第5話

 高島屋からの許可はすんなり降りた。

 ホテルの誘致も予定しており、今後の広報に力を入れたいと思っていたのかもしれない。

 いずれにせよ、私と小山は“大阪の新たな観光・名所スポットとしてイベントなどに活用したい。検討したいので視察させてほしい”という名目で見学することになった。

 「それにしても、なかなか面白いとこに目を付けましたね」

 小山の旧友で高島屋広報課の次長・佐々木が地下へと下る階段を先頭で降りつつ、話しかけてきた。

 佐々木は小山の大学時代の後輩なのだとか。眼鏡を着用し、スマートな印象を受ける。

 「なに、そもそもは部下が言い出したことでね」

 小山がもっとらしく返答。

 「鉄道マニアがいるんだが、駅になれなかった遺構があると報告書をまとめてきたんだ」

 「そうですか」

 「今は鉄道マニア、鉄オタというのかな、かなり多いと聞いている。我が社としても、取り込みたい客層になり得るからね」

 「なるほど、その部下の方、本当に鉄オタですね」

 佐々木が肩越しにこちらを見る。

 「なぜそう思うんだ?」

 小山が聞いた。佐々木が前を向く。

 「報告書の言い回しですよ。“駅にならなかった”ではなく“駅になれなかった”。駅の無念さを共感しているというか、駅への愛情を感じます」

 佐々木の声が若干、嬉しそうに聞こえる。

この人も鉄オタなのかもしれない。

 「そんなもんかねぇ」

 一方の小山は、私の回想を聞いていたか“駅になれなかった”と表現したまでだろう。少し曖昧に答えてから「今、長期休暇中だから、復帰したら真意を聞いてみるよ」と付け加えた。


※※※※※


 地下空間は、まさに地下鉄の駅そのものだった。しかも、今どきの駅ではない。

 「これはすごいな」

 小山が純粋に驚く。私も画像では見ていたが、実際に目の当たりにして、少し興奮していた。

 アール・デコを基調とした意匠、ホームへと続く複数の連絡口はアーチ型になっており、ホームの天井も独特な曲線美を描いている。装飾も豪華で、使われていないからか、やや煤けているが、現役の駅であれば人気が出るかもしれない。

 「時代的には1950年代後半から60年代前半、正確には58年から62年にかけて建設されています。詳しい資料が残っていないのですが、どうやら堺筋に地下鉄を開通させる計画、後に大阪市営地下鉄第6号線、今の堺筋線になる計画ですが、この情報を事前に入手した松坂屋さんが直結の駅を作ろうと考え、建設を開始したようです」

 実際、ホームには線路が設置されており、今にも堺筋線が入線してくるのではと思わせる。ただ、気になったことがあった。

 電車が通過する音は響いてくるのだが、列車がホームにやってくることはなく、どうやら壁の向こうから聞こえているらしい。

 「電車はこないのか?」

 同じ疑問を抱いたのだろう、小山が佐々木に聞く。

 「はい。通常、堺筋線は壁を隔てた向こう側を走っています」

 「なぜだ? これだけしっかりした駅が、なぜ使われていない」

 「資料が残っていないので何とも。ただ、ここからは個人的な見解ですが、どうやら駅建設の途中で松坂屋さんの移転が決まったようで」

 「駅ができるよりも先に移転が?」

 「はい。多額の費用をかけて工事を続けていましたが、当時は商業の中心が堺筋から御堂筋に移っていました。まだ市電が走っていたとはいえ、地下鉄御堂筋線の駅からは距離があり、松坂屋さんの大阪店は集客面で苦戦を強いられていたようです」

 「収益がなければ移転を考えるのは妥当だが、起死回生の一手で踏み切った地下鉄駅建設に費やした資金を考慮しても移転が得策だと?」

 「はい。建設にかかった費用と続行した場合の費用、それに当時の大阪店の集客数や営業利益などを踏まえて私なりに試算してみたのですが、工事を続行し費用負担を増やすよりも、いったんストップして新たな店舗へ移転する方向性を模索してしかるべきだと思われます。それに、松坂屋さんの上層部がどういった情報を入手されていたか不明ですが、実際に堺筋線が開業したのは1969年です。想定よりも遅かったのかもしれません」

