忘れるな

神族のひとりとなり、しばらくの時が過ぎる。世界の果てのような場所にある■■の神殿で、彼は己の手のひらを何度も見る。しかしそこにあるのは前と変わらない、小さなケモノビトの手。神になった実感など、少しもわかない。超常の者になったというのは、ただの夢なのではないか?目を覚ませば、いつも通りの日照りが続いていて、またフィグが泣いているんだ…そう思おうとした。しかし彼には、今まで見えなかったものが、たくさん見えるようになっていた。神たる■■や、精霊たち。■■は最奥の玉座に鎮座し、精霊たちは淡く光りながら、無邪気に空をくるくると飛びまわる。

「あなたはあの村に、帰ってみたいと思いますか?」

■■は彼にたずねる。彼はうつむく。

「あなたは自由なのです。お好きなことをしなさい。ずっとここにこもっていても、退屈でしょう?」

彼はふと、フィグの顔を思い浮かべる。肌は日に焼けていて、目はくりっと大きく、口の中には小さな牙が所狭しと並んでいる。頭の中に浮かぶ彼女は、歯を見せてにこりと笑う。会って…みようかな?彼は思う。驚くだろうな。怖がられるかも。でも、会いたい。彼は門をくぐって神殿から出ると、かつて自分が殺された村へと走り出す。


フィグは叫び声をあげ、幽霊を見るような顔をし、慌てて木の陰に隠れる。しかしこそりとこちらを見て、確かにウォークライだとわかると、彼女は恐る恐る、彼に歩み寄る。

「ウォークライなの?本当に…?」

「ああ」

「で、でも…どうして…」

「話すと長くなる」

彼女はきょとんとしたあと、泣きそうな顔をして、その場にうずくまる。

「お、おい、大丈夫か?」

「ごめんね…」

彼女は声を絞り出す。

「わたしのせいで、あんなことに…」

彼はしゃがむと、優しい口調で、彼女にしっかりと伝える。

「おれはここにいるぞ」

彼女は涙で濡れた顔を上げて彼を見つめると、声をあげて泣き、彼に抱きつく。ウォークライはそっと、彼女を抱きしめる。


「わたしの家においでよ。村長たちには秘密にしてさ、お父さんとお母さんと、四人で暮らすの」

「い、いいのか?迷惑じゃ…」

「家族が増えるのよ?迷惑なわけないじゃない!」

彼女はヒマワリのような笑顔を見せると、弾むような足取りで彼を家へと案内する。

フィグの父親はあんぐりと口を開け、彼を凝視する。母親は頬に手を当てて、きょとんとしている。

「本当に、君なのか…?」

ウォークライは彼の目を見てうなずく。

「なんてことだ!」

彼は叫ぶと、ウォークライのもとへ走り寄る。彼の目の前で父親は膝をつくと、彼の両肩に手を置き、頭を垂れる。

「ああ…すまない、すまない!私は何もできなかった。君が殺されるときも、私はただ見ていただけだった。許してくれなどとは言わない。本当にすまない…」

涙を流してこころから謝る彼を前に、ウォークライは戸惑う。彼はフィグの父親に対して、怒りなどこれっぽっちも抱いていなかった。

「おれ、怒ってないです。お顔を上げてください」

父親はゆっくりと顔を上げる。そして彼の頭をそっと撫でると、彼を強く抱きしめる。

「ああ、君が戻ってきてくれてよかった…神よ、感謝します!」


黄金時代が始まる。

フィグの家族に受け入れられた彼は、今までに味わったことの無い、たっぷりの愛情を注がれながら暮らす。彼は父親とともに狩りに出かける。フィグもついて来たがる。弓矢とナイフを携帯し、彼らは大きなシカを狩る。日照りは止み、ときおり雨が降り、草木は成長してゆく。カエルが跳ね、ミツバチが飛ぶ。花は色とりどりに咲き、フィグが、母に届けるのだと言って、それらを摘む。家には干し肉や甘い木の実がどっさりと蓄えられ、夕食には温かいシチューが出る。彼らは火を囲んで、談笑しながら食べ始める。空には月が上品に光り輝き、こぼれたミルクのしずくのような星々が広がる。


しかし、幸福な日々はじわじわと蝕まれてゆく。

彼は首をひねる。このところ、よくないことが彼の目の前でしょっちゅう起こる。村で毎日のようにケンカが起きる。シカが死にものぐるいで突進してきて、父親をはねる。父親は左足を骨折する。ケモノビトの一族が暮らす森の中に、怪しげな人影が侵入する。そいつは捕まり、森の外のツノビトの一族の密偵であることが判明する。

