巨狼の影

藍色のキャンバスに、ミルクのしずくが撒き散らされる。月はない。街外れにあり、街灯も少ないアンナの家の周辺は、星を見るのにうってつけの場所だが、肌寒いせいか、ひとの往来はほとんど無い。

ラジオから夜のニュースが流れる。アルバートは椅子に座ると、興味津々な様子で、ラジオから流れる音声に耳を傾ける。ここ最近、ニュースはとある話題でもちきりだ。彼はつまみを回して、ボリュームを上げる。


オメガの紛争が勃発した地帯に再び、全長3メートルを超える、巨大なオオカミが姿を現したという情報が入りました。現場にいた兵士たちの目撃証言だけでなく、複数の監視カメラにもその姿を確認できます。そのオオカミは群れを形成せず単独行動をしており、黒い体毛で、目が赤く、非常に凶暴であるとのことです。現在、政府が研究者らと共に調査を継続していますが、神出鬼没のためか、そのオオカミの正体を掴むことはできていないようです。今までに、少なくとも27人が重軽傷を負う被害に遭っており…


アルバートは眉をひそめながらつぶやく。

「戦場に、また巨大なオオカミが…?」

その不思議な組み合わせに、彼は首を大きく傾げる。

「どう考えてもおかしいよね?どこから、何のために来るんだろう?」

背中を丸めて考えこむ彼の横で、ニュースは止まることなく流れていく。彼はそれを聞きながら、何かが頭の隅に引っかかっていることを自覚する。なんだろう…?彼は何かを思い出しかける。しかしそれは、思い出そうとすればするほど、濃い霧の中へするりと逃げていってしまう。彼は眉間にしわを寄せ、しばらくの間、奮闘する。そして彼は叫ぶ。

「ああっ!」



彼は誰かに名前を呼ばれた気がして、目を開ける。しかし、眼前に広がるのはいつも通りのがらんとした神殿。高い天井。冷たい床。

彼はのそりと立ち上がってみる。しかし身体が鉛のように重い。まぶたも。だるくてだるくて、仕方がない。彼はすぐに、また玉座に座る。眠い。思考がまとまらない。誰かに何かを伝えたいのに、彼にはできない。彼は声を絞り出す。

「う…」

しかしそのうめきは誰かに届くことなく、虚空へと消える。彼は異様な眠気に耐えられず、再び夢の中へと落ちていく。



アルバートは、本のページをばらばらと雑にめくっていく。もう、どこに載ってるの!どんなに探しても、イクサガミのことは載っていない。彼は苛立ちさえ覚える。

「思い出したんだよ!思い出したのに…!」

彼は夢で見た景色を頭に浮かべる。血の海の中で、恐ろしい怒りの声を上げながら巨狼へと姿を変える、小さなウォークライ。

「黒かった!目も赤かった!」

しかしどの本にも、イクサガミのことは載っていない。彼は乱暴に本を閉じる。そしてリビングへ向かい、最近の新聞やら雑誌やらを自分の部屋に持ってくると、机に広げる。

「彼はどこに出没した?規則性はある?」

机の上に場所がないので、彼はベッドの上に世界地図を広げる。そして新聞や雑誌に載っている情報を読みながら、赤インクのペンで世界地図に印をつけていく。

「…」

彼は集中する。興奮で手が震える。

数分後、彼は印をつけ終わる。

「これ、は…」

アルバートは地図の全体を見る。ウォークライが現れたという場所。赤い印。それは、クリムゾン・タールが見つかった国とほぼ一致している。彼は目を見開く。

「クリムゾン・タールを…狙っているの?」

しかし理由がわからない。

「どうして、自分でばら撒いた自分の血を狙う必要があるの?」



彼は、重い身体をひきずるようにして、久しぶりに神殿の外に出る。空は懐かしい色をしており、空気はひんやりとしていて心地よい。地面には紅い花が咲き乱れている。彼はその甘い香りに包まれながら、ゆっくりと歩き出す。どこからか、小鳥の美しいさえずりが聞こえてくる。