 さすが、小山の後輩。大手百貨店で役職に就いている人らしい冷静な分析。

 「なるほどな。もっと早く地下鉄の計画が進むかと駅の建設を始めたが、想定よりも開通が遅い。工事の費用はかさむ半面、集客増を狙えるタイミングは遠のいた」。

 「加えて、1960年には大阪市電を廃止しようといった議論も高まりました。市電がなくなる、地下鉄は開通しない、お客は御堂筋に行く。これでは集客を上向かせる術がありません」

 「私でも移転先を探すな」

 小山が苦笑する。

 「同業者として、苦渋の決断だったとは思いますが、移転優先にいたるプロセスは容易に想像がつきます」

 佐々木も無念そうな笑み浮かべ、話を続けた。

 「とにかく、地下鉄駅建設は中断。結果として、天下茶屋方面へのホームのみが残りました」

 「言われてみれば」

 小山があたりを見渡す。

 「ホームが1つしかないな」

 「本来は壁の向こうにホームを作って相対式ホームにするか、二層構造の駅にする予定だったと思われます」

 「……どういう意味だ?」

 小山が困り顔。

 「部長、相対式ホームは単式ホームが向かい合わせになってる駅です。簡単に言えば上下線のホームが対面で作られてます。京都で言いますと阪急の大宮駅とか京阪の七条駅です」

 「あぁ、なるほど」

 「2層構造は同じ路線なのに上下線のホームが別々の階にある駅で、京都ではパッと思いつきませんけど、神戸市営地下鉄の三宮駅や県庁前駅がそうだったと思います」

 「……詳しいな。君も鉄道好きか?」

 「いえ、岸原に教えてもらいました。門前の小僧ですよ」

 「その“岸原さん”って方が報告書を提出されたんですか?」

 佐々木が私に聞いてきた。

 「えぇ、私の同期で、鉄オタでして……それよりも佐々木さん。ひとつ質問があるんですけど、宜しいですか?」

 私は本題を切り出した。

 「えぇ、何なりと」

 「堺筋線からこの空間には入れるんですか?」

 「堺筋線から? どういうことでしょう」

 佐々木が小首を傾げる。

 「例えば恵美須町駅のホームとか、その周辺の線路内とかに、この地下空間に出入りできる場所があるのかな、と思いまして」

 あれば、岸原がここに入ってきた可能性は皆無ではない。

 「あー、できないことはないですが、ちょっと難しいですね」

 佐々木が苦笑する。

 「通常、ここの線路は使われていません。使用されるのは、壁の向こうにある堺筋線の線路内で異常が発生した場合のみです」

 「異常発生時、ですか?」

 「火災ですとか、事故ですとか。そういった緊急性の高い異常が発生した場合、ここは列車の退避場所および乗客の方々の避難経路として利用して頂けるようになっています」

 「それなら堺筋線とここを出入りできるんじゃないか」

 今度は小山が聞いた。

 「できなくはないですが、普段は出入り口を封鎖しています」

 「封鎖?」

 「はい。この線路ですが、天下茶屋方面へ向かう本線とつながっており、緊急的に避難が必要な車両を2両まで退避させることができます。ただ、その出入り口はコンクリート製の扉で閉め切っています。開けるのは異常発生時と訓練の時だけ。通常は電子錠がかけられていますから、関係者以外は開けられません」

 「人が避難するための出入り口はないのか?」

 「線路内に3か所、人が出入り可能な非常口は用意しています。施錠をしてありますが鍵は不要で、ドアノブに装着しているプラスチック製のカバーを割れば、誰にでもあけられます」

 「ドアノブにカバー? あぁ、よく避難口に着けられているアレか」

 「はい。そのカバーが少し特殊と言いますか、異常発生時には割って開けられますが、カバーを割ったと同時に警報音が鳴り響きます」

 「警報音?」

 「異常の発生をより多くの人たちに知らせるため、それと興味本位やイタズラで入ろうという人たちを抑止するため、警報音が鳴るタイプにしてあります。ちなみに、線路側だけではなく、こちら側にも同じようにカバーを装着しています」