彼は眠れない日々を過ごす。彼が村に来てから、村は小さな争いごとにまみれるようになっていった。それは、たくさんのビー玉が手のひらからこぼれ落ち、くさび形に広がって転がってゆくように増えていった。誰かが大きな手のひらから、争いごとをぼとぼとと落とし、村の中に広げている。そんなふうに、ウォークライには思えた。彼はぶんぶんと頭を振る。そんなことはない。ちょっと運が悪いだけ。意味なんて無い。しかし彼の頭には、杭で打ちつけられたように、ひとつの考えが居座り続ける。


ツノビトが攻めてくるという話が、村の中をひらひらと駆け巡る。大人たちは剣や槍やナイフを片手に、朝から晩まで見張りをし、厳しい顔をしながら話す。

なぜ攻めてくるんだ?あいつら、命をかけてまで、何が欲しいんだ?領土だ、領土を広げたいんだろう。自分たちの力を、周りに知らしめたいのさ。我らの森を守らなければ!

ウォークライはこの話が、自分が呼び寄せたものと思えて仕方がなかった。彼は村から去ることを決意する。しかし、村の警備はすでに強固になっており、子どもがひとりで村の外へ行くことを許しはしなかった。彼は大人たちに捕まり、諭される。安全な村の中にいなさい、大丈夫、少しの我慢さ。彼は頭を撫でられる。彼はなぜか、泣きそうになる。


やがて、その時は来る。

ツノビトからの宣戦布告。

フィグの父親は鈍く光る剣を手に、フィグと母親とウォークライを、暗い森の奥へと避難させる。

甲冑を身に着けたツノビトの軍勢が、森の東側にずらりと並ぶ。ケモノビトの大人たちは、様々な武器を手に、森を守らんと陣形をとる。張りつめた睨み合いののち、どちらともわからぬ雄叫びが発せられ、ふたつの軍勢はぶつかり合う。その猛々しい雄叫びを、森から抜け出そうと企むウォークライは聞く。始まったんだ…彼は急ぐ。もうこうなっては遅い、自分がいようといなかろうと変わらない。頭ではそうわかっているが、彼は足を止めない。

「やめて!戻ってきて、ウォークライ!」

後ろから飛んできた声に、彼はびくりと身を震わせる。

「危ないよ、死んじゃうよ!」

フィグの声。彼は素早く振り向く。そこに、彼女はいる。

「どうして…」

彼は顔から血の気が引いていくのを感じる。

「いいから、早く戻ろう!大丈夫、お父さんも皆も、強いから!ね?」

フィグは必死に彼を引き留めようとする。しかし彼は青ざめながら、首を横に振る。

「も、戻るわけにはいかない…」

「どうして!」

「…」

彼はこたえられない。言えない、この戦争は自分が呼んだなどとは。彼はうつむく。しかしすぐに顔を上げると、くるりと体の向きを変えて走り出す。

「待って!ウォークライ!」

彼女も走り出す。彼は必死に叫ぶ。

「ついてくるな!お前はお母さんのところへ戻れ!」

「いや!あなたのことを知らんぷりするなんて、できない!」

フィグの足は、想像以上に速い。彼は彼女を振りきれないと理解すると、ジグザグに走り、木の陰に隠れながら森の出口を目指す。彼女は彼を見失う。

「ウォークライ!」

彼女は泣きそうな声で叫ぶ。それを聞いて、彼は思い直す。このまま彼女をここに置き去りにしたら、戦闘に巻きこまれるかもしれない。…仕方がない。彼は逡巡したのちに踵を返すと、彼女のもとへと走り出す。彼女はぱあ、と笑顔になる。

「ウォークライ…!」

彼女は安堵の声で言う。ウォークライは彼女の手を取る。

「戻るぞ」

彼は彼女の手を引いて走る。急げ、速く。戦はもう始まっている。遠くから、煙のにおいがする。金属がぶつかり合う音が小さく聞こえる。悲鳴と、怒りのこもった雄叫びも。ふたりは走る。次の瞬間、ひゅん、と口笛のような音を立てて矢が飛んでくる。それは地面にずぶりと突き刺さる。フィグが小さな悲鳴をあげる。彼は振り向く。焦る。まずい、ツノビトがここまで来ている!彼はフィグを前に連れてくると、彼女を矢からかばうように走る。彼女は泣きながら、もつれる足を動かして必死に走る。矢がひとつ、ふたつと飛んでくる。彼らはもう振り向かない。走る、走る。時間もわからなくなるほど必死に足を動かして、しばらくたったのち、フィグはもういくつめかもわからない矢が、地面ではない場所に突き刺さる音を聞く。…まさか。彼女は勇気を振り絞って振り向く。ウォークライの体がぐらりと傾いてゆくのが見える。彼女は目を見開いたまま、その光景をただ見る。奇妙なスローモーション。傾いた彼の背には、一本の矢が刺さっている。鮮やかな紅い血が流れ、彼は声もなく倒れこむ。彼女は悲鳴をあげる。彼女は足を止め、慌てて彼を抱き起こす。

