第21話 俺と凛の、したい事

 家に帰る足取りが何となく重い。俺の鞄の中には、主任から貰った企画書と彼女の参加するつもりがあったら連絡するようにと書かれたメモが入っていた。その10枚足らずの髪束の重さが、鞄の持ち手越しにずっしりと伝わってくる。


 今までは、基本的に早めに仕事は片づけるようになったし、家に帰って、お帰りを言ってくれる人がいると思うと、自然と足取りも軽くなっていた。だが、今は足が鉛のように重い。


 新プロジェクトに声をかけてくれたのはとてもありがたい。自分も一人の務め人として、人を束ねての仕事を一度はやってみたいと思っていたし、自分なら出来ると思ってくれた朱鷺野先輩には足を向けて寝れない。だけど、


「何で、今なんだろうな……。」


 余りにもタイミングが悪い気がする。ちょうど凛とも仲良くなって、彼女も心を開いてくれるようになったのだ。高校生なのに、守ってもらえず、社会によって壊されてしまった少女が、やっと自分らしく、自発的に人に何かを求めるようになってくれたのだ。


 しかし、俺が新プロジェクトを始めてしまったら、家に帰れる時間は、劇的に少なくなってしまう。時間的にも、心身共に余裕がなくなってしまうだろう。そんな俺の様子を見た凛は、きっと、また自分の気持ちに蓋をして、バレないように、上手く我慢をするだろう。俺にも、自分にもバレないように。でも、チャンスを自ら手離すことが、俺は恐ろしい。チャンスの神様は前髪しかない。自ら神様の背中を突き飛ばすなど、言語道断だ。


「紙一つで、こんなにも悩まされるなんてな……。」

 まだ帰る道すがらだが、何の気なしに鞄からその紙を取り出す。そこには当然のように企画書と朱鷺野先輩の緑のメモ、そしてその横に、ピンク色のメモが張られてあった。そこには、今まで何度となく見てきた、丸文字で短く一文書かれていた。


<新田先輩がしたいようにしてください、それがどんな形でも、私は応援します。>


 誰からかは掛かれていなかったが、一目瞭然だった。新人の頃、彼女のデスクにはこんなも丸文字で書かれたメモが大量に貼られていたのを、よく覚えている。


「俺がしたいように、か……。」


 俺は、今まで不自由なく過ごしてきた。大学も就職もスムーズに進み、今の仕事に十分満足している。やりたいように、させてもらってきた。


 だけど凛はどうだ。彼女は、自分が分からないように、我慢をしてしまう。自分がやりたいことにが分からず、他人が求めていることを自分が求めている事だと思い、自分で自分を騙していることにも気づかずいる。次第に吐き出し口を失った凛の自分という器は次第にひびが入り、多分、壊れる寸前だった。


 彼女はそのひびを自分で埋めている最中なのだ。そんな時に彼女には余計な心配を掛けたくない。自分は彼女の面倒を見ると決めたのだ。俺の仕事のチャンスはこれからいくらでも来るが、彼女はそうではない。俺が本当にしたい事は、自分の出世ではなく、彼女に自由を与えてあげる事なんだ。



「よし、朱鷺野先輩には明日正式に断ろう。」


 水原にも失望されてしまうかもしれない。教育係として、慕ってくれる先輩として、見せるべき姿ではないのかもしれない。だけど、人として、俺はこの選択が間違っているとは思えない。


 そう決めたら、俺の足取りはもう軽かった。そういえば凛は今日買い物に行ったはずだ、今日の晩御飯は何をつくってくれるのだろうか、楽しみでしょうがない。鞄ももう重くはない。軽い足取りでマンションの階段を駆け上がり、勢いよくドアを開ける。


「ただいま」を言う声は喉の奥の方から出てきて、多分、普段よりワントーン高かった。


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