第6話
何度も頭を下げるシルヴァを見送ってから、アイラは出かけるための身支度をはじめた。
「どこ行くんだ」
帰らず教会に残っていたシオンが問いかけてきた。
「ウェルの町です」
「なにをしに」
「話、聞いていたでしょう。デボルさんを探しに行くんですよ」
「どうやって? ウェルの町の隅から隅まで歩き回るのか」
そのつもりだったが、シルヴァのあの憔悴具合を見るに、それぐらいは彼女がすでに行っているかもしれない。
なら、どうやってルボルを探すのがいいだろう——あ。
「子ども攫いにあえて攫われてみます」
「はぁ?」
ぱっと瞳を煌めかせたアイラに、シオンは赤色の瞳をすっと眇めた。アネモの町の話をしているときとはまた違った方向に不愉快げ。はじめて見た表情だった。
「なにを言ってるんだ」
「たしかに、私は祖国でもこの国でも成人とされる年齢ではありますが、その中では小柄な方でしょう? 子どもに見えないこともないと思いませんか」
「たしかにお前はちんちくりんだ」
アイラは少しむすっとした。自分で言う分にはいいが人に言われるのはなんとやらである。
「お前、子ども攫いがどんなものかちゃんと分っているのか」
アイラはぱちりと瞬く。
たしかに町の人たちがこの頃「子ども攫い」を話題に題しているのは聞いていたが、それがどういうものか詳しくは聞いていない。アイラはこの町の聖女でありながら、住人たちとの縁は薄い。
だが、少し思案すれば、記憶の底の蓋がことりと揺れた。
「子どもを攫って、奴隷商に売る人たち、ですか」
飛んでこない否定に、どうやら正解だったらしいと分かる。
姉から聞いたことがあった、アイラが暮らしていた街ではなかったが、ある都市では人間に階級をつけ、最下層のものを奴隷として扱っている、と。最下層、というのは貧困だったり、身寄りのないものだったり、親から売られたものだったり、それからどこかから攫われてきた者。賃金どころか寝食もろくに与えられず扱き使われるらしい。
「同じ場所で生きている、同じ生き物なのにどうしてそんなことをするの」
アイラは不思議に思った。姉はそっと眉を下げて言った。
「そうね……そういう人たちを導いたり、助けることができればいいんだけれど……」
「でも、街の人たちはお姉ちゃんが他所に行くのを嫌がるだろうね。あ、私が行くのは? 疫病聖女とは呼ばれているけれど、一応力はあるもの。私ならいなくなっても困らないし——」
「そんなことない」
姉はアイラの肩をしっかりと掴んで言った。
「そんなこと言わないで。アイラ。あなたは、私のたった一人の家族。とても大切で、この世で最も尊敬している存在よ」
「尊敬って……」
「嘘でも冗談じゃないわ。あなたが今よりもずっと幼かった頃。教会の庭でひどい傷を負った子に出会ったでしょう? 街の人たちはその傷や見目にひどく怖がって追い出せと言っていたし、私も……困っていた。その子のことを助けたい、けれれど街の聖女としてどうするべきか。でもあなただけは、躊躇いなく、その子に手を差し伸べていた。ただまっすぐにその子だけを見て、慮って」
四、五歳頃のことだったか。今はもう明瞭に覚えていないけれど、たしかにそんなことがあった。
一風変わった容姿をしていて、痛々しく傷だらけでひどく生気の薄い、アイラよりも少し小さな子どもが教会の庭に突如現れた。
おぼつかない足取りのその子が倒れるのを見て、当時のアイラは街の人たちの嫌悪にも気づかず、姉のそんな葛藤を知る由もなく、早く手当てをしないと、と必死に教会と同じ敷地内にある自宅へと運び込んだ。
その子は翌日には意識を取り戻した。それから数週間はアイラたちの家の空き部屋で休養し傷を癒やした。
そして、ある日突然、姿を消していた。
その子が残した置き手紙には「お世話になりました。帰るべき場所に帰ります」とあったけれど。今ならば、姉のその話を聞いたら、もしかしたら、その子が望んで姿を消したのではないのかもしれないとも、思う。だって、明らかに行き倒れていた子どもに、本当に帰れる場所があるのか、今ならば信じきることはできない。
ただ、当時のアイラは幼かったから、ただただその子の言葉を受け入れ、そして残念な気持ちだった。
アイラはその子の傷が癒えるまで、よく話したり一緒に姉のお手伝いをしたり、遊んでいた。年下のきょうだいができたように、かわいがっていた。
そして思えば、アイラが人生で唯一会った、今のアイラと同じくらい運に恵まれない子だったように思う。なにもない道で転んだり、運んでいた皿を足の上に落としたり、アイラが街でもらってきた風船をあげたら嬉々として受け取ったのにうっかり手放してしまって空に飛んで行ってしまったり——。