「ウォークライ!ねぇ、しっかりして!」

しかし彼は、言葉にならないうめき声をあげるだけ。彼女は後ろを見る。そこには、馬に乗ったツノビトが弓矢を構えている。彼女はウォークライを横向きに寝かせると、立ち上がり、構える。

「フィグ…やめろ…」

彼の弱々しい声。彼女の決意。フィグは風のような速さで走り出すと、馬の足もとを目指して懐に入りこむ。ツノビトはその速さに驚き、慌てて距離をとろうとするが、もう遅い。彼女は爪を立てて馬の首を掴むと、ひょいと体をよじって馬の上に乗り、恐怖に顔を歪めるツノビトの首に牙をたてる。ツノビトはもがき、悲鳴を上げ…やがて、動かなくなる。彼女はその首から口を離す。舌に残る血の味、鉄の味。暴れる馬から飛び降りると、よろよろと力無く歩き、フィグはウォークライのもとへ戻ってくる。

「も、もう、大丈夫。殺しちゃった…」

彼女はへら、と笑い、座りこむ。彼は薄れゆく意識をどうにか繋ぎ止め、彼女の手に己の手を重ねる。

「あり、が、と…」

そう言うと、彼女は誇らしそうに胸を張ってみせる。

彼女は彼の背中を見る。そして、地面に突き刺さっている矢も。矢じりに“かえし”はついていない。彼女は彼の背中から、矢を引き抜こうとする。彼は痛みに顔を歪め、声をあげる。矢は引き抜かれ、血がしたたる。地面に黒く広がる血液のシミ。

「すぐ止血するからね」

彼女は着ていた衣の裾を細く裂くと、それを折りたたんで彼の背の傷に押しあて、即席の包帯でぐるぐるに巻いて止血する。しかし矢の傷は深い。彼は遠のく意識をたぐり寄せることに必死になる。フィグは彼をおんぶすると、走り出す。速く、安全な場所へ、母親のもとヘ。煙のにおいが近づいてくる。何か得体の知れない、恐ろしい音がする。彼女は必死に足を動かす。やがて、森の奥、避難所の穴ぐらにたどり着く。彼女は疲れ果て、入口のところにへたりこむ。母親が出てきて、厳しい声でフィグを叱るが、ウォークライを見ると、彼女は青ざめる。

「中へ!速く!」

母親はウォークライを抱き、左手でフィグの手をつかむと、足早に彼らを中へ連れこむ。暗くじめじめした穴ぐらの地面にウォークライを寝かせると、彼女はフィグの頭を撫で、抱きしめる。

「ああもう、この子たちったら心配かけて…!」

フィグはごめんなさい、と泣きながら謝る。それから、気を失ったウォークライのそばににじり寄り、彼の額に手を当てる。

「ウォークライ、わたしをかばって…」

母親は驚く。

「まぁ、この子、あなたを守ったの?なんて勇敢な子!」

彼女は口に手を当ててそう言うと、手早く彼を手当てする。揉んだ薬草で傷を覆い、清潔な包帯で巻く。

「ひとまずはこれで大丈夫よ。さぁ、あなたもそんなに汗をかいて…こっちへおいで」

彼女はフィグの汗を布で拭ってやると、ウォークライのそばにフィグと並んで座る。フィグは黙っている。ツノビトをひとり、殺めたことは決して話さない。彼女はうずくまり、こころの中で言う。こんなの、現実じゃない。


しばらく気を失っていた彼は、ようやく目を覚ます。穴ぐらがもともと暗いのでわかりづらいが、どうやら夜になったらしい。横向きに眠っていた彼は、寝返りをうとうとし、背中の痛みで矢傷を受けたことを思い出す。彼は冷や汗をかきながら、どうにか起き上がると、まわりを見る。穴ぐらの入口で、フィグの母親や他の女性たちが、松明もつけずに番をしている。彼の視線を感じたのか、ふいに母親が振り向き、ウォークライを見る。彼女は安堵の表情を浮かべると、素早く、しかし静かに走り寄り、彼の額に手を当てる。

