浮遊する廃墟、落下する上海

りりあに

本編

 上海は海に沈んでいた。


 地球温暖化が加速した2050年、海面は無情にも都市を侵食していった。かつての壮麗な街並みは今や波間に揺られ、地平線に沈みゆく運命にあった。太陽光が海面に反射して、暑さが容赦なく肌にまとわりつく。風が凪いで、街全体が静寂に包まれるその瞬間、遠くから蝉の声が淡く響ていた。


 楊麗華は、その中に無言で座り込んでいた。目の前に広がるのは、都市の亡骸と海の荒波。


 彼女は一度深く息を吸い込んで、手元に広げた紙を見つめる。その古びた設計図は、祖父が遺したものだった。巨大な蒸気機関は過去の技術だと人々に言われ続けたが、麗華にとっての未来への鍵であり、かつての夢と希望の象徴だった。


 祖父のラボで蒸気の音を聞いて育った日々が記憶を駆け巡っていた。蒸気の熱が鉄を動かす力となり、その力が世界を変える。その感覚は心的イメージとして脳の中に鮮やかに残っていた。蒸気機関はただの過去の遺物ではない。―――信じる限り、その力は今も生きているはずだった。


 しかし、その前には冷酷な現実が立ちはだかっている。蒸気の力で都市を浮かせる——―それは理論上可能かもしれないが、実際に機能するかは誰にもわからない。それでも麗華は、沈みゆく上海を再び浮かび上がらせるための蒸気技術の可能性に賭けていた。


 上海市当局、地方発展改革委員会、そして国家エネルギー局。この三つの巨大な力は、まるで見えない鎖のように麗華の背後に絡みついていた。無言の圧力が、彼女のプロジェクトを細部まで鋭く突き詰めさせていて、ひとつのミスも許されないという重荷を、両肩に重くのしかからせていた。もしも蒸気タービンが機能を失えば、その瞬間、巨大な都市は無力な塵のようになって海の底へと沈んでしまうだろう。


 麗華は背負わされた責任を強く感じながら、技術者としての誇りを胸に、一歩を踏み出そうとしていた。


 風が髪を優しく揺らし、波が足元をさらう。彼女はそっと立ち上がって、もう一度設計図を見直した。そこに描かれた線は、祖父が生涯をかけて研究した蒸気機関の全てであり、沈みゆく未来を変えるための拠り所だった。


 空は青くて、雲は一つもない。太陽が街全体を焼きつけるように照りつける中、麗華は歩き出した。都市を浮かせるための蒸気タービンは、まだ街の深部で眠っていた。


 歩みを止めることはなかった。都市の未来は、彼女の手にかかっている。その未来を導くのは、蒸気の力と、自らの信念だけだ。次の一歩を踏み出すごとに決意は強まり、胸中にある希望の灯は微かに揺らめいたが、消えることはなかった。


「私は、この都市を浮かせる」


 そう自分自身に誓いを立てた。


 ―――


 眠っていたタービンが轟音とともに目を覚まし、蒸気が勢いよく噴き出す中、沈んでいた上海の一部がゆっくりと水面から姿を現していった。


 都市はまるで長い眠りから覚め、空へと浮かび上がろうとしているかのようだ。そして、その穏やかな浮上の裏側では、技術的問題もまた、影のように浮かび上がっていた。


 蒸気で都市を浮かせる計画は壮大で、その実現には多くの困難が伴っている。タービン出力の精密制御、フロートユニットの微細な重量バランス、そして自然の気まぐれ。それらすべてが上海の命運を握っている。


 麗華は最も重要なフロートユニットの調整に没頭していた。都市全体を浮かせる機構は、蒸気タービンが生み出す膨大なエネルギーによって支えられていたが、そのエネルギーの制御はあまりにも繊細だった。蒸気が適切に循環しなければ、都市の一部が傾いて、フロートユニットが破損する恐れがある。ほんのわずかな誤差が、巨大な都市の未来を左右することになる。


 ラボの中には、蒸気タービンの唸りが響く。巨大な鉄の歯車が回転し、圧縮された蒸気が力となって噴出している。その光景は美しいとも言えたが、重圧も生んでいた。彼女は機械の動きに集中しようとしていたが、この計画がもし失敗したらどうなるのか、頭の片隅では恐怖が拭えなかった。


 当局は、上海がさらに高く浮かび上がることを当然の前提とし、その計画を着々と進めている。都市がゆっくりと空に向かって持ち上がる姿は、国の誇りを象徴していた。


 このプロジェクトは上海を救うだけにとどまらない。中国共産党とその指導者、そして中国人民十億の威信が彼女の手中に委ねられていると言っても過言ではなかった。国外からの注目も日に日に増しており、世界中がこの浮遊都市の成功を見守っている。視線の重さが、彼女の心をひりつかせた。街の未来が、自らの技術の上にかかっているという事実が、絶えず彼女の胸を締め付けていく。


 麗華はデスクの上に広がる無数のデータを見つめていた。フロートユニットのバランスを保つためには、すべての要素が完璧でなければならない。蒸気の圧力、温度、循環速度やその他の微小なズレは、都市全体を不安定にすることにつながる。それでも彼女は、計算した結果によって、自らの理論を肯定し続けていた。


 彼女は、蒸気が都市を支える力を信じ続けようと必死だった。


 夜が更けてもラボの中の蒸気タービンは休むことなく回り続けていた。窓の外には、浮上した上海の街が広がり、大陸からの風が肌を撫でていた。彼女は一瞬、祖父のことを思い出した。その手が動かしていたあの蒸気