記憶の蓋が開いたのに連なり、懐かしい思い出がとっぷりとあふれ出る。しかし今はもう共有できる相手はいない。
アネモで暮らしはじめてからしばらく、アイラは熱心に新聞屋を訪ねては祖国に関する記事を探し読んでいた。
やがて読まなくなったのは、大きな記事で祖国が焼け滅び、小さな記事でその国の素晴らしい聖女が亡くなったという報せを目にしたから。
姉は、たったひとりの家族は、もうこの世にはいない。アイラは悲しみが過ぎると泣くことすらできないということを、彼女の死を以って学んだ。
でも、だからこそ。姉が与えてくれた知識を、守ろうとしてくれた命を、アイラは善いことのために使いたい。
頼ってくれた人の力になりたい。困っている人を助けたい。
「それなら、なおさら、どうにかしなくてはいけないでしょう」
「どうにかするにしても、自ら炎に飛び込むやつがあるか。同種族を金儲けの道具としか見てない連中にとって、お前なんかはかっこうの鴨葱だぞ。真っ先に目を付けられる」
きょとんとしたアイラに、シオンは呆れたように自身の首を指さした。
「あ、聖女の証」
「どこでも、誰よりも高値で売れるだろうな」
「なら、隠せば……いえ、目をつけられた方が好都合では?」
「はぁ?」
「彼らにとって私が価値がある存在ならば、それを手に入れたらどこにどれだけの値段で売るかと盛り上がったり、頑張りだすすんじゃないですか? その間は、他の子どもたちに手を出されないかもしれない」
やっぱり、子ども攫いにあえて攫われるというのは名案だったかもしれない。
善は急げ、アイラが少しのお金と、このあたりの地図を入れた鞄を肩にかける。あ、水筒もあったほうがいいかもしれないと台所に向かおうとしたら、シオンに腕を掴まれた。
「そんなのは、お前がするべきことじゃない。お前にやさしくないやつらに、お前がやさしくする義理なんてない」
その声は、表情は、妙に苦しげだった。
どうしてシオンがそんな態度をとるのか、アイラは不思議だった。先にシルヴァにも突っかかっていたが。
「あなたはアネモの町とよほど深い因縁でもあるのですか?」
「あんな町と縁なんてない。この教会以外訪ねようとも思わない」
浮かべていた可能性はばっさりと切り捨てられる。
「じゃあもしかして、私の心配をしてくれているとか?」
いつもの揶揄に対する、ちょっとした意趣返しのつもりだった。これも即刻切り捨てられるだろうと思った。
だが——シオンは赤い瞳をまあるく見開く。
それから、シオンはアイラの腕を引っ張った。
アイラはしばし呆然としていた。
あたたかなものに包まれたとき、肌の色は不健康なのに意外だと思って。
耳が当たる彼の胸元からはとくとくと鼓動が聞こえて、なんだかほっとして。
それから——もしかして、もしかしなくとも、自分は今シオンに抱きしめられているのではと気づいた。
アイラの心臓は瞬く間に騒がしくなり、全身が焼けたように熱くなる。
「な、なにしてるんですか!?」
アイラは精一杯目の前の胸を両手で押すが、しかし、シオンはびくともしない。どころか、よりいっそう強くアイラのことを抱きしめてくる。
「俺がお前を心配していると言ったら。お前は火に飛び込むのをやめてくれるのか」
耳元で囁かれる声は、低く切ない響きを帯びていた。
まさか、本当に。シオンはアイラのことを心配してくれているのだろうか。
さんざんいじわるや揶揄をしておきながら……でもシオンからは一度も「疫病聖女」だとは呼ばれたことはない気がする。アイラを揶揄するにはかっこうの言葉だろうに。
シオンがこの教会にしょっちゅう来るのは暇つぶしというだけでなく、アイラにそれなりに親しみを感じてくれている、というのもあったりするのだろうか。アイラの胸があたたかなもので満ちていく。
「あなたの言う通り、町の人たちは教会に礼拝に来ませんし、町中で私に会った人はたいてい気まずそうな顔を浮かべます……でも、彼らだけが悪いわけではありません。私も、私自身も、聖女という立場に、そして疫病聖女というあだ名に甘えていたんです。諦めてしまっていたんです」
「お前はなにも」
「聞いて、シオン」
しずかに、だけどしっかりとした声で窘めれば、アイラの思いを受け取ってくれたのか、シオンは閉口した。
「私は、だんだん私の本質に気づき離れていく彼らを、引き留めようとしませんでした。そりゃあ、そこにいるだけであらゆる幸運を呼び寄せ魔のものを退けるとされる聖女が不運だったら、なんともいえない気持ちになるよね。故郷でもそうだったもんね。仕方ないよねって。もっと町の人たちのことを知ろうとすれば、親しくなろうとすれば。私が聖女としてではなく、ひとりの人間としてこの町に溶け込もうとしていたら現状は違ったかもしれないのに」
