沈黙する神の神殿
穏やかな風、暖かな日差し、透き通る空。アルバートは青空を見上げて、深呼吸する。冷たく澄み渡った朝の空気。アンナはまだ眠っている。彼は静かに家から離れると、走り出し、翼を広げ、ふわりと空へ飛び立つ。
もう何度目かもわからない。彼は再び、あの紅い花畑に降り立つ。そして震える手で三本の紅い花を摘むと、川の水で足を冷やし、帰路につく。彼は緊張の汗を流しながら、神隠しに遭った日の再現をする。
「もし、これでまた神隠しに遭うのなら…」
彼はつぶやく。
「今度は、別のこたえを見つけてみせる」
山を越え、森を越え…しかし彼は、神隠しには遭わない。彼はがっかりする。
「同じように行動したのに、神隠しをもう一度体験することはできなかった…」
彼は地上に降りると、肩を落としながら、ポケットに入れていた小さなノートに、そう書きこむ。しかしそこで彼は、神隠しではない、別の不思議な体験をする。
たった今ノートに書きこまれた黒インクの文字が、ノートの紙に吸いこまれるようにして、消えていく。
「…!」
彼は興奮で目を見開くと、もう一度同じ内容をノートに書く。そしてそれは、同じようにして消えていく。彼は、空白となったノートのページを、穴があくほど見つめる。大きな鼓動。しばらくすると、その空白のページに、ひとりでに紅い文字が浮かび上がる。
「お前」
彼はぞくりとする。あちこちに鳥肌が立つ。彼はペンを握りしめ、黒インクで書きこむ。
「僕のことを見ているのですか?」
その文字は先ほどと同じように消え、紅い文字が浮かび上がる。
「来い」
どうやら神様は、僕の質問に答える気は無いみたい…彼は慎重に言葉を選ぶ。
「あなたは、誰ですか?」
この答えも返ってこないだろう。しかしそれを、彼は知っている。紅い文字は言う。
「中へ」
一陣の風が吹く。彼は思わず目を閉じる。そしてゆっくり目を開けると、そこはあの荒野だった。灰色の大地に、紅い空。アルバートは引きつった笑みを浮かべる。
「これで僕も、行方不明者の仲間入りだね…」
彼はつばを飲みこむと、歩き出す。
紅い空の下、アルバートは砂利を踏みしめ、西へ西へと歩いていく。そこを支配しているのは、気味が悪いほどの静寂。しかし彼は、真実を求めて歩き続ける。彼はつぶやく。
「ここに、神様がいる…」
イカロスの話。恐怖。彼の頭の中を、それらがぐるぐると回る。彼は歯を、ぎゅっと噛みしめる。
「僕は、知りたい」
あの廃墟に、否、朽ちた神殿にたどり着く。
─
果たしてそこに、あの男はいる。オッド・アイの男。石の玉座に鎮座し、アルバートを見下ろしている。アルバートは爪が食いこむほどにこぶしを握りしめ、男を見上げる。口の中が渇いていく。膝が震える。視界から、色彩が少しずつ失われていく。彼は勇気をふり絞って、男に問いかけようとする。
「あ、あの…紅い、花、って…」
声が震える。舌がもつれる。だめだ、上手く話せない…彼はさらに強くこぶしを握る。
「あれ、は…なん、で、すか?」
男は感情の読めない表情のまま。質問に答えようとする様子は見られない。アルバートは震えながら続ける。
「あな、たは…か、神様…なん、ですか?」
すると。
「おま、え…さがす…」
男が声を発する。低く、落ち着いた声。アルバートは目を見開く。
「あの…」
「き、た…」
男は意味の取れない言葉ばかりを話す。途切れ途切れの、独特な話し方。アルバートは己の両頬をぱん、と叩くと、男に問う。
「行方不明になった、ツ、ツバサビト…ここにいますか?」
「…」
「あなたが…その、連れこんだのでしょう?帰してあげてはくれませんか?」
「さが、す…」
「…?」
まるで会話が成り立たない。アルバートは途方に暮れる。以前、神隠しに遭った時は、まだなんとか会話が成り立ったような気がするのに…彼は不思議に思う。このひとは、神様…なんだよね?彼はもう一度、男を見上げる。男の不思議な色の目を、彼は真っ直ぐに見る。彼の中で、火花が散る。
「あなたは、もしかして…」
しかしその先は言わない。何だか恐ろしい。
「待って…」
アルバートは、ふと思う。どこかから、視線を感じるような…彼は振り向きたい衝動をなんとか抑え、まず情報を整理するべく、自問自答する。
このひとは、神様…なんだよね?
うん、そのはず。僕は今、神隠しに遭っていて、ここは神様の領域だから…この男のひとは、神様で間違いないはず。
なぜここは神様の領域だとわかるの?
それはおばあちゃんが、そう教えてくれたから。空の色も変だし、きっとここは普通の場所じゃない。神様の領域。
行方不明になったツバサビトは、どこに行ったのかな?
きっとこの神様の世界のどこかにいて、助けを求めてるんだ。
さっきから感じる、誰かに見られているような気配は、何なんだろう?