 「最近、そのカバーが割られたといった形跡はないですか?」

 ないとは思ったが、念のため、私は聞いた。

 「ないですね」

 佐々木が事も無げに言う。

 「直近でカバーを割ったのは半年前の訓練で、線路側からもこちら側からも行ったと聞いています。それ以降、割られた形跡はありません」

 「点検は随時してはるんですか?」

 「命に係わる設備ですから、大阪メトロさんでは線路内点検の際には必ずしていると聞いています。こちら側も1日に1回は巡回している警備員が必ず行っています」

 「そうですか……」

 元々、望み薄だとわかっていたが、これで岸原が地下空間に入っていないと断定された。言い換えれば、私たちが岸原を見つける手だてがなくなった。

 「どうかされましたか?」

 落ち込んでいる私に気が付いたのか、佐々木が少し困惑している。

 「あ、いや、なんでも……いやしかし、素敵な場所ですね」

 私は慌てて取り繕った。

 「ここでしたら鉄道好きだけではなく建築物が好きな人たちにも楽しんでもらえそうです。イベント候補地になりそうですよ」

 「そう仰って頂けるとありがたいです。是非ご活用頂いて……あれ、電話だ」

 佐々木のスマートフォンが鳴っている。

 「申し訳ありません。ちょっと失礼します」

 佐々木が降りてきた階段付近まで移動した。

 「すみません。やはり、ここにもいないですね」

 私は小山に謝罪する。

 「なに、そもそもここにいるはずがない。当たり前のことだ」

 言葉とは裏腹に、小山が力なく笑みを浮かべ、線路へと視線を落とした。どこかで期待する気持ちもあったのだろう。

 「そうか。出入りしようと思ったらできなくはないが、その痕跡はなし、か」

 「そのようですね」

 私も線路を見ながら小山の言葉に同意した。

 「そぅでもないんですよ、部長」

 久々に聞く声。

 私と小山は慌てて顔を上げた。

 ホームの端から岸原が歩いてくる。なぜか駅員姿。

 「非常口は通れませんけど、別ルートがあるんですわ。なぁ、君は知っとるやろ?」

 岸原が笑って私を見る。

 「心配かけて悪いな。寝てたらこっち側に来てたわ」

 岸原が白い歯を見せて笑う。

 「岸原、まさか、ほんまに……」

 「あぁ、ホンマや。自分、なかなか面白い仮説を立ててたみたいやけど、真実は小説より奇なり。まぁ、そーゆーこっちゃ」

 岸原が私の肩を叩く。

 「そしたら、ほんまに寝過ごして……」

 「人間、不思議なもんでな。寝たらアカン思うたら、寝てまうもんや」

 岸原がハハハと笑う。

 「天下茶屋で乗ったら、たまたま席がひとつ空いてて、寝なければ大丈夫やと思うて座ったが最後。寝たらアカン寝たらアカン思うてるのに、いつの間にかウトウトォっとなって、気がついたらこっちに来てて、しかも、この格好や」

