別水彦のまわりをぶらぶらと歩きながら雛若は語る。

「いいかい別兄。ここ平邑たいらむらは、山の頂上にある盆地だ。だけど盆地のほとんどが湖になってる。そのせいで人の住むところはほとんどない。畑だって少ない。真ん中にドでかい湖があって、人の住む家も畑も田んぼも、その周りに遠慮気味に点在しているだけだ。放っておけば雨が降れば湖があふれる。そうなれば家も畑も沈む。だから一年に一度、決まった量の水を下に流してる」

「それは儂もわかっておる。だが、水を流されたら、平邑ここより下にある我ら泉邑いずみむらが流されてしまうではないか」

「だァかァら」

 別水彦のまわりを一周した雛若は、人差し指を別水彦の団子鼻だんごっぱなの前に突きつけた。語気を強めて、しかし教えさとすようにゆっくりと言う。

平邑こっち泉邑そっちで話し合って決めた量の水を、毎年一回だけ流してるんじゃないか。平邑としちゃ、湖の水なんていっぺんに全部流してしちまったっていいのにさ」

「ふうむ、なるほどなあ」

「解ったらさっさと帰りな」

 別水彦は深くうなずいた。

「よく解った。では」

 別水彦は一礼して、境内の外に向かって三歩ほど進む。そのまま変えるかと思いきや、急に戻ってきてちょっと待てと怒鳴った。

「危うくだまされるところであったわ。そうはいかぬぞ。今おぬしが話したことくらいは儂も承知しておる。それを知った上で儂は交渉しに来たのだ」

「交渉ごと、向いてないんじゃない?」

「黙れ。今年は雨が多かったことをおぬしも知っておろう」

「もちろんだ。だから今年はなんとしても流したいんだ。湖の水が、今にもあふれそうだからね」

「それがいかんのだ。今年の大雨で泉邑にも被害が出た。今も川は水でいっぱいだ。その上にここからさらに水が放流されたのでは泉邑は水浸みずびたしになってしまうわ。だから放流はやめてもらいと言う話をしに来たのだ」

「別兄まさか――」

 雛若は別水彦を見た。

「なんだ」

 別水彦も太い眉を寄せる。

 雛若は唾を飲み、そして訊いた。


「それ、誰かに言われただけで、別兄は何も理解してないなんじゃないのか」


「黙れ黙れ黙れ」

 別水彦は甲高くわめき、ちゃんと自分で考えたわと言った。

「とにかく質問に答えてもらおう。放流をやめるか、やめないか。答えはいずれか一つだ」

 しかし雛若は答えなかった。答えないかわりに独言ひとりごとらした。

「昔は仲良く遊んでいたのになあ」

 漏らしながら、別水彦から遠ざかる。

「それが今は敵対する邑同士の長か。残念だな」

 言い終わったときには、社殿のきざはしの下までいたっていた。

「情に訴えても無駄だ。早く答えぬか」

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