第2話

「ただいま戻りました」


 もしかしたら客人がいるかもしれない、と思っていつものように挨拶をしてから教会に入るが、相変わらずのがらんどう。心の中で閑古鳥がかっこうと鳴く。ステンドグラスの光だけが注ぐ祭壇から視線を外し、そっとドアを閉めようとしたら、ドアノブがぼろっと外れた。


「この間直したばかりなのに」


 頭の中の買い物リストに接着剤を書き足す。不幸中の幸いなのは、この教会に金目のものはなく、そもそも町の住人はこの教会に近寄りたがらないから、強盗などが起こる心配がないことだろう。大抵の住人はこの教会よりも、町の入り口に建てられた大聖女像を拝む。

 大聖女像はアイラの前にこの教会に住んでいた聖女を象ったものだ。彼女はこの町にあらゆる恵みをもたらしたとのことで、それはもう町の人々からは慕われていた、らしい。この教会も毎日のように人でにぎわっていた、だとか。アイラがこの町に訪れたのは一年ほど前のことで、前任聖女それよりもずっと前に亡くなっていたから会ったことはない。


「くっ……はは……」


 ふいに、頭上から押し殺したような笑いが降ってきた。

 ——うっかり忘れていた。強盗の心配はないけれど、ここのところ、この教会に侵入者が現れることを。

 呆れたっぷりに目を眇めたアイラが天井を仰げばそこには、まるで自宅のソファにでも腰掛けるようにゆったりと梁に座る男がいた。さっぱりとした黒の髪、上も下も黒で統一された衣装。やわらかに撓む瞳は、熟れた林檎よりも深い赤色をしている。いかにも不気味で怪しい見目をしている。


「相変わらず、からくり装置でも起動させたみたいな不運に遭うな、お前」

「……そんなところに座るなと、何度言えばわかるんですか。自称吸血鬼さん」

「お前こそ、何度自己紹介をしたら、俺の名前をちゃんと呼んでくれるんだ? 俺の名前はシオンだと何度も名乗っているというのに」


 演技がかった口調でそう言って、シオンは梁から降りた。軽やかに着地した彼は、さっと裾を払う。もしもアイラが同じことをしたら、足を挫くか、偶然に床が抜けるかするだろう。そもそも、梁にのぼる運動能力も、そこから降りる度胸もないけれど。


「吸血鬼さんと親しくするわけにはいかないので」

「自称だと思っているくせに。いや、思い込もうとしているだけか」


 こつり。靴の踵を鳴らして、シオンは一歩こちらに近づいてくる。


「お前は、俺の角も牙も、見たことがあるだろうに」

「からくりの可能性だってあるでしょう」

「たしかに、お前みたいなとんちきな不運があるのなら、角や牙が映えるくらいのからくりもこの世にあるかもしれないな」


 シオンはくっくと喉を鳴らす。明らかに馬鹿にしているそれに、アイラはむっとして彼を睨んだ。

 しかし、相手はこの町の誰よりも立派な長身を持っている。小柄なアイラなんかは首をしっかり傾けないと彼の顔を仰ぐことができない。

 今のアイラの姿は彼や傍から見れば、獅子に対抗する鼠ぐらい無謀で滑稽に映るのだろう。シオンは笑みを浮かべたまま、ちっとも動じない。


「吸血鬼は存在しません。もう百年も前に国の吸血鬼ハンターがすべて狩りつくしたのですから」

「だが、それはあくまで伝承だ。お前は吸血鬼が狩りつくされる瞬間を見たのか?」

「それは……」

「伝承は所詮、伝承。事実とは限らない」


 また一歩近づいてきたシオンに向かって、アイラは胸に抱えた紙袋から白い球根を取り出し突き出した——あらゆる伝承で吸血鬼の天敵と扱われているニンニクだ。シオンがしょっちゅう吸血鬼を名乗るから冗談半分の軽い気持ちで買ってきたものだった。


「もしあなたが本当に吸血鬼だというのならば、ここから出て行ってもらうしかありません。神聖なる協会に、鬼を招くわけにはいきませんから」


 シオンの赤い瞳がまあるく見開かれる——もしかして彼は本当にニンニクが弱点なのだろうか。伝承の上では吸血鬼は全滅している。だが、シオンの言う通り、彼の角や牙は見たことがある。