 岸原が敬礼。サマになっている。

 「まぁ、元々電車好きやし、ここで過ごすのも悪ないなぁと思うてる。だから、安心して……」

 「何を言ってるんだ。岸原」

 小山が憮然としている。

 「一緒に帰るぞ。みんな待ってるんだ」

 「あー、そうできれば宜しいんですけどねぇ」

 岸原が困ったような笑みを浮かべた。

 「一度、こちら側に来てしまうと、もぅ戻れないんですわ」

 「なに?」

 「今回も特例でふたりの前に出られただけで、もう現世には戻れません」

 岸原が少し悲しそうに笑う。

 「なに言うてますの!」

 私は思わず大きな声で叫んだ。

 「ファンタジーみたいなことは、もぉえぇから! 岸原、はよ帰ろ!」

 「おおきり、ありがとう。お前くらいや、会社で仲ようしてくれたんわ。感謝してる」

 岸原がうつむく。

 「けど、アカンねん。こっちに来てしもた。こないだ言うたやろ。都市伝説の話」

 堺筋線で寝過ごすと神隠しにあう。

 旧松坂屋大阪店の地下、幻の駅に連れていかれる。

 「あれな、ホンマのホンマやねん」

 「ホンマのホンマて……」

 「しかもな、続きがあんねん」

 「続き?」

 「続き言うか、アレや、なんで連れてかれるかって話。アレな、出回ってる話、ほぼほぼ合ってたわ」

 「合ってた?」

 「どういうことだ?」

 私に続いて小山も聞き返す。

 「幻の駅とか廃駅には使われなかった、使われなくなった無念さがある。その強い思いが鉄オタを引き込んでる」

 「まさか……」

 小山が絶句。

 「ただ、フツーやったら連れてかれへん。仕事とか私生活に疲れてたり、嫌気が少しでも差してると、こっちに来てしまう。僕の場合は、職場のストレスかなぁと思ってる」

 「仕事で何かあったのか?」

 小山が驚いた表情。

 「まぁ、ないわけではないですよ。仕事そのものは楽しんでましたけど、あれだけ関東勢に嫌われてたら、そりゃあいくらなんでも、疲れます」

 岸原が困った笑顔を見せる。

 「そんな……」

 小山がショックを隠せない。

 「京都の人間も、まぁ合わん奴は合わんかったし。アンケート調査も、まぁひどかったですしねぇ」

 「あれを見たのか?」

 小山が目を見開く。

 「本来は上層部以外に見られへんようなってるんでしょうけど、管理ちゃんとしたほうがえぇですよ」

 岸原がいつもの笑い顔に戻った。

 「たまったま、教育担当してた子のアンケート結果、見てもうたんですわ。まぁえげつないこと書いてて。そないに嫌やったんかと、そりゃあ落ち込みましたわ」

 言葉とは裏腹に、吹っ切れた笑み。

 「上層部の中にも僕を毛嫌いしてる人もいるみたいですし、仕事には遣り甲斐感じてるから続けるけど、将来的にはどうしようかなぁ、なんて考えもあったんです、実は」

 「それなら私に相談してくれれば……」

 小山が無念そうにつぶやく。

 「そや。なんで飲みに行ったときに話してくれへんかってん」

 私も悔しい。もっと腹を割って話せる仲だとばかり思っていた。

 「いやぁ、よぅしてくれてるふたりだからこそ、心配かけたくなかった。かんにんや」

 岸原が顔の前で手を合わせる。

 「かんにんついでに、仕事の引継ぎなんですけど、平山に任せておけば、あらかた何とかするはずです。ちょっと手を抜くクセはありますけど、まぁ業務の全体像はつかんでるはずですから」

 平山は二課の係長。私や岸原の同期。サボり癖はあるが、それなりに仕事はこなしている。昇進したところで万年課長として煙たがれるのは目に見えているが、年齢的に最前線で営業させ続けるわけにもいかない。岸原の後任としては物足りないが、ほかの中堅・若手では全体の指揮を執るほどの実力は、まだない。次世代までの繋ぎとしては適任だろう。

 「……よく心得てるな、本当に」

 小山が寂し気な笑みを浮かべる。

 「君ほどの人材を失いたくはない。もう一度聞くが、戻ってこれないのか?」

 「ありがとうございます、部長。お言葉は嬉しいです。けど、僕はもう、こちら側。わかりやすく言えば、この世とあの世の端境(はざかい)にいます」

 岸原が帽子を直す仕草。笑顔が消える。

 「端境?」

 私が尋ねる。岸原が答えた。

 「この駅は、あの世とこの世を結ぶ駅。亡くなった鉄道関係者や鉄道好きを送り届ける列車の出発地なんや」

 「それ、ほんまに……」

 最後の飲みの席で近しいことは言っていた。子供じみた都市伝説。

 「根も葉もないウワサ話かと思ってたけど、ホンマやったわ」

 岸原に笑顔が戻る。

 「しかし、なんでそんな場所があるんだ?」

 小山がもっともな疑問を口にした。

 「こっちの先輩に聞いたんですけどね」

 岸原が前置きをして、続けた。

 「鉄道は人やモノを運ぶだけやない、人の想いも運ぶ。そやから、色んな想いを込められて作られたけど利用されなかった、利用されなくなった駅を活用して、人生を終えた人たちを送る駅にしよう、人の思いや魂をあの世に運ぶ始発駅にしよう。そう考えて俺ら鉄オタとか鉄道関係者の先人たちが構築したらしいんですわ」

 「そしたら、上野の博物館動物園駅も?」

 私は最後の会話を思い出して聞いてみる。

 「博物館動物園駅だけやない。全国にぎょうさんある。例えば竜飛海底駅とか吉岡海底駅なんかは、最近できた“あの世への始発駅”やな」

 「青函トンネルの駅だな。今はないのか」

 小山が質問。

 「よぅ知ってますね」

 岸原が少し驚く。

 「トンネル開通時にニュースで話題になっていたから覚えていた」

 「そうですか」

 岸原が納得し、説明する。

 「もともと見学できるだけの特別な駅やったんですけど、両駅ともに北海道新幹線建設に合わせて駅としての機能はなくなりました。今はトンネル内で何かあった時のための避難施設になってます。まぁ、ここと少し似てますわ」

