第3話

 三週間前、まだ春の気候にあった、ある朝のことだ。

 アイラは朝食前の日課である花の水やりのため、近所の井戸でバケツに水を汲んでから教会の庭に向かったら、花壇の脇に大きくて黒いものが転がっていた。


「ぎゃあっ!?」


 少ししてそれがうつぶせに倒れている人間であることに気づいたアイラは、びっくりしたはずみに悲鳴を上げてすっころんだ。

 手に持っていたバケツは咄嗟のバカ力で盛大に宙に舞う。ひっくりかえったそこから水がとっぷりと降った。アイラは見事濡れ鼠となり、倒れている人にも掛かってしまった。

 はたしてアイラの悲鳴にか、それとも春の井戸水の冷たさにか、倒れていた人はぴくりと反応を示した。

 それにアイラは少しほっとした——人間が倒れていると気づいたとき、アイラはてっきり死んでしまっていると思ったのだ。

 しかし生きている人間が倒れているとなれば、それはそれで一大事。アイラはすぐさまその人のもとに駆け寄った。


「だ、大丈夫ですか!?」


 体格からして男だろう、アイラにとって彼の体は大きく重たかったが、それでも意識を取り戻させるためにぐったりとした彼の上体をアイラは引っ張り起こした——そして、彼の頭を覆っていた黒いフードがはらりと落ちたとき、アイラは再び驚くことになる。

 男の頭には角が生えていた。牛のようなそれは黒々と上向いている。


「仮装……?」


 町でお祭りなどはやっていないから、旅芸人とかだろうか。

 男は上下の瞼を何度かぎゅうぎゅうと押し付けあってからゆっくりと開く。現れたのは、林檎よりも深い赤色の瞳。それに自分が反射したとき、アイラの心臓は大きく跳ねた。一方で、男は口角をそっと持ち上げた。


「本当に俺は、運がいいらしい」


 ふいに首に冷たいものが触れた。男の手だ。男はアイラの首を指先でそっと撫でる。


「な、なんなんですか。大丈夫、なんですか——ひぇ!?」


 男の顔が急にアイラの方に迫ってくる。鼻先がふれあい、互いの吐息がかかる。


「俺に血を分けてくれないか、聖女様」


 そう言った男の口腔に鋭い歯が生えているのを、アイラは見た。

 黒い角に、尖った歯。赤い瞳に、血を欲するその姿。

 それらに引っかかりを覚えるが、男は体力が尽きたのか、ぐったりと瞼を閉ざし気絶した。

 引っかかりの正体が、十年前、六歳の頃に通っていた学び舎で習った伝承であると思いだしたのは、彼を教会に併設している自宅にまで必死に引っ張り運んで、ひとつっきりのベッドにどうにか横たわらせたあとだった。

 まさか、と思ったけれど、半日後に再び目覚めた彼は自身が吸血鬼であると自己紹介した。

 それが、アイラとシオンの出会いだった。


 以来、シオンはたびたび教会を訪れるようになった。

 一度目はアイラに助けられた礼のためだと言っていた。二度目から今まではアイラに会うためだと言う。

 シオンは朝昼晩問わず突然ふらりと現れては、アイラが教会の仕事をこなすのをついて回ったり、雑談を振ったり、揶揄ったりする。そしてしばらくしたらまたふらりと姿を消す。


「本当、なんなんだろう、あの人……」


 湯船に張られたほどよい温度のお湯につかりながら、アイラは思う。

 どうしてシオンは三週間も飽きずにアイラにちょっかいをかけてくるのだろう。

 彼はアイラの不運を見聞きするたびにけらけらと愉快げにしているけれど、そんなものでしか楽しみを得られないほど退屈な生活をしているのだろうか。


(そういえば、伝承では吸血鬼は長命って語られてたっけ)


 長生きしているがゆえに楽しみというものが普通の人間よりも少なくなってしまっている、とか。

 だが、アイラの不運は大体地味で似たようなもの。新鮮味なんてすぐになくなるはず。実際、町の住人たちは、アイラを聖女に据えて二週間もした頃には、アイラの不運にほとんど驚かなくなった。


(いや、彼は自称吸血鬼だから)


 アイラはぶんぶんと首を横に振った。つい、シオンが吸血鬼である体でしてしまっていた思考を振り払う。

 はるか昔、この世界のあちこちに吸血鬼は生息しており、人間の血を吸う恐ろしい生き物として恐れられていた。そして百年ほど前、吸血鬼による大量惨殺——血をすべて奪われた人間の死体が多数発見されるという事件が勃発したことをきっかけに、人間側は吸血鬼ハンターを徹底的に育成し、吸血鬼を完全に討伐した。世界の学び舎で教えられたり、様々な絵物語にもなっている伝承だ。だから、この世に吸血鬼はもういない、はずなのだ。


(……それでも、もし、本当にシオンが吸血鬼だったら)


 神聖なる教会に入れるわけにはいかない。アイラは、シオンを本気で教会から追い出し、国に通報しなくてはいけない。

 そうなれば、アイラはまたひとりぼっちになってしまうから。

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