花畑を悠然と歩く彼の艶のある体毛は、夜の闇のように黒く、地面を踏みしめる四本の脚は、巨木のように太い。爪はヒグマのそれよりも遥かに大きく、鋭い。口の中には、ティラノサウルスを彷彿とさせるナイフ状の牙が、ずらりと並んでいる。紅い花畑に、黒い巨狼。それは、異様な光景。

彼は足を止め、花畑の中心に座りこむと、大きなあくびをする。やはり眠い。彼は目を覚ますために、川のほとりに行って冷たい水を飲む。それから頭や身体を、ドリルのようにぶるぶると揺らす。眠気はやわらぎ、決意が胸を満たす。

速く、できる限り、速く。彼は走り出す。



アルバートはモニカの家に電話をかける。ベルの音が三回ほど鳴ったのち、がちゃりと音がして、受話器から陽気な男性の声が聞こえてくる。

「はいよ、シュミットです」

「もしもし、僕、アルバートって言います。モニカさんはいますか?」

「おや、モニカのお友だちかい?」

「そうです。この前、ふたりで仲良く行方不明になりました」

「そりゃ笑えない冗談だよ、君。ちょいと待っていなさい。すぐ呼んでくるよ」

「ありがとうございます」

数秒間待つと、モニカの声が聞こえてくる。

「もしもし?お電話変わりました、モニカです」

「モニカ、僕だよ」

「あら、アルバート、どうしたの?」

彼は声のトーンを少しだけ落とす。

「あのね、僕、変なことに気がついたんだ」

「…変なこと?」

「うん。今、オメガの紛争地帯で巨大な黒いオオカミが現れたってこと、すごくニュースになってるよね?」

「ええ、私も知っているわ。親が夜に必ずニュースを流すから」

「それでね、僕、何か引っかかることがあって、オオカミの出現場所を地図にマークしてみたんだ」

「…」

「クリムゾン・タールが発見された国と、ほぼ一致していたよ」

モニカの息を呑む音が聞こえてくる。

「それって…」

「僕、夢で見たんだ。思い出すのにずいぶん時間がかかったけれど。黒いオオカミはおそらく…ウォークライさんだよ」

「ウォークライさん…」

モニカが呆然とした声で繰り返す。

「イクサガミが、どうして…?」

「詳しい理由はわからない。でも、クリムゾン・タールが発見された国にばかり現れていることを考えると、おそらく、そのタールを狙っているんじゃないかな?」

「クリムゾン・タールを?自分でばら撒いた自分の血を?」

「うん」

「…」

「ねぇ、不自然だとは思わない?図書館であんなにたくさん本を借りたのに、どれにもイクサガミのことは載っていない」

「確かにそうね」

「イクサガミは、比較的若い神様なのかもしれない。でも、ここまで何も情報が無いのって…なんだか不気味」

「手がかりは私たちが見た夢と、神隠しの時の出来事くらいね」

「メルゴーのことを突き詰めていけば、何か得られるかも。明日、また一緒に調べよう」

「ええ、わかったわ」

「それじゃあ、おやすみ」

「おやすみなさい」

がちゃりと、電話が切れる。

アルバートは部屋に戻り、ベッドの上に散乱している分厚い本たちを睨みつける。

「メルゴー…」

無意識のうちに、彼は低くつぶやく。



その人間たちは言った。

「もう戦えないだなんて、そんなつまらないことがあるか?」

「手足を失ったとしても、俺たちは戦場へ行きたい」

「あそこだけなんだ、俺たちが俺たちとして生きられる場所は…」

ぼろぼろの傭兵たち。彼らはイクサガミの神殿を訪れ、懸命に神に祈った。

「返してくれ!俺たちの居場所を!」


その人間たちは言った。

「戦争が起きると、金が入ってくる」

「我々の商売にはそれが必要なのだよ」

「どこかでまた戦争が起きないものかねぇ」

かっちりしたスーツに身をかためた、太った男たち。葉巻をくゆらせながら、彼らはずかずかと神殿に入っていった。


その神殿を訪れた人間たちは、皆一様に戦争の勃発を祈っていった。イクサガミはそれらの祈りを聞き届けた。彼は言う。

「始めるがいい。お前たちの好きな闘争を」

そして、賽は投げられたのだった。

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