 「そこが、現世と死後の世界を結ぶ始発駅になっていると?」

 「その通り。部長、飲み込み早いですね」

 岸原がおどけて言う。

 「さすが、学生のころからコミケ常連、映画でも小説でも異世界転生モノがお好きなだけはあります」

 「な、なんでそれを!」

 小山が顔を少し赤くしながら驚く。

 「先輩に教えてもらいましたわ」

 岸原が答えた、その直後。

 「岸原さん、そろそろ時間です」

 背後から、電話対応で中座していた佐々木が呼び掛ける声。私と小山は振り返った。

 「……佐々木?」

 小山が訝しげに呼び掛ける。私も思わず口が半開きになってしまった。

 佐々木が駅員の姿。岸原と同じ制服。

 「えぇ、まぁ、そういうことなんです」

 佐々木が首筋を軽く掻きながらこちらに近づいてくる。

 「私も、こちら側の世界の住人です」

 「そんな……」

 小山が絶句。私も声が出ない。

 佐々木が岸原の横に立った。

 私はふたりを見比べる。同じ制服だが、よく見ると帽子のラインの色が違う。岸原はブルー、佐々木はレッド。左の胸元にあるネームプレートも岸原はシルバー、佐々木はゴールドだ。

 「そりゃあ、驚くわなぁ」

 岸原が歯を見せて笑っている。

 「ど、どうゆうことなん?」

 私は声を絞り出した。

 「どうもこうもあらへん。佐々木さんは僕の先輩。ここの駅長や」

 「私もいろいろありまして」

 佐々木が苦笑。

 「特に私生活で。楽しい話でもないので割愛しますけど、妻の陽子、小山先輩も知ってると思いますけど、まぁ、ちょっといろいろと……モテる人でしたから」

 「……そうだったのか。大変だったろうな」

 小山が労わるように声をかける。佐々木の配偶者の人となりを知っているのだろう。

 「なので、仕事は順調でしたが、1年ほど前にこちらへ。私も鉄オタですし、この仕事は性に合ってます」

 佐々木が吹っ切れた笑顔で敬礼。

 岸原も続く。

 「そんなわけやから、僕はもう、戻れません。仕事のことは申し訳ないですけど、引き継ぎ、宜しくお願いします」

 言って、岸原が敬礼を説いた。佐々木も手を下げる。

 「わかった。納得できたわけではないが、もう会えないわけでもあるまい。またいずれ、ここで……」

 「いや、小山さん。それは難しいと思います」

 佐々木が返答。

 「岸原さんが申したように、今回は特例ですから。我々とは、これでお別れです」

 「そんな……」

 私は思わず呟いた。

 「それからな、僕らのことは他言無用。誰にも言わんといてほしい。いろいろと厄介なことになるし。それと、マンションとか残してきたコレクションやけど……」

 岸原が言いかけたところで。

 「そこで何をしてるんですか!」

 背後から怒鳴り声。私と小山は慌てて振り返る。階段から降りてきたであろう警備員がこちらを睨みながら、腰のあたり、伸縮可能な警棒が収納されているであろうケースに右手を伸ばしている。

 「何とはなんですか。ちゃんと許可を得て御社の関係者と視察に来ている者ですが」

 小山が普段通りの冷静さで返答。

 「視察? そんな話は聞いてません」

 警備員が徐々に詰め寄ってくる。

 「それはそちらの問題だ。情報伝達がちゃんとされていなかったのだろう。私たちは広報課の佐々木次長に連れてきてもらっている」

 小山が岸原と佐々木が立っている方向を手で示した。

 「広報課の佐々木次長?」

 警備員が眉間に深いシワ。

 「佐々木次長なら1年ほど前から失踪してますが?」

 「しっそう?」

 小山、次いで私が岸原と佐々木へと視線を戻す。

 「……なぜだ?」

 小山が呟く。

 「さっきまで、ここに……」

 ふたりともいない。

 「部長、やはりふたりとも、ここで……」

 私が言いかけたころで、スマートフォンからメール着信音。

 「ちょ、ちょっと、すみません」

 私は慌てて胸ポケットから取り出した。

 岸原からメールが届いている。開封する。

 件名には“スマンな”の一言。

 そして本文の冒頭には。

 “申し訳ない。うまいこと、ごまかしといてくれ”。

 「……無茶言わはるわ」

 私は脱力しつつ、思わず笑ってしまった。

 「しゃあないな。端境の人からの願い、なんとかさせてもらいます」

 スマートフォンの画面上部。インターネットや通信の接続表示。×マークが表示されている。電波は届いていなかった。

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