メルゴーの誘惑

神殿で、彼はいつものように眠りにつく。

ここは静かだ。空は紅く、空気は冷たく、小鳥のさえずりも聞こえない。

彼は玉座の上で身じろぎをし、マントにくるまる。人間から奪った自身の血液が、身体の中を巡っているのを感じる。温かい。彼はそっとまぶたを閉じる。

しかし、心地よい眠りを妨げる不粋な客人が現れる。彼女はずかずかと神殿に入ると、眠りにつこうとしていた彼に、しわがれた声をかける。

「お前が、イクサガミかえ?」

名を呼ばれた彼は、気だるそうに目を開ける。虚ろな瞳に映るのは、黒衣に身を包んだ小さな老婆。

「おやおや、返事もろくにできないとは」

彼女はケタケタと彼を嘲笑う。

「しかしねぇ、私はお前と争いに来たわけではないんだよ」

彼女は、静寂を好む彼の神殿の中心で、好き勝手に喋り続ける。

「お前に話があるんだよ。良い知らせだ」

「…」

彼はうるさそうに、顔をしかめる。しかし老婆はその様子を気にもしない。

「ああ、私としたことが。名乗っていなかったねぇ」

「…」

「私の名はメルゴー。覚えておくがいいさ」

「…」

「お前はイクサガミだろう?神のくせにこころを病み、神殿に引きこもっているそうじゃないか」

「…」

「私はねぇ、お前と取り引きしに来たのさ。お前も、が邪魔なんだろう?」

「…」

「わからないかね?メビウスのことだよ」

「…」

「あの女は勝手にお前を神にして、お前の人生を大いに狂わせた。人間は人間のまま生涯を終えるのが、お似合いだってのにねぇ」

「…」

「しかしね?しかしだよ?もしお前が私に協力するのならば、あの女を打ち倒し、お前を真に自由にすることを、私は約束してやるよ」

「…」

「まぁ急いで答えを出す必要はないがね、色よい返事を聞かせておくれな」

「…」

「さぁ、お前の好きな戦争が始まる。心しておくがいいさ」

一方的に喋り終えると、彼女は甲高く笑いながら、黒衣をはためかせて神殿を出ていく。

うるさい客が去ると、神殿はひときわ、しんとする。取り引き、戦争、真の自由…彼は頭の中で、老婆の並べた言葉を繰り返す。しかし動揺はしない。初めから、彼の意思は決まっている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る