第27話 名前のない関係
世間は7月へと突入した。夏が本格化してきた……と言うべき時期なのにもかかわらず、気温は一気に上がりテレビ局は夏日を通り越して真夏日を記録したと放送している。
昨今の社会の風潮に合わせてクールビズをモットーにしているうちの会社は完全にエアコンの切り時を間違え、うちの部署は7月とは思えない量の汗が流れていた。
俺も、さっさと仕事を終わらせたいところだが、俺の机に詰まれた書類の束が、なかなかそれを許してくれない。
「せんぱーい、お疲れ様でぇーす。」
「おう、お疲れ……」
後ろからかけられる声に、俺は振り返らず返事をする。しかし、声の主は俺の後ろからどいていこうとしない。
「あれ?先輩まだ仕事終わんなさそうな感じですか?」
「みりゃ分かんだろ、絶賛作業中だよ。」
「うわー、こんなにいっぱい……。流石は案件T……。」
俺の机の上に置かれた紙をペラペラとめくり、本気で引いた声を上げる。
「そこにおいてある分は基本終わったやつだけどな。」
「この量終わらせてる先輩も結構グロいですね……」
水原は再び引いた声を上げる。
「水原、正直後ろに立たれると暑いんだが……。」
彼女が立っているせいで、俺の後ろに出来ていたはずの風の通り道がシャットダウンされて、ぬるい空気が停滞している。
「いや、分かります。ここ相当暑いですね……。私の席、もうちょい涼しいですけど……、はっ、まさか先輩……。」
水原は何か思いついたような声を上げる。
「何考えてんのか知らんけど、俺は今見ての通り忙しいからな。」
「新田先輩、私は先輩が窓際族になって、エアコンの効きにくい席に移されてたとしても、私だけは先輩の味方ですからね……」
「邪魔する位ならさっさと帰れ。」
「先輩、もしもの時は、私、水原楓子が養ってあげますから……」
「あー、暑苦しい、どっかの後輩のせいで暑い通り越して暑苦しいなー。」
半分恒例のような言い合いをしていく、忙しいとは言え、俺も一通り今日の分の仕事が終わり、机に目を向けると、さっきよりずいぶんと整然としている。
「水原、この辺の書類どうした。」
「既に片づけた書類って聞いたんで、分かりやすいように整理しときました。あ、余計でした……?」
少し表情を曇らせる水原
「いや、余計どころか……」
余計どころか、めちゃくちゃ助かってる……しかも、整理の仕方もめちゃくちゃ分かりやすい。この流れで褒めるのは何となく癪だ……しかし、相手は後輩、褒めれるときはちゃんと褒めるべきだ。
「めちゃくちゃ分かりやすい、流石だな。」
「へへ、そうですか?」
先ほどの表情からは一転、嬉しそうな表情を浮かべる水原。整理してくれた書類に一応全て目を通してから、俺も帰る準備を始める。
「あ、もう終わりです?」
「おう、水原のお陰だよ。」
俺が鞄を持ったのを確認して、水原も後ろからぴょこぴょこと付いてくる。顔はにっこり喜色満面だ。
「せんぱ~い」
「なんだよ。」
「いや、こうして帰る時間も一緒になったわけですし、どうです?今日?」
「なんだそのオッサンみたいな誘い方……。」
くいくいっと手を動かす水原、何か嫌な仕草だな……。
「それはそれとして、実際問題今日一緒にご飯行きません?先輩やっぱり最近忙しいですし、こんな風にするタイミング中々ないですし……。」
実際問題忙しいのは事実だし、タイミングがないと言いつつ、前回の飲み(13話)以来水原と飲みには行けていない……。水原も、何か頼むような目つきをしている、しかし……
「すまん、今日はパス!」
非常に申し訳ないが、俺も今日はどうしても水原とは行くわけにはいかない。
「あ、そ、そうですよね、先輩も忙しいですし、私ったら何を~」
絶望と混乱を取り繕うかの様な焦りの表情に、俺もフォローを入れる。
「いや、お前とが嫌とかいう訳じゃなくてな、ちょっとどうしても今日だけは早めに帰んないといけない用事があるからさ……また別の日に、忙しくない日に、絶対行こう!」
俺のフォローに対して、水原は半信半疑な表情で、上目遣いで尋ねる。
「ホントですか……?」
「ほんとほんと、今日がダメなだけだから、水原が嫌とか、そういう訳では一切ない!」
「そうですか……、そうですか!」
水原はぱあっと顔を明るくさせる。その表情にはさっきまでの焦りや困惑は浮かんでいなかった。コイツ……三味線弾いてやがったか……?
「そういうことであれば、期待しときます!」
「おう、期待しといてくれ。」
「大丈夫ですか?安易に期待しろなんて言われたら、ハードル上がっちゃいますよ?」
「お手柔らかにな。」
納得のいく結論に至ったのか、それから俺達は仕事の話とか、とりとめのない話をして帰った。なんてことないかのように俺の席に現れた水原だったが、多分こいつはこいつで頑張っているのが、言葉の端々から感じられた。
水原は俺より先に降りて行ったが、人の多い電車から降り、雑踏に紛れていく彼女の足取りは、他の誰より軽やかに見えた。
俺も彼女が下りてからしばらくして、家の最寄り駅で降り、帰り道を少し速足で進む。
想定より少し遅れてしまったが、彼女は怒っているだろうか、それとも暖かく出迎えてくれるだろうか。今の彼女は怒ると怖い、そういう事なら連絡してくれと、言われるに違いない。
「怒られるのは、ちょっと怖いかもな。」
誰もいない道で、ぽそりと呟く。しかし、俺の口角は不思議と上がっていた。怒られるのが嬉しいなんて、他の人は不思議がるかもしれないが、それでいい、これが俺たちの関係なんだ。
そんなことを考えていたら、いつの間にか我が家に到着していた。階段の下で一つ気合を入れて、帰ったぞと伝えるためにわざと大げさに階段を昇る。
そしてゆっくりとドアを開ける。
ドアを開けた先には、案の定、彼女がいた。
―———長かった黒髪を短く切り、会った時に比べると少し血色の良くなった肌。そして首からは段ボールではなくエプロンをかけた、見慣れた少女がいた。
少女は俺の姿を確認すると、少し眉を顰めて口を開く。
「ちょっと帰るの遅くない?今日記念日だって分かってる?」
「悪い悪い、思ったより仕事が長引いてさ。」
「そういう事ならあらかじめ連絡してって言ったじゃん。次から気を付けてよね。って、何で笑ってるの。」
あまりに予想通りの反応に、つい笑ってしまい、咎められる。
「いや、なんでもないよ。」
初めは怪訝そうな顔をしていたが、結局分からなかったのか、彼女は表情を和らげ、話し出す。
「まあ、それはそれとして……」
彼女はにこりと、優しい、安心できる笑顔を浮かべて、こう言った。
「おかえり、新田さん。」
そうか、正解は両方だったか。当ては外れたが、そう悲観はしない。
「ああ、ただいま、凛。」
この名前のない居心地のいい関係は、まだ、続きそうなのだから……。
これにて第一部完結となります!ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます!!
凛と新田の物語はまだまだ続きます。第二部の更新を待っていただけると嬉しいです!
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