神隠し
彼は帰路につく。家を目指して、まっすぐに。しかし、奇妙だ。あの花の濃いにおいがする。摘んだのは三本だけ。ここまで甘ったるいにおいはしないはず。彼はあたりを見回す。異常はない。彼は、においのもとであるだろう、三本の花を見る。そして彼は、ぎょっとして声をあげる。その花の茎の切り口から、紅い血のような、ねっとりとした汁がしたたっている。彼はとっさに花を手放してしまう。白い服に紅い汁がつく。それはシミとなり、ゆっくりと広がっていく。まるで、紙や木材にまとわりつき、燃え上がる火のように。彼は混乱する。こんなことは今まで一度もなかった。彼にはその花の紅い汁が、とても不気味なものに見えた。悪寒がする。一刻も早く家に帰ろうと、彼は焦る。翼をバタバタと動かし、山を越え、森の上を通過する。しかし、その先にあったのは見慣れた土地ではなかった。
「ここ、どこ…?」
アルバートは小さな声でつぶやく。
目の前に広がるのは、石ばかりが散らばる荒野。彼はさっと後ろを振り向く。そこに、今まで通ってきた山や森は無い。彼の頬を、冷や汗がつたう。どうして…どうして?彼は翼を広げ、空高く舞い上がる。上空から景色を確認するが、その目に映るのは、荒れ果てた灰色の土地だけ。異常はそれだけではなかった。空の色がおかしい。紅い。まるで、あの花からしたたる紅い汁で、染めあげられてしまったみたいに。彼は目を見開く。顔からさっ、と血の気が引いていく。どうなっているの?さっきまであんなに青かったのに。
彼はするりと大地に降り立つと、あたりを見回しつつ、家があるはずの方向、西へと歩き出す。ひとの見当たらないがらんとした景色に、砂利を踏む音だけが響く。
やがて彼は己の家ではなく、ひとつの廃墟にたどり着く。それは石造りの無骨な建物で、天井は一部が崩落している。そこから紅い光が差しこみ、ひび割れた床を照らす。アルバートはつばを飲みこむと、恐る恐る、その中に入る。カツン、と彼の靴の音。
その建物の中は、不気味というより荘厳だった。紅い光が所々から差しこみ、暗い建物の中は不思議な雰囲気を醸し出している。しだいにアルバートの心は、恐怖よりも好奇心が勝るようになる。彼は少しずつ、奥へ奥へと進んでいく。
そして、彼は廃墟の最奥にたどり着く。そこには、大きな石造りの硬い玉座。その玉座は空っぽではなかった。そこにはひとりの男が座っている。しかしその男は、目を閉じてぐったりとしている。眠っているようだ。
「あなたは…だれ?」
アルバートは静かに問い、男の手にそっと触れる。冷たい。彼は男を見上げる。男は確かに、呼吸をしている。死んでいるわけではない。アルバートは、何がどうなっているのかを問うべく、男を起こそうと試みる。
「あ、あの…!」
声をかけてみるが、男は目を覚まさない。アルバートは男の大きな手をぺちぺちと叩く。
「すみません…!」
すると、男がうっすらと目を開ける。アルバートはより大きな声で、男に話しかける。
「すみません!」
「…」
男は無言のまま、気だるそうにアルバートを見つめる。アルバートはその目を見て、はっとする。男の目は左右で色が違い、それらは不思議な色をしていた。ブラック・ホールのような漆黒と、燃え盛る炎のような深紅。ほんの少しの間、アルバートは、その目の美しさに見とれてしまう。
「あなたは、だれ?」
もう一度、静かに問う。…沈黙。しかしアルバートは諦めずに、男の目を見つめ続ける。やがて男はのそりと姿勢を正すと、アルバートに低く問いかける。
「のぞ、み」
「…え?」
アルバートは、男が声を発したのに驚き、きょとんとしてしまう。男は繰り返す。
「…のぞ、み」
「あ、その…えと…」
アルバートは手で己の両頬をぱん、と叩くと、男を真っ直ぐに見て言う。
「ぼ、僕、お家に帰りたいんです。ここはどこですか?」
「…」
男は顎に手を当て、アルバートを見つめ返す。その右頬には、不思議なペイントが施されている。
「…まい、ご」
「へ?」
「おまえ…かえ、る」
「そ、そうです…」
「なら…でろ」
アルバートは男の言葉を理解できず、眉を八の字にし、目を丸くする。男はささやく。
「…でろ」
「は、はい!」
アルバートはくるりと男に背を向ける。そしてぎくしゃくした動きで、男の言う通りに石造りの廃墟を真っ直ぐに歩いて出ていく。隙間からこぼれる紅い光の束が、彼の黒い髪を照らす。紅い、そう、紅い。
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