 だから、ひょっとすると、もしかしたら。

 シオンの赤い瞳はニンニクを捉えたまま逸れず、微動だにしない。

 アイラの頬はひくりと引き攣る。シオンは本当に、彼はニンニクが苦手なのだろうか。だとしたら……やりすぎてしまっただろうか。

 そう思って、アイラがおずと手を引っ込めようとしたとき。


「くっ、あはははははっ」


 シオンが盛大な笑い声をあげた。

 ぽかんとしているアイラからニンニクをとりあげたシオンは、指先で器用に弄ぶ。


「たしかに俺はニンニクが得意じゃないが、突き出された程度でどうこうなるほどじゃないぜ」


 ぽい、とシオンはにんいくをアイラの方に投げ戻す。アイラは突然のことに落としそうになりながらも受け取る。


「無理やり口に突っ込まれでもしたら二、三時間ぐらいは行動できなくなけれど。やってみるか?」

「……やりませんよ」

「聖女様はお優しいねぇ」


 馬鹿にするような口調で言ったシオンがぽんぽんとアイラの頭を撫でた。妙な恥ずかしさやら悔しさやらがこみあげてくる。彼を言い負かしてみたい気持ちはあるが、さすがに人の口にニンニクを突っ込む気にはなれない。そもそも、この飄々とした口ぶりからするに本当に有効かも怪しい。


「私が無理やり突っ込もうとしたって、あなたなら躱せるでしょう」

「躱せるのと躱すのはまた別の話だろう」


 どういう意味かと怪訝に首を傾げたアイラに、シオンはふっと瞳を細めた。

 非常に整った造形が作り出す、あまりにも綺麗な微笑み。どきりとしてしまうのも、ぞっとしてしまうのもおそらく必然だろう。

 シオンはアイラの頭から頬までを辿るように撫でると、顎を掴んだ。


「お前が手ずから俺にものを食わせてくれるって言うなら、俺は微動だにせず受け入れるさ」


 シオンの手によってくいと顔を上に向かせられる。非常に整った造形が作り出すあまりにも綺麗な微笑み。深い色の赤色にじっと見据えられて、どきりとしてしまうのも、ぞっとしてしまうのもおそらく必然だろう。

 思わず後退ったとき、アイラの鼻はむずつき、くしゅっとくしゃみをが溢れた。

 侵入してきた自称吸血鬼にかまけていたせいで、つい先に思いきり水を被ったことをすっかり忘れていた。

 教会は町から外れたところにあり、その道中初夏の陽気を浴びていたから若干は乾いているものの、まだじめっとしている。

 と、アイラの顎から手を外したシオンが、懐からハンカチを取り出し差し出してきた。白いコットンで織られたガーゼ。ハンカチは黒じゃないのかと頭の片隅で思う。


「風呂に入ってくるといい。湯は張っておいてやった」

「あ、ありがとうございます……いや、なにしてるんですか!?」

「お前が汚い水を被るところは見ていたからな」


 お風呂の用意をしてくれる侵入者とは、これいかに。うっかり感謝してしまったけれど、よくよく考えずともおかしな事態だ。

 というか、窓清掃のバケツの水を浴びるところを見られていたなんて……そういえば「相変わらず、からくり装置でも起動させたみたいな不運に遭うな」とかなんとか言っていた。


(よっぽど暇なのかな)


 シオンはこの町の住人ではなく、アイラは彼が自称吸血鬼であることしか知らない。

 シオンは普段はいったいどこでなにをしているのだろう。仕事などはしているのか。これだけ優れた容姿をしていれば、都会で演劇の主役とかをやっていてもおかしくはなさそうだ。だが、そんなものをしていたら、しょっちゅうこの教会に訪れたり、アイラの不運を観測する暇などないはず。

 彼の纏う衣装は明らかに上等でいつも清潔だから、衣住に困っているようには見えない、けれど。食はどうだろう。シオンの肌は陶器よりも雪よりもずっと白い。衣装が黒いのも相まって、血が巡っているのかと疑うほど不健康そうに見える。


(血……)


 もし、シオンが自称ではなく本当に吸血鬼なら——。


「そんなにまじまじと俺のことを見てどうした」

「え」

「ああ、もしかして……俺と一緒に入浴したいのか?」

「はぁ!?」


 アイラの顔に血が一気に集まる。


「熱烈だな」

「いや、ちょっと」

「お前が望むのなら、喜んで一緒にさせて貰おう」

「待って」

「しかし、あの湯舟じゃあ、二人で入るのは……ああ、いや——」

「一緒に入るわけないでしょう!」


 シオンの言葉を遮るようにしてアイラは叫んだ。

 すっかり顔が熱いアイラに対して、にやにやとしているシオンの顔は、やっぱり、白い。

 アイラはいつの間にか、思わず自分の首に当ててしまっていた手をそっと下ろす。


「侵入はいけないことですが、お湯を張ってくださりありがとうございました! 私は湯浴みをしてきますので、懺悔も礼拝もする気がないのならさっさとお帰り下さい!」


 羞恥や形容しがたい感情が胸にぐちゃりと渦巻き、いたたまれない。

 アイラは一刻も早くここから立ち去りたかったが、ここは教会で自分は聖女。駆けだしそうになるのを堪えて、なるたけ速足でその場を離れようとした。


「そういえば」


 アイラが教会を出ていく直前。


「出会った日も、お前は濡れ鼠になっていたな」


 当然の如く、鼠の言葉に獅子は一切動じない。懺悔も礼拝も帰ろうとする様子も一切ないどころか、長椅子に悠々と腰を下ろしたシオンは微笑みながら宣った。


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