それは…もしかして行方不明になったツバサビトなんじゃないかな?まさに今、僕の後ろにいて、僕を見て…
ようやく、彼は振り向く。
…いる。
─
気がつくと、彼は神殿の石の床に寝かされている。硬く、冷たい。彼は起き上がる。そして彼は奇妙に思う。最後に見た景色が思い出せない。おかしいな…僕は何かを見て、倒れたはず…彼は顔を上げる。すると目の前に、心配そうにこちらを見るツバサビトの少女がいる。
「だ、大丈夫…?」
彼女は静かに、アルバートに問いかける。彼はとっさに笑顔を作ると、元気そうに言う。
「うん、大丈夫!もう大丈夫だよ!」
「よかった…」
少女は胸をなでおろす。その様子を見て、アルバートはふと思い出す。
「君は、もしかして…商店街の…」
「私のこと、知ってるの?」
少女の問いに、アルバートは頷く。
「ツノビトの警察官から聞いたんだ。チーズ屋の向かいのお店の、店長さんの娘さんが、行方不明になったって…」
少女は困り果てた顔をする。
「私…行方不明になっているのね…」
「大丈夫、帰り方を知ってるよ」
「本当!?」
少女は目を見開く。アルバートは胸を叩く。
「僕にまかせて!」
アルバートはよろよろと立ち上がる。まだ膝が震えている。少女が慌てて支えてくれる。彼は彼女にお礼を言うと、何があったのかを知るべく、問いかける。
「君は、どうしてここに?他の行方不明者たちは?」
「私、気がついたらここにいて…でも、よく思い出せないの。他の子たちはあそこにいるわ」
少女は指差す。アルバートは首を動かして、その方向を見る。確かに、遠巻きにふたりを見ているツバサビトの子どもたちがいる。彼は安堵する。よかった、無事だったんだね。そして彼は、首をひねる。
「あの…僕、何か大変なものを見て倒れたような気がするんだけど、何を見たのかな?全然思い出せないや」
「私も見た。思い出さないほうがいいわ」
「ま、待って!僕が何を見たか、知っているの?」
「…あなたが見たもの、想像がつくわ。気を失うほどひどい光景って、ここにはひとつしかないもの」
「気を失うほど、ひどい光景…?」
「…ええ。記憶が飛んだのは、不幸中の幸いよ」
彼女はアルバートの手を取ると、他のツバサビトの子どもたちのところへ連れて行く。
「みんな!この子が帰り方を知っているんですって!帰れるわよ、私たち!」
子どもたちが歓声を上げる。アルバートはなんだか、むずがゆくなる。彼は早速、子どもたちを案内する。
「真っ直ぐに、この神殿を歩いて出ていくんだ」
「歩いて出ていく?それだけ?」
「そう。…でも、絶対に振り向いちゃだめだよ」
子どもたちはつばを飲む。
「わ、わかった!」
しかし少女だけは、凛とした表情で宣言する。
「私はまだここにいるわ」
アルバートは思わず、えっ、と声を出す。
「どうして?帰らないの?」
「あなただって、まだ帰るつもり無いんでしょう?」
彼はぎくりとする。彼女はアルバートの目を覗きこむ。
「帰りたいのは山々だけれど、あなたをここにひとり残すなんて、私にはできない」
「で、でも…」
「いいから!」
「…あ、ありがとう」
アルバートは渋々、受け入れる。
子どもたちが去ってから、彼は気づく。
「…あれ?どうして僕、振り向いちゃだめってこと、知ってたんだろう?」
─
「私、ここにいる間、あの男のひとの様子をたくさん調べたの。でも、怖さが増すだけだった。あのひといつも無表情だし…玉座から立ち上がったところも見たことないわ」
モニカは膝を抱えながら話す。
「会話して情報を引き出そうとも思ったんだけれど、あのひと、とんちんかんな返事しかしないの。会話なんてできない。私、あの時は本当に途方に暮れたわ」
アルバートはうつむく。会話ができない…それでは謎は解けない。謎は謎のまま、紅い花はこれからも咲き乱れて、また新たに子どもたちを神隠しに遭わせるのではないか。不安は割れることを知らない風船のように、むくむくと膨らむ。このままじゃダメなんだよ…彼はこぶしをぎゅっと握る。何としてでも、紅い花と紅い汁の正体を突きとめなきゃ。あの男のひとが本当に神様なら、知っているはずなんだ、きっと。
「僕、話しかけてみる、あのひとに」
モニカが顔色を変える。
「ちょ、ちょっと!私の話を聞いてたでしょう?会話なんてできないのよ!それにもし神様を怒らせでもしたら…私たち、終わりよ!?」
しかしアルバートは退く様子を見せない。彼は覚悟を決めた目で、モニカを見る。透き通るサファイア。
「怖いなら、君は帰るといい。ご両親がきっと心配しているよ」
それを聞くと、モニカはふん、と鼻を鳴らす。
「バカにしないで。ここにとどまるに決まっているじゃない。私だって知りたいのよ」
アルバートはふふ、と微笑む。モニカも笑う。ふたりはその場で、くすくすと笑いあう。モニカが、好奇心と恐怖の入り混じった瞳を輝かせて言う。
「私たち、ジャーナリストになれるかもね」
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