「熱はだいぶ下がったみたいね」

彼女は彼の背に手をまわして、ぼんやりしている彼を支えると、事の次第を説明する。

「矢傷を受けて倒れたあなたを、フィグがおぶって連れてきたのよ。もう、びっくりしたわ!あなたの傷、すぐに手当をしたけど、まだふさがってはいないみたい。だから、あまり激しく動いたりしないこと。いいわね?ああ、フィグならあっちで他の子どもたちと一緒に寝ているわ」

彼は虚ろな目で、眠っているフィグを見やる。

「それからね、戦況だけれど、私たち、勝っているみたい。怪我をして運ばれてきた男の人たちがね、意外にも笑顔を浮かべるのよ。大丈夫だって」

彼女はウォークライをそっと寝かせる。

「安心してお眠り」

彼は再び、温かな闇に包まれて眠りの中へ落ちてゆく。


甲高い悲鳴で彼は目を覚ます。目を開けると、そこには松明と剣を持ったツノビトの男たちと、倒れているケモノビトの女性たち。何が起きているのか、一瞬、彼には理解できない。しかし、ケモノビトの女性たちがむごたらしく殺されているのを見て、彼はすぐに状況を理解する。ツノビトのやつ、戦に負けて、おれたちだけでも殺そうとしてるんだ!彼は背中の激しい痛みに耐えながら立ち上がると、ナイフを手に戦っているフィグのもとへ向かおうとする。しかし、それを腕から血を流した母親に止められる。

「お、おやめ!あなた、その怪我じゃ、足手まといになるだけよ!」

「で、でも…!」

「あの子を信じて!生ぬるい鍛え方なんて、した覚え無いんだから!」

彼は彼女に連れられて、松明の火が燃え移った穴ぐらから脱出する。彼女はツノビトを打ち倒したフィグを大声で呼ぶ。

「フィグ!おいで!」

「お母さん、大丈夫!?」

フィグが駆け寄ってくる。ウォークライは立っているのがやっとだった。よろめく彼を、母親が懸命に支える。

「逃げるわよ」

彼女はささやくと、ウォークライを抱き上げ、フィグを連れて走り出す。後ろから、ツノビトの男たちの怒号が聞こえる。

「速く!」

フィグと母親は風のように駆ける。母親の腕の中のウォークライは痛みに震えながら、必死に意識を保とうとする。すると突然、母親が倒れこみ、ウォークライは宙に放り出される。…どさり。彼は地面に打ちつけられ、気を失いそうになる。

「…お母さん?」

フィグの、震える声。彼女の目の前には、太い棍棒を持ったツノビトが立っている。…奇襲。彼は理解するが、フィグは立ちつくしたまま、頭から血を流す母親を凝視している。

「フィグ!逃げろ!」

彼女は動かない。動けない。ウォークライはうめき声をあげながら立ち上がると、ツノビトの腕に噛みつく。

「こいつ、何しやがる!」

ツノビトの男は彼を振りはらい、棍棒で彼を殴りつける。棍棒は彼の左腕に当たる。小枝を踏み折るような音。ウォークライは激痛に悶え、叫び声を上げる。すると次の瞬間、怒りに顔を歪ませたフィグが、男の右腕、棍棒を持っている手に渾身の力で噛みつく。男は思わず棍棒を放り出し、悲鳴を上げる。

「この…この野郎!」

男はフィグを捕まえると、両手で彼女の首を締める。

「死ね!死ねガキ!」

フィグの顔がどんどん赤くなっていく。ウォークライはなんとか立ち上がると、男に噛みつく。引っ掻く。離せとわめく。しかし男は鬼の形相でフィグの首を絞め続ける。

そして。

ゴキッ。

首の骨が折れる音。

ウォークライの胸の中で、熱く、赤く、黒い何かが弾ける。それは濁流となって彼のこころを飲みこむ。彼はおよそ人間とは思えない、恐ろしい叫び声をあげると、みるみるうちにその身を巨狼に変える。男は情けない悲鳴を上げ、逃げ出そうとする。しかしウォークライは、彼の胴を噛みちぎる。

気がつくと、そこには三つの死体と、血の海がある。彼はその赤い海の中に、力無く座りこんでいる。彼は立ち上がると、フィグのそばへ行く。背中と左腕の痛みは、なぜか感じない。彼はフィグをゆさゆさと揺らす。何度も呼びかける。しかし彼女は目を見開いたまま、ぴくりとも動かない。フィグ、フィグ、終わったよ、フィグ…彼は呼びかけ続ける。その声はわびしく虚空に響き、闇に飲みこまれる。彼はじわじわと迫りくる現実に抗う。認めない、そんなの、認めない。


しかし、彼は、理解する。


フィグは、死んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る