イカロスの翼をもいだ者
アルバートは、紅い花のことを忘れようと努める。両親の墓には別の花を供えた。彼はラジオから離れる。ニュースも聞かなくなる。しかし、どんなに手を尽くして「赤」という色を避けても、彼の脳裏から血のような紅い花と紅い汁の記憶が消えることはなかった。
「行方不明になったツバサビト…」
彼はあえて口に出してみる。
「クリムゾン・タールと…紅い、紅い花」
彼はくいと顔を上げる。観念すると同時に、腹をくくる。
「今の僕には、紅い花を忘れることよりも、情報を集めて真実を知ることの方が必要みたい」
─
イカロスの話を知っているかい?
ロウで翼を作り、空を飛ぶことが出来るようになった人間の若者・イカロス…でも、彼はうっかり太陽に近づいてしまう。ロウは溶け、彼は墜落して死んじまった。
有名な話さ、覚えておいで。
─
アルバートは、小さな自分の部屋に籠もる。机にノートを広げ、黒インクのペンを握り、今までに得た情報をメモしていく。
・紅いアマリリスは、おばあちゃん曰く、神様に関係するかもしれない、不思議な花。
・紅いアマリリスから出る汁は、クリムゾン・タールである可能性が高い。
・紅いアマリリスを持っているときに、僕は一度、神隠しにあい、そこで不思議な目の色の男性と出会った。
・行方不明になったひとは皆ツバサビトで、紅いアマリリスと接触があった。
・このあいだ、ケモノビトが出てくる変な夢を見た。神隠しに関係ある?
そこまで書くと、アルバートは首をひねる。
「これ…どう考えても、紅いアマリリスが神隠しを引き起こしているよね?でも、なぜツバサビトなの?」
彼はペンの頭で、己の頬をつつく。
「クリムゾン・タールが海の向こうの国で発見されて…その国の人たちは、戦争に勝つためにしょっちゅうクリムゾン・タールを使っていて…もしあの紅い汁が本当にクリムゾン・タールなら、じゃあ、紅い花に触れたひとなんて、世界中にたくさんいるはずでしょう?」
椅子の背もたれによりかかり、虚空を睨む。
「どうして、ツバサビトだけ…?」
そして、もうひと言。
「あの男のひと…だれだったの?」
太陽が沈み、夕食の時間が来る。しかしアルバートは、アンナが作ってくれた美味しい食事よりも、紅い花と、行方不明になったツバサビトのことで頭がいっぱいだった。食事中も上の空なアルバートを、アンナは眉間にしわを寄せていぶかしむ。
「アルバートや、どうしたんだい?ずっと、どこ見てるかわかんない目をしてさ」
「うん…」
アルバートはただ生返事を返す。アンナの眉間のシワの溝が、ますます深くなる。
しばらく食事を続けたのち、アルバートはつい、独り言をこぼしてしまう。
「アマリリス…」
それを聞いて、アンナが顔色を変える。
「アルバート、あんた、まさかあの花について調べているのかい?」
射抜くような声色で言われて、アルバートはようやく、はっと我に返る。視線を上げると、厳しい目つきのアンナが目の前にいる。アンナは言う。
「あんた…あの花について嗅ぎまわるのはおやめ。あれは不可思議で不吉だ。きっと良くないことが起こる」
「でも…!」
「あのね、紅くてアマリリスに似た、そんな花がある、ということだけ知っていればいいんだよ。その正体は何か、ということまで知る必要はない。あの花が怖いなら、もう忘れればいい」
「それでも、僕は…」
アンナは深いため息をつく。アルバートは彼女のその様子を見て、口をつぐむ。
ふたりは食事を終えると、黙りこくったまま片付けを始める。皿とフォークがぶつかる音、水の流れる音、コップを置く音、ふたりの小さな呼吸の音…そこに会話は無い。
気まずい沈黙の中、片付けは終わる。そしてアルバートが自室に戻ろうとする時になって、やっとアンナが口を開く。
「イカロスの話を忘れるんじゃないよ」
─
イカロスの翼をもいだ者は誰か?神様か?
いいや違う、それはとんだ間違いさ。神たる太陽は、ただそこにいただけ。ずっと前からそこにいて、イカロスが海に沈んだあともそこにいた。神様は何もしていない。神に近づきすぎたイカロスが、勝手に自滅していった。イカロスの翼をもいだ者は、イカロス自身なのさ。
神に近づくってのは、そういうことだよ。
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