追憶

二百年以上も前。

とある深い森に、ケモノビトの狼の一族が住んでいた。彼らはウサギやシカを捕まえたり、果物を採取したりして生活していた。

何年も続く、穏やかな日々。戦も無く、飢饉も無い。彼らは神に感謝し、喜びを歌いながら過ごしていた。


「ウォークライ、何してるの?」

ウォークライと呼ばれた小さな少年は、木の枝の上から下を見下ろす。そこには、ひとつ年下の女の子・フィグがいる。

「別に何も」

彼はそっけなく答えると、逆に質問する。

「お前はこんなところで何してるんだ?」

「別に〜」

ウォークライはふん、と鼻を鳴らして、身軽にひょいひょいと木から下りる。

「こんなところにひとりでいたら、お前、親に怒られるんじゃないのか?」

その問いに、フィグはくるくると回りながら、何でもないことのようにさらりと答える。

「大丈夫よ。森は優しいし、風の機嫌も悪くないし」

「でもここは村から遠いぞ。夜になったら真っ暗だぞ」

「でも、あなただってここにいるじゃない」

すると、ウォークライは顔を曇らせ、うつむいて言う。

「おれには…心配する親も、怒る親もいないからな」

小さな沈黙。フィグは困ったように、ぱちぱちとまばたきする。

「もう帰るか」

「…そうね」

彼らはそっと沈黙を破ると、ふたりで帰路につく。時々、まだ熟れていない木の実を見つけたり、枝で土にらくがきをしたりしながら。踏みしめる土は柔らかく、頭上の木々の葉はつやつやとしていて、頬を撫でる風は涼しい。彼は、いつまでも、こんな日々が続くものと思っていた。


それから、二年がたつ。

彼らは森の異変に気づく。日照りが続き、水は枯れ、草木はしおれる。ウサギやシカは姿を消し、彼らの子どもたちはお腹をすかせて泣き出す。どんなに探しまわっても、食べ物になりそうなものは見つからない。木の実も無い。彼らは困り果てる。

「ねぇ、わたしたち、どうなっちゃうのかしら?」

痩せて、あばら骨が浮き出たフィグが、二年前と同じように木の枝の上にいるウォークライにたずねる。彼はそっぽを向きながら、そっけなくこたえる。

「死ぬ」

「もう、またそんなこと言って!」

「だってそうだろ?食べるものが全然無いんだから」

フィグは、今にも泣き出しそうな顔でうつむく。ウォークライは少し、後悔する。

「こんな天気、いつまでも続くわけない。いつか必ず雨が降るよ」

彼はフィグを元気づけようとして、慌てて言う。しかし彼女は、静かに涙を流す。

「お母さんが、いつもわたしに謝るの。ご飯食べさせてあげられなくて、ごめんねって」

彼女はしゃくりあげる。

「お母さん、何にも悪くないのに。悪いのはこの天気なのに」

「…」

彼はよい言葉を見つけられない。彼は眉を八の字にして、黙りこくる。そこには、彼女の嗚咽だけが響く。

彼は枝の上へと、フィグを誘う。彼女は潤んだ目で彼を見上げると、ひとつうなずく。彼女は器用に、木を登る。

ふたりは枝の上で、おしくらまんじゅうをしつつ、気晴らしのおしゃべりをする。

「落ち着いたか?」

「…うん」

「大丈夫、なんとかなるよ。神さまに祈れば、雨を降らせてくれる」

「でも、もうたくさん祈ったわ」

「えっと…神さまもきっと忙しいんだよ」

「ふふ、そうかもね」

「おれの家に、少しだけ干し肉がある。食べるか?」

「ううん。わたしの家にも、ほんの少しだけあるし、何よりそれは、あなたの大事な食事でしょ?」

「…そっか」

ふたりは木の枝の上でくっつきながら、フィグは木の葉を、ウォークライは空を見る。まぶしい青空。ぎらぎらと照りつける、憎たらしい日差し。彼は目を細める。フィグが体をよじらせて言う。

