七 ある人物の帰還
ここからは冒頭に戻る。
「止めんか変態!」
私は目の前の変態、いえ、宮様の手から自分の足を抜き、かかと落としの構えを取った。
「サラ子~!戻ったぞ~!わわっ、何だいこの馬車と警護の人たち?」
うっかり宮様に更なる暴行を加えかけた私の耳に聞き覚えのある呑気な声が入ってきた。この声は、私たち家族が帰還を待ちわびていた人物だ。
「父様!生きていらっしゃったのね」
私は、振り上げた足を流し、宮様の横を通り過ぎ、警護の人たちをささっと避けながら父の元に駆け寄った。
「サラ子、心配掛けてごめんよ~」
父は私を優しく抱き留める。
「いきなりお戻りになられて驚きました!」
「あれ?もしかして、手紙が届いていない?」
「手紙?何のことでしょう?」
父からもう半年以上、手紙は来ていない。玄関で私の様子を見ている母にちらりと目をやってみたが、顔を横に振っていた。
「シャムールの大使館から手紙を送ったんだけどね~。郵便事故かな。まずは心配を掛けてごめんね。これまでのことを説明したいんだけど…」
改めて、父は周囲を見回した。我が家を取り囲む異常な風景、それは宮様と警護の皆様。
「ねぇ、サラ子、もしかしてあの人、いや、あのお方は…」
今更ながら父が口を押えてアワアワし始めた。
「父様もご存じの有原宮礼義様です」
私の紹介を受けて、宮様はすくっと立ち上がる。
「お初にお目にかかります、加賀見利達卿」
「いや~、今は平民だよ。ただのしがない大学教授さ。ところでなぜ宮様が我が家に?」
さて、どう説明したらよいものか…。なぜ求婚に至ったのかすら、私も良く分からないし。この事実を告げたら父が大激怒しそう。
「サラ嬢とご両親とじっくりお話したいので、このまま我が邸に」
宮様は、まばゆいばかりの笑顔を浮かべている。この笑顔と今までの輝かしい経歴で忘れそうになるけれど、この人は私の足を狙う変態さんだ。このままお邸に連れていかれたらどんな目に遭うかわかったものではない。
狭すぎる我が家に宮様をお通しするのも違う気がする。
「ん~、お招きはありがたいけど、まずは愛する家族との再会の喜びを味合わせてもらってもいいかな?一時間、いや、半日、一日くらいかかるかもしれないけど」
父は、堂々と母の待つ家に入っていった。家族第一主義の父様は宮様相手でも自分の意志を曲げない。
「仕方ないな、また出直してくるよ」
こうして宮様御一行様はお帰りあそばされました。
「トシ、あなたが無事で良かっタ」
「君にもう会えないかと思った」
両親は大粒の涙を流しながら抱擁を交わしている、かれこれ一時間くらい。
「そろそろ、父様に何があったかを教えていただけますか?」
「僕も聞きたいな」
「み、宮様??」
お帰りになられたのでは?なぜ、我が家に宮様が???私は言葉にならずに、口をパクパクさせる。
「近くを回って時間を潰してから、君の家の様子を見ていたんだけどね」
「宮様の姿が見えたから、入れちゃった~」「入れちゃった~」
「こらっ、ペーター、ハンス!知らない人を入れちゃダメでしょう」
私は、母に代わって弟たちを叱る。母は父に骨抜きになって何も目に入っていないから、私がしつけをしなければ。
「知らない人じゃありませ~ん、宮様です~」
「誰が屁理屈を言えと言ったの!」
確かに老若男女問わず誰もが知っている人物だけど、我が家と縁もゆかりもない人なんだから。
「僕のことはいいから、まずは加賀見教授の話を伺いたいな」
これが生の宮様か…。笑顔の破壊力がすごい。女性たちが虜になるのも納得だ。
「宮様がそうおっしゃるのなら…」
父はこれまでに起きたことを話し始めた、なぜか母を抱き寄せた状態で。
人のことを言えた義理ではないけれど、父様、母様、不敬が過ぎませんか?
