはヤマさん。そのほか、各ラブホテルには一人ずつ出口を塞ぐように配置。最後の一人の私も、目の前のバリ島リゾートをイメージしたホテル「バリラウンジ」の入り口に立つ。
「よーい、スタート!!」
監督の声が無線に入る。ここから「カット」の声が入るまでの約5分間、私は出てくる客を止めなければならない。今日は朝の7時からの撮影で、朝5時集合だから、頭はうまく働かず、眠気に支配されている。
〜♪
「バリラウンジ」の受付横にあるエレベーターが鳴る。
なんと、脂ぎった男と、すっきりした顔の女が腕を組みながらエレベーターから出てくるではないか。
「何食べる〜?」と言いながら、今にもキスを始めそうに顔を寄せ合い、仲睦まじげにこちらに向かってくる。
このまま外に出てしまったら、撮影中のシーンにホテルから出てくる一般人が映ってしまう。大抵の場合、自分たちがホテルから出てくるところを放送されたい人なんていないだろう。せっかく万事順調に撮影は進んでいたのに、これではカットがかかってしまう。
「あの、、、ちょっと待ってください」
「はあ?!」
女性が変な顔をする。
「あと3分、あと3分で良いので待ってもらえませんか?」
「?!あなた何者ですか?!」
女性は恐怖に怯えた顔をする。
男性は「何かバレたんですか?!』とすっとんきょうな声を上げた。
「ここ、撮影しておりまして」
男性の顔が青ざめる。
「俺たちを?!」
何か勘違いさせてしまったようだ。男性は360°を見渡して一刻も早くこの場から立ち去りそうにしている。
私は焦って「いやいや、今この先が撮影を行なっていて……」と伝える。
「え、早く出たいんですけど」
「もーー!!サイテー!!」
カップルと私は押し問答を繰り返す。
と、無線から「カット!!」という声が聞こえる。
「すみませんでした!もう大丈夫です」
私は90度よりも深いお辞儀をした。
不可解な顔をしてホテル「バリラウンジ」を後にする男女。その後を私もついていく。
と、女性が「うわ〜〜〜」と黄色い声を上げた。「俳優の内山田じゃん!!」
主演の禰津鷹人役・内山田隆守はこちらを振り返り、にこやかに手を振る。
「すみませーん。これってサインとか頼んで良いんですか?」
女性が瞬時に撮影を理解したようで、先ほどとは打って変わった笑顔を見せる。
私は「ごめんなさい」と伝えるが、ちゃっかりカップルは内山田と握手をしていた。
「いろいろあったけど、内山田に会えたからよかったです♪」と女性は嬉しそうにしてくれた。
ちょうど昼休憩に入り、唐揚げ弁当を手渡された。次の桜台のスタジオに行くまでの間、各自で休憩時間として弁当を食べるよう言われた。
私はちょうど良さそうな歩道の石を見つけ、その上でお弁当を駆け込む。横にいるヤマさんが「大卒のねーさんも、ラブホ街で唐揚げ弁当食うなんて惨めだねえ」といつもの調子で絡んできた。
私は「ははは」と受け流し、空を見た。空は青いし、まだ10時。私はラブホ街で唐揚げを食べている。さっきは謎の不倫カップルに侮蔑の視線を向けられた。何やってるんだろうーー
私は唐揚げを齧りながら、涙が溢れてきた。
ポロポロポロポロ。
「?!』
ヤマさんは突然焦り出したようで「そういうつもりじゃなかったんだ!」と言ってきた。
私は涙が止まらない。「え〜、なんでだろ。普通に。あれ、止まんない!なんで?!?」
心と体が分離しているみたいだ。何が悲しいのかもわからない。こんな仕事はこの2年間、毎日やっている。それなのに。
まだ食べられていない唐揚げが2個ある。汚い油がふんだんに吸われた茶色い唐揚げだ。白米だってまだ半分残っている。でも、吐き気がして仕方ない。頭が痛い。胃がちぎれそうなくらい痛い。
「______!」
体全体が拒絶反応を起こしているみたいだ。呼吸ができない。え?私どうなっちゃったの。ヤマさんが不安そうな顔をしている。私はすぐに笑顔にならなきゃ。でも涙が止まらない。息が吸えない。息が荒くなる。もう喉の底まで吐き気が込み上がっている。
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