「そろそろ帰らなくちゃ。神さまは忙しいけど、きっと雨を降らせてくれるって、そう話してお母さんを元気づけるのよ」

「うん、それがいい」

フィグは枝から降りようとする。

「きゃっ!」

彼女は足をすべらせる。揺れる視界。体ががくんと傾き、彼女は頭から落下しそうになる。

「フィグ!」

彼は慌てて手を伸ばし、彼女の手をつかむ。そして彼は驚くべき力で、そのまま彼女を片手で持ち上げる。彼女はなんとか、別の枝をつかむ。しかしその反動で、ウォークライの乗る枝はミシミシと音を立てて折れる。

「えっ?」

彼は枝とともに落ちる。頭と腕に、鈍器で殴られたような痛みを感じる。かすむ視界。暗闇。彼は最後に、フィグの悲鳴を聞く。


「だめ、だめ、だめ…!」

彼女は頭からどくどくと血を流すウォークライを見る。彼女は泣きじゃくりながら、慌てて父親を呼ぶ。父親は、走って息をきらした我が子を抱きながら、風のように駆けて、小さな少年のもとへ行く。しかし、容態は想像以上に悪かった。

「助けて…お願い、何とか」

彼女はぼろぼろと涙を流す。父親は持っていた布で彼の頭の止血を試みる。しかし、布はあっという間に血で染まり、ぐしゃぐしゃになる。父親はなるべく頭を揺らさぬようにして、ウォークライを抱き上げる。寂しい雨のようにしたたる血液。彼は顔を歪める。彼は片手でウォークライを抱き、もう片手でフィグの手をつかむと、足早に歩き出す。

「早く、早く村長に診てもらおう」

彼らは村へと向かう。


「これはもう、助からん」

村長は少年を見て、きっぱりと言う。

「そんな!」

父親は絶望の声をあげる。

「何とかならないのですか?こんなに小さいのに…!」

「見なさい、この傷を」

村長は、頭の肉がえぐれたウォークライを指差す。小さな少年の右腕は、明らかにおかしいところで曲がっている。

「こうなっては、もう…」

父親は目を見開いたまま、石像のようにかたまってしまう。フィグは視界から色が消えていくのを見る。わたしのせいだわ…彼女は両の頬に手を当てたまま、膝から崩折れる。父親が慌てて彼女を支える。

「フィグ…!」

彼女はわんわんと泣き始める。ごめんなさい、ごめんなさい!父親は泣き崩れる我が子の肩を抱き、背中をさする。

「違う、違うんだよフィグ!不幸が重なってしまったんだ…」

村長は、我が子を必死で慰める父親を手招く。父親はゆらゆらと立ち上がると、おぼつかない足どりで村長の方へと歩き出す。フィグもついて行こうとするが、村長に止められる。

「子どもが聞いてよい話ではない」

彼女は目に涙をためながら首をひねる。いったい何?


「神降ろしの儀をすることが決まった」

村長は重い口調で話し出す。父親は突然の話に呆然する。しかしその次には、彼は鋭い目で村長を見る。

「なんてことを…」

「皆で決めたことだ」

村長は厳格な面持ちでぴしゃりと言う。

「もう何日も雨が降らぬ。もう何日も食料が見つからぬ。餓死者も出ている。わしには、この村を守る義務がある」

「しかし!」

「生贄の子は今、決まった」

父親は悟る。彼はすさまじい形相で村長を睨みつける。見開かれた、血走った目。鬼の顔。

「まさか…」

「あの少年、ウォークライはもう助からぬ」

「だから殺すと?」

「ではお前が娘を差し出すかね?他の家族を引き裂くかね?」

父親はぎりぎりと歯を食いしばる。頭ではわかっている。この村で身寄りのない子どもはウォークライだけ。我が子を差し出すことなど、どんな拷問を受けたとしても、絶対にできない。だからといって他の家族にこの役目を押しつけることも…彼はこぶしを握りしめる。我が子を失って泣く親など、見たくはない。彼は考える。濁流のようにぐるぐると選択肢が頭の中をまわり、そして消えていく。最後に残されたのは、ひとつだけ。

「わかり…ました…」

彼は受け入れる。


頭に幾重にも布を巻きつけられた、小さなウォークライが、祭壇に寝かされる。血は止まっているが、彼は目を覚まさない。フィグは木の陰からこっそりと、大人たちの怪しげな集会を見る。近づいてはいけないよ。父親はそう言っていたが、彼女は我慢ならなかった。大人たちは何か、よくないことをする気だ。彼女はただならぬ雰囲気をまとった父親を見て、そう悟る。ウォークライをどうする気?彼女は見つめる。