アイラは短く息を吸って、それでも、続けた。
「こんな現状でも、シルヴァさんは私を頼ってくれました。藁にもすがる思いだったに違いません。たったひとりの家族を失う悲しみはすさまじいものですから。それに報いないなんてこと、私はしたくありません」
どれだけ不運でも、疫病聖女であっても。自分にできることがあるかもしれない、聖女であるということが生かせるかもしれない。それならば、アイラは喜んで行いたい。
「だから、離して。私を、行かせてください」
もう一度、アイラはシオンの胸を両手で、そっと、押した。
背に回っていたシオンの腕が力なく解かれる。アイラとシオンの間に、少しの距離ができる。
「……聖女様は、俺の心配には報いてくれないのか」
「う、それは……」
「俺はアネモの町のやつらよりずっと、お前と親しい時間を過ごしていたと思っていたんだが」
そう率直に言われると恥ずかしくなる。本当に懐いてくれていたのかと、説得中に落ち着いていた熱がぶり返しそうになる。
「嬉しかったですよ? だって、私の心配をしてくれるのなんて、姉くらいでしたし。あなたはよく私のことを揶揄っていたのに……。その、今は、あなたの頼みは、聞けないですけど。でも、私は必ず、あなたと再会します。約束します」
アイラは小指を立てて、シオンの方に向けた。
「私は約束を違えません」
シオンはじっとアイラの小指を見つめた。
「お前は、変わらないな」
シオンは大きくため息を吐いた。
「ひとつ、内容の変更を要求する」
首を傾げたアイラに、シオンが言う。
「再会ではなく、ずっとそばにいると約束しろ」
「ですから、私は」
「お前に火の中に飛び込むなと言っているわけじゃない。俺がお前についていく」
ぱちぱちと瞬くアイラの前で、シオンは指をぱちんと鳴らした。
すると次の瞬間、アイラの視界からシオンが消えた——かと思いきや。アイラよりも少し低い位置に頭がある、幼い男の子がそこにいた。その子は、さっぱりとした黒の髪、不健康なまでに白い肌、赤い瞳を持っている。衣服も先まで彼が纏っていたものにそっくり。
「これで俺も子ども攫いの的にはなれるだろう」
知った口調、だが声は知っているものよりいくらか高い。
「あ、あなた、もしかして、シオン……?」
「それ以外に何に見える?」
アイラは思わず腰を抜かし、尻餅をつく。
ああ、痛い。ああ、なんてことだ。
角を見ても牙を見てもスルーし続け、血の授受が発生しないようにも気を付けていたのに、こんなにもあっさりと明らかに人知を超えた技を披露されてしまった。これはさすがに——。
(……手品ってことにしよう)
すんと冷静になったアイラはそう思った。そう思うことにした。
アイラは心の中で「これは手品、これは手品……」と何度も唱える。と、シオンがこちらにむかって手を差し出してきた。
少し躊躇いながらもアイラが手を伸ばすと、シオンはアイラの小指に自身の小指を絡め、赤い瞳をふっと細める。
「これで契約完了だ」
「へ……あの、私は、あなたを巻き込む気は」
「俺を置いていくというのなら、俺はお前をこの教会に閉じ込める。後顧の憂いを断つためにここら一帯の町村を消し炭にしてもいい。そうしたらお前が利用されることもなくなる。それぐらい、容易いことだ」
突飛のない情景の羅列にアイラはぽかんとする。
「だが、俺を連れていくというのならば。お前が望むのであれば、子ども攫いからあの女の弟をふくめたすべての子どもを奪還する手伝いをしよう。見目こそ幼くなったが、鬼としての力は十分使える。役に立つと思うぞ?」
「もちろん、お前の命が優先だが」とシオンはさらりと言う。
はたして、シオンが本当にアイラを教会に閉じ込める気なのかは分からないが、ここら一帯の町村を消し炭に……というのはさすがにただの脅しだろう。少し前までとても暇で意地悪で唯一アイラと対話してくれる人という印象だったけれど、今はそこにアイラのことを心配してくれるようなやさしさも加わっている。
危ない橋を渡ろうとしている自覚はあったから、できることなら他人を巻き込まずにどうにかしたかった。だが、実際、アイラよりもシオンの方が腕っぷしも頭も優れているだろう。今の姿は幼いから少し心配ではあるけれど。
「……わかりました。協力、お願いします。自称吸血鬼さん」
ふっと笑ったシオンが今度はしっかりとアイラの手を掴んで引き起こしてくれる。それからシオンはアイラの手の甲にそっと唇を寄せた。
「必ずお前の力になろう。聖女様」
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