目を開けて

「あ、あの…!」

「もっと大きな声で話さなきゃ。あのひと、ただでさえ反応が鈍いんだから」

「わ、わかってるよ」

「大きな声で、ほら!」

「あの!すみません!」

アルバートはぎくしゃくしながら、玉座の男に向かって話しかける。アルバートの背後には、小さくなったモニカ。ふたりは恐る恐る、男の反応を見る。男は、いつものように気だるげに、ふたりの人間の子を見下ろす。アルバートは続ける。

「質問するので…こ、答えてくれませんか?」

男の顔は変わらない。感情の読めない表情のまま。その目は暗く、覗きこむと吸いこまれてしまいそうに思える。モニカがこそりとつぶやく。

「とにかく質問をぶつけてみるしかないわ」

アルバートは一歩前に出ると、緊張した面持ちで、背筋をぴんと伸ばす。なるべくお行儀よく。なるべく男を刺激しないような言葉遣いで。彼は言葉を選ぶ。

「ぼ、僕は、アルバートといいます。あなたのお名前は何ですか?」

やはり、と言っていいのか、男は反応しない。アルバートは次の質問を考える。

「あの紅い花の本当の名前は、何ですか?」

これもダメ。次。

「紅い花を折るとたまに出てくる液体は、クリムゾン・タールなんですか?」

男の眉がぴくりと動く。しばしの沈黙ののち、低く低く、彼はつぶやく。

「あ、か…せん、し…」

彼は何かを思い出そうとするかのように、顎に手を当てる。アルバートはこころの中で、小さな喜びの声をあげる。よし、反応した!成長する好奇心。

「クリムゾン・タールとは何なのですか?」

どうやら男は、クリムゾン・タールという単語に反応したらしい。それを感じ取ったアルバートは、次の質問の中にも、その言葉を入れてみる。そしてかたい身体を動かし、背筋を伸ばして結果を待つ。

「…あか、い…あかい…」

男は反応する。やっぱり!アルバートの胸で、心臓が激しく脈動する。彼の体の中を、熱い血液が巡る。

「紅い、液体。クリムゾン・タール」

子どもにものを教えるように、アルバートはゆっくりはっきりと言う。

「あか、い…たぁ、る」

男はアルバートの言葉を真似るように、海鳴りのような声を絞り出す。アルバートはその間、男の顔をじっと見つめる。日に焼けた、陶器のように滑らかな肌、艶の無い黒い髪、漆黒の右目、紅い左目…そして、口を開くたびにちらちらと見える、オオカミのように鋭い牙。彼は確信する。間違いない、ケモノビトだ。彼はもう言葉を抑えられない。彼は自分でも知らないうちに、それを口にしてしまう。

「ウォー、クライ…?」

男の瞳が揺れる。

「僕はあなたを、見たことがある…」

そう言い終わった次の瞬間。

「…見たのかい?こいつを?ならば、我々のことも見たのだな?」

背後からしわがれた、奇妙な声がする。モニカが突然、甲高い悲鳴をあげる。アルバートはモニカを守るために素早く振り向き、そしてひゅっ、と息を呑む。

そこにいたのは、床を這う、四肢がちぎれたツノビトの男。首の無い、ヒトだったらしい肉塊。恐ろしい声で叫びながら、己の内臓をひきずる女…

彼らは、耳をふさぎたくなるような痛ましい声を上げながら、赤黒く濁った血液をぼたぼたと垂らしながら、ずるずるとこちらへ寄ってくる。モニカがアルバートに抱きつく。アルバートは硬直する。それと同時に、彼の脳裏で閃光が瞬く。そうか、僕があのとき、倒れる直前に見たのは、これだったんだ…アルバートは、目を見開きながら理解する。しかし彼は動けない。声も出ない。世界が暗くなっていく。助けて、助けて、助けて…

「失せろ」

怒りのこもった男性の声。それは冬の湖面のように静かで、冷たい。その声に肉塊たちはびくりと震えると、悔しそうにしながら、そそくさと向こう側の暗闇に引っこんでいく。ふたりはかたまって震えながら、ゆっくりと声のした方向を見る。

「え…?」

そこには、玉座から立ち上がった神がいる。


「助けてくれて…あ、ありがとうございます」

アルバートは未だ恐怖でもつれる舌を懸命に動かして、男にお礼を言う。

「ありがとう…ございます…」

モニカも続く。

しかし男は再び玉座に座ると、先ほどの威厳はどこに行ったのか、暗い、ぼんやりした目でふたりを見る。

「こど、も、たち…」

男は言う。ふたりは、どうしたのかと、首を傾げる。男は続ける。

「けい、こく…」

男の目を注意深く見つめて、アルバートはようやく気づく。この男と会話をするのは難しい。しかし、彼は何かを伝えようと、言葉を絞り出しているときがある。彼のつぶやく言葉には、きっと何か意味がある。彼はそっと口に出す。