「時間だ」

その日は月のない夜。大人たちは篝火を灯して、祭壇の前に集まる。村長が歩いて、一段高いところ、祭壇に立つ。

「今こそ、神にすがるとき!」

フィグは気づく。村長はひとふりの、鋭いナイフを持っている。それは星明かりと篝火に照らされて、昼の日差しのようにぎらつく。彼女は飛び出していきたい気持ちをどうにかおさえ、続きを見る。村長は何かをぶつぶつとつぶやき、次にはナイフを振り上げる。何をする気か、すぐにわかった。しかし動けない、彼女は動けない。ナイフは振り下ろされ、ずぶりとウォークライの胸に突き立てられる。そのままそれは、彼の肉と皮を裂く。とび散る血液。村長はウォークライの胸の中から、小さな心臓をえぐり取る。

「器は空いた。神よ、今こそ顕現したもうれ!」

フィグは口の中がからからになっていくのを感じる。まばたきができない。目が痛い。悲鳴すらあげられない。彼女の中には何も浮かばない。怒りも、悲しみも。そこに在るのは色彩の無い恐怖だけ。彼女はただ震える。村長はまたぶつぶつと、何かを唱える。そして、次の瞬間。ウォークライの死体がまばゆい光に包まれる。光に照らされた彼の傷は、みるみるうちにふさがってゆく。フィグはただ、見ている。大人たちも。ウォークライだったものはぱちりと目を開き、起き上がる。

「なんと、■■様!」

村長が叫ぶ。大人たちがいっせいに地べたにひざまずく。

「いのちの神よ…誉れ高きいのちの神よ!どうかこの村を、この森を、我ら生けるものを、その御力で救いたまえ!」

すると、ウォークライの口が動き、彼だったものは話し出す。明らかにヒトではない声。

「生けるものどもよ。ケモノビト、強く愛しきヒトの子よ」

神の言葉。■■と呼ばれたそれは、祭壇の上から降りると、手を高く、天へとかかげる。

「平穏あれ」

風がざあ、と吹く。そしてぽつり、ぽつりと天から冷たいしずくが垂れてくる。誰かの涙のように。

「雨だ!」

大人たちが叫ぶ。彼らは次々に立ち上がり、天を仰ぐ。いつの間にか夜は過ぎ、東の地平線が明るくなってくる。大人たちは喜びに震える。歓喜の声をあげ、神を讃える歌を高らかに歌い出す。村長は雨に濡れながら、ウォークライの前にひざまずいて、うやうやしく語りかける。

「おお、感謝いたします。我々は貴女様のために神殿を造りましょう。そしてどうか、この村を…」

「必要無い」

それは低い声で言う。

「よくもおれを、殺してくれたな」

その言葉を聞いて、村長は背後から冷水をかけられたようにびくりとし、かたまる。冷や汗が背中を、顔をつたう。彼は恐る恐る顔を上げる。そこには無表情で彼を見下ろす、小さな少年。

「そんな…そんなことが…」

それは、今しがた死んだ、否、殺したはずの、ウォークライ。村長は顔からさあ、と血の気が引くのを感じる。冷や汗が止まらない。彼は頭を垂れて、必死に述べる。

「ゆ、許してくれ。村を救うには、もうこれしか、このやり方しか…」

「…」

彼はその言葉を聞いているのか、聞いていないのか、村長の後ろ、木の陰をじっと見ている。フィグ。彼女ははっとして、木の陰にうずくまる。怖い、怖い、怖い…ウォークライが歩いて近づいてくる。彼女の目から涙がこぼれる。黒い影が彼女の視界に入る。ウォークライが目の前にいる。しかし彼女は顔を上げられない。彼は彼女を見て、静かに声をかける。

「フィグ、ばいばい」

いつも交わしていた、聞き慣れた挨拶。彼女は雷に撃たれたようにはっとして、顔を上げる。上げなければならない。小さなウォークライが、こちらを見ている。言わなくちゃ、挨拶を。いつも交わしていた挨拶を。彼女は涙でぐしゃぐしゃの顔をなんとか笑顔にすると、言葉を返す。

「ばいばい…」

一陣の風が吹く。目を開けると、ウォークライはいない。もう、会えないんだね…フィグは声をあげて泣く。

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