さて、何から話そうか。知ってのとおり、僕はシャムールの王立博物館に行って新種の鑑定に行ったんだけど、採取した標本の状態があまりにも悪くてね。やはり、ここは実際に生えていた場所に行く必要があると判断した。そこは山のちょっと奥まったところにあるというから、準備を整えて出発した。
博物館の研究者と一緒に列車に乗って、それから馬車に乗り換えて、徒歩で現地に行ったんだ。現地の案内人に連れられて、目当ての植物も見つかって順調な旅だった。
しかし、そろそろ下山しようかというときに、雨が降ってね。雨宿りできる場所を探しているうちに、雨が一気に強くなって周囲が見えなくなってしまった。雨音もあまりに大きくてお互いの声も聞こえないくらいだった。
ここは下手に動いて遭難してはいけないと思ってね。外套をかぶってしばらく雨をしのいでいたんだ。
にわか雨だったようで二、三十分経ったくらいで雨は止んだんだけど、研究者も現地の案内人も誰もいなかったんだ。
これは困ったぞと思って、コンパス片手に下山を試みたんだけど、運悪く虎の集落に踏み入れてしまったんだ。
何とか気配を消して立ち去ろうとしたけれど、一頭がやたら好戦的でね。そいつにつられて、他の虎も臨戦態勢になってしまった。
僕の周囲に何頭くらいいたかなぁ。少なくとも五、六頭はいたと思う。
これは戦うしかないと腹をくくって、小型拳銃片手に戦うことにした。まずは、外套を左腕にぐるぐる巻きにして、腕を差し出すような形であえて虎にかみつかれるように仕向けて、眉間に拳銃を打ち込んだ。
当たった場所が良かったのか、虎は即死したよ。牙が強すぎて、外套越しでも腕に食い込んでしまった。かみつかれた瞬間、骨が折れたかと思ったよ。
虎が死んだ様子を目にして、他の虎もひるんだみたいでね。その隙に一気に走って逃げたんだけど、二頭くらい追いかけてくる虎がいて、脇腹を爪で引っ掛かれて痛かった。左腕もだんだん血がにじんでくるし。必死に走りながら威嚇射撃をして何とかやり過ごしたよ。
いや~、怖かった!
どのくらい走って逃げたのか全然分からない。本当、肺が破れるかと思った。
下山した先に、小さな村にたどり着いたんだけど、安心したのか、疲労が溜まったのかそのまま倒れちゃった。
目覚めたときには村長さんっぽい人の客間で寝かされていて、よく分からない草を左腕と脇腹に巻かれていたけど、多分、怪我の手当てをしてくれたつもりらしい。
荷物はそのまま置いてくれていたし、食事も定期的に運んでくれた。時々、祈祷師らしき人が来たのは余計だったけど。偶然とはいえ、外国人を売り飛ばすような悪い村じゃなくてよかった。
首都からかなり離れた村で使っている言語が違っていて言葉は通じなくてなかなか不便をしたよ。
怪我がある程度治ってから自力でシャムール王国の首都に行こうと考えたけど、雨季に入っちゃって近くの川が氾濫しちゃって行きようもなくなって、雨季が終わるころにやっと首都に着いて今に至るというわけさ。ちなみに、僕の腕や腹に巻かれていた草は、その村では古くから怪我の治療に使われているみたいでね。王立博物館で鑑定したら、殺菌と止血作用のあるものだったと分かったよ。植物については、詳しく説明しなくてもいいね、うん。僕しか興味ないだろうし。
「トシ!虎を退治するなんてやっぱり強いのデスネ!」
「叔父上のようにはいかなかったね~。やっぱり僕は戦いに向いていないんだな。せめて槍でも日本刀でも一本あれば少しは違ったんだけどね」
とろけるような表情を浮かべる母を眺めつつ、父は困ったような表情をしながら頬を軽く掻いていた。
父の言う叔父上とは、私の祖父の弟で加賀見利鷹殿のことだ。大変多趣味な方だそうな。武芸にも優れていて、虎のはく製を所望したものの、出入りの商人が持ち込んだはく製では満足できなかったらしい。
そこで、数人の供を連れてシャムール王国に入り、三頭の虎の生け捕りに成功したとのことだ。供の援助もあったものの、基本的には一人で虎を締め上げて気を失わせて捕縛したらしい。それから、現地ではく製にして満足して山都ノ國に戻ったという豪快な人だ。伝統を重んじる加賀見家の中ではなかなか異質な人だ。
「父様、虎の群れに囲まれて生きて帰ってきただけでもすごいことだと思います!それに一頭仕留めていますし、本当は強かったのですね!」
すぐ下の弟のレオが父にキラキラとした目を向けた。最近、反抗期に入ったのか取り扱いが面倒な感じだったんだけど、やっぱり男の子なのか、強さに憧れるのね。
「父様、つよーい!」
「つよーい!」
ペーターもハンスも父様の武勇伝に大はしゃぎ。
父について、新聞記者や雑誌記者が好き勝手に騒ぎ立てていましたが、虎に襲われたという説はあながち間違いではなかったかもしれないと今更ながら思う。シャムールでできた愛人と逃避行という記事を書いた記者は地獄に落ちろと言いたい。
「僕のいきさつはこんな感じなんだけど、宮様はどのようなご用向きで我が家に?」
あの…、父様。笑顔が張り付いて大変不自然なのですが…。
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