「ウォークライさん、ありがとう」

男の瞳が、また揺れる。



「さっきの血みどろのひとたち…なんだったんだろうね」

アルバートはささやくように言う。

「わからない…わからないけど、見てはいけないひとたちだってことは、わかるわ。それにこれ以上、言及しないほうがいいってことも」

モニカが青い顔で返す。

ふたりはくっつきながら、これからのことについて話し出す。

「僕、思ったんだ。あの男のひとは、あのひとなりに、何かを伝えたくて言葉をつぶやいてる。そんな気がする」

モニカは黙ってアルバートの話を聞く。

「神様とコミュニケーションをとるのは難しいに決まってる。でも、もし僕の記憶が確かなら…」

モニカは不思議そうな目で彼を見る。

「あのひとは大昔、人間だったんじゃないかな?」

アルバートはモニカの目を見つめ返す。彼女は目を丸くする。

「そ、そんなことって…」

「あくまで可能性、だけどね」

そして彼は提案する。

「とにかくたくさん話しかけて、あのひとが返してくる単語を調べてみよう」



アルバートは、小さなノートと黒インクのペンを用意する。モニカが一歩、前に出る。

「今度は私の番ね。まかせて」

彼女は玉座の正面に立つと、可愛らしくお辞儀をする。

「こんにちは、ウォークライさん」

男が眠たげに彼女を見る。彼女は顔を上げると、彼に語りかけ始める。

「今日はいいお天気ですわね。空はどこまでも紅くて、まるでクリムゾン・タールに染め上げられたみたい」

「あか、い…」

「クリムゾン・タールはご存知ですか?今、良くも悪くも世界中で話題の、え〜と、燃料?ですわ」

「…」

「クリムゾン・タールを巡って、戦争が起きるほどですの。私、とっても知りたいことがありまして…」

「…」

「森と山を越えたあたりにあるお花畑。あそこには綺麗な紅いアマリリスが、たくさん咲き乱れていて…なんと、その花を折ると、クリムゾン・タールみたいな液体が出てくるんです」

「…」

「教えてはくださいませんか?クリムゾン・タールって、いったいなんですの?」

「…あか、い、あかい…」

「…」

「あか、い…ち」

「…?」

モニカは首を傾げる。アルバートは素早くノートに男の言葉をメモする。

「紅い…血?」

モニカはアルバートのノートを覗きこむ。ふたりはかたまって作戦会議をする。

「どうする?もっとクリムゾン・タールのこと、聞いてみる?」

「う〜ん、これ以上喋ってくれるかなぁ?」

「他に話題はあるの?」

「えっと、ウォークライっていう名前にどれだけ反応するか、見てみたいかも」

「そういえばあなた、どうしてあの男のひとの名前を知っているの?」

「話すと長くなるよ」

「じゃあ、後で聞かせてもらうことにするわ。今はとりあえず、反応を見ることに集中しなきゃ」

彼女は再び玉座の前に立つと、小鳥のように滑らかに話し出す。

「ウォークライさん。あなたのお名前は、これで合っていますの?」

「なま、え…」

「変わったお名前ですわね。でも、素敵だわ。ご両親がつけたのかしら?」

「…」

「ウォークライさん、あなたにご家族はいますの?」

「…ぐ」

「…?」

「ふぃ、ぐ…」

アルバートはメモをする手を止める。

「フィグ…?」

聞き覚えのある単語。アルバートは両目を固くつむる。…どこで聞いたんだっけ?目の内側の暗闇の中で、彼は記憶の糸を慎重にたぐる。フィグ、フィグ、フィグ…そして彼は雷に打たれたように、両目をぱちりと開ける。

「あの夢…!」

そのつぶやきに、モニカが不安そうに振り返る。

「アルバート?どういうこと?」

しかし彼は、興奮で頬をリンゴのようにしながら、ひとりで喋りだす。

「思い出した!…やっぱりあなたは大昔、小さなケモノビトだったんだ!それで、生贄にされて、それから…」

モニカがしびれを切らす。

「アルバート!」

「わっ!ご、ごめん…」

彼女は仁王立ちする。

「…話してもらいましょうか。どうしてこの神様のことを、色々知っているのか」


「あの神様は大昔、ウォークライっていう、小さなケモノビトの子だった。でも村の祭儀で生贄にされて、その際に、死ぬと同時に神様になった。フィグは人間だった頃からの友だちで…その子は、彼の目の前で亡くなってしまった」

モニカは静かな声でつぶやきながら、アルバートから聞いた話を、ノートにさらさらと書いてまとめる。書き終わると彼女は手を止め、何か物思いにふけるような顔をする。遠く、虚空を見る目。

「そのフィグって子、私と同じぐらいの年だったのよね?」

アルバートは神妙な面持ちで、こくりと頷く。

「そう…」

彼女は、ペンとノートをアルバートに返すと、玉座の前へ歩いていく。

「…モニカ、何をする気?」

アルバートが不安そうな声で彼女にたずねるが、彼女は答えない。彼女は玉座のすぐ目の前に立つと、顔を上げて、男の目をまっすぐに見つめる。そして、言う。

「思い出してあげて。フィグのこと」

しかし男は眠たげな眼差しのまま。

「思い出して。私があなたを、起こしてあげる」

彼女は階段を上り、男の左手に触れようとする。アルバートが慌てて声を上げる。

「だめだよ!神様に触れたら…」

しかし間に合わない。彼女の右手は神に触れる。その瞬間、アルバートは鮮やかな火花が飛び散るのを見る。

「モニカ!」

彼女は、神に触れた手に火傷を負う。しかし彼女の表情はぴくりとも動かない。凪のような静かな目で、彼女はただ、じっと男を見ている。

神が、応えるように両の眼を開く。そして、彼はゆっくりと玉座から立ち上がる。

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