第4話

 アイラは隣国の都会で生まれ育った。物心つく前に両親を失い、四つ年上の姉と二人で暮らしていた。

 当然、子どもふたりでの暮らしは苦労が絶えなかったが、アイラが三歳の頃に姉とともに聖女になったことで生活は一転した。

 聖女というのは突発的に聖なる力を覚醒させ首に証印を得たものの呼び名であり、世界的にも珍しい存在だという。そこにいるだけであらゆる幸運を呼び寄せ魔のものを退け、町に専属の聖女がいるというのは稀有で誇らしいこととされる。

 だから街はアイラと姉が聖女になったことを祝福し、毎日のように貢物が用意され、それはもう尊ばれていた。聖女になりたての頃はアイラは今ほど不運ではなかった。


 だが、その三年後、六歳になり学び舎に入って少しの頃に、アイラは不運に遭うようになった。最初は聖女に嫉妬した人間や怨霊かなにかに呪われでもしたのではないかと疑われたが、それにしてはアイラの不運はどんくさくてお粗末。霊能に長けた術師に見てもらっても異常なし。アイラは次第に街の人から白い目で見られるようになり、姉だけが引き立てられるようになった。

 姉は真に幸運で優秀な聖女だったから。それでいて、唯一、アイラがどれだけの不運を巻き起こしても呆れることなく心配してくれる人だった。


 だが今からおよそ一年前、国で内戦が勃発した。そして町が属している派閥からの招集に姉が向かう前夜、教会に火が放たれ、間もなくして夥しい数の足音が聞こえた。

 姉の支度を手伝っていたアイラは恐怖と困惑に呆然としていた。姉はというと——アイラの腕を掴んで台所に向かったかと思うと、突然床下収納を開けた。そして、姉は土を掘って土戸をしただけのそこにアイラを突き落とした。


「アイラ、この町も、国ももう安全じゃない。この中を左手に進んだところに通路がある。そこは、郊外の森に繋がっているわ。森から西へ向かえば隣国につくから。逃げて」


 もちろん、アイラは抵抗したかった。だが、ついた尻餅の痛みに言葉を失っている間に。


「愛しているわ、アイラ。どうかあなたに幸福を」


 姉はそう言って微笑むと、収納の土戸を固く閉ざしてしまった。

 間もなくして姉の足音が遠ざかる。遠くで話し声が聞こえる。ごうごうと物が焼かれていく音がする。アイラは恐怖で腰を抜かせたまま動けずにいて……やがて、そのすべてが遠ざかったとき、ようやく、立てるようになった。だから、土戸を開けようとした。だが、開かなかった。だから、姉の名前を何度も呼んだ。だが、反応がなかった。


 それからしばらくしてから、アイラは姉の言う通り、隣国を目指した。

 毎日毎日泣いて、飢えて、不運に遭って、這う這うの体でようやくこの町にたどり着き、拾われ乞われるままに教会に住むようになった。

 大聖女を失っていたこの町は驚くほどアイラを歓迎してくれたし、最初こそはもてはやされていた。だがあっという間に、教会には誰も礼拝にこなくなってしまい、「疫病聖女」だと囁かれるようになった。まさか祖国でも呼ばれていたあだ名をここでも呼ばれることになるとは。病なんてばらまいていないのに、とは思うけれど、アイラの不運に他人を巻き込んでしまうことはたまにあるから反駁もできない。アネモの街に越してからも、アイラが訪ねた八百屋で屋根が突然崩れたり、転び落ちた川の飛沫を通行人にかけてしまったりという不運があった。

 それでもアネモの人々がアイラを追い出そうとしないのは、どれだけ不運だとしてもアイラの首に羽を象ったような聖女の証が刻まれているから、町専属の聖女がいるという誇りを失いたくないがためなんだろうと思う。

 姉を失い、町の人にも求められなくなり、またひとりぼっちになってしまった。

 そんな折に、かの自称吸血鬼は現れた。


 シオンがよく揶揄ってくるから恥ずかしさやら悔しさからつい反抗してしまうけれど、彼はこの世界で唯一アイラとまともに対話をしてくれる、気安い存在だ。

 だからアイラはここのところ、ふとした瞬間にシオンのことを考えては、少し心配になる。


 シオンはアイラが食事している時間帯に居ることもあるが、一緒に食事はしない。

 それこそ、行き倒れていたシオンが半日の睡眠から覚めたときに料理を振る舞ったのだが、「心遣いはありがたいが、俺は人間のものは食べられない。実際には口に含むことはできるが、お前の掃除の手間が増えるだけだぜ?」と言われた。

 あの頃は変な冗談かとも思っていた。だが、考えれば考えるほど、かつて行き倒れておいて、これだけ栄養の通っていない顔色をしておいて、食事に一切の興味を示さないシオンは奇妙だった。

 アイラの手料理がよっぽど趣味に合わないか(姉も自分も問題なく食べられていたからそこまでひどいものではないと思うけれど……)、もしくは冗談じゃないのか。じゃあ、彼が食べられるものは、彼に必要なものは、本当に、血なのか。


 湯の熱が残る、自身の首にそっと触れる。

 シオンがアイラの血を求めたのは、出会ってすぐのあの一度だけ。訳が分からなかったアイラは血を与えるようなことをしなかったし、シオンはその後気絶し目覚めてから今日まで、血を欲しがるそぶりを見せてこない。

 そして少なくとも、町では吸血鬼が現れたなんて騒動は聞かないし、国が発行している新聞でも見かけない。現状吸血鬼に関して、伝承の以上のものは存在していない。

 シオンは栄養を摂れているのだろうか。気になるけれど、聞けない。だって、もし、また要求されたら、アイラは許してしまうかもしれない。許してしまって、吸血をさせてしまったら、彼を吸血鬼だと認めざるを得なくなってしまう。

 シオンをこの教会から本当に追い出さなくてはいけないような事態にはしたくない。

 だって、ひとりぼっちは寂しいから。

 だから少しでも長い間、シオンを吸血鬼だと認めずにいられたら、シオンの暇つぶしが続いたらいいなと思う。


「アイラ」


 ちょうど思いを馳せていた相手の声が聞こえて、アイラはどきりとした。

 いつの間にやら、風呂場のドアの向こうにシオンが来ていたらしい。


「ずいぶんと長く浸かっているようだが、のぼせでもしたか」

「の、のぼせてないです!」

「ならよかった。背中を流してやろうか」


 流れるように放たれる揶揄の声。分かっていてもアイラの顔は真っ赤になる。お風呂に入りながら、変な汗をかいてしまいそうだった。


「結構です!」


 全力で反駁すれば、ドアの向こうからくっくと笑い声が聞こえた。


「アイラ」

「なんですか」


 むすっとしながら応えれば、シオンは「教会に客人が来ている」と言った。

 アイラは思わずざばりと音を立てながら湯船から立ち上がる。


「本当ですか」

「アネモで暮らしている女が、お前に相談したいことがあるらしい」


 アイラの瞳はぴかりと煌めき、胸は弾む。教会にシオン以外の客人が来るのは久々のことだった。


「今すぐ向かいますので、教会で待ってもらうようお伝えしておいてください」

「はいはい。ちゃんと服着て髪を乾かしてからこいよ、聖女様」

「あ、当たり前です!」


 愉快気な笑い声とともに足音が遠ざかっていく。

 アイラははやる気持ちをおさえながら、濡れても破れてもいない服をしっかりと身に纏い、普段よりもしっかりと髪を乾かしてから、教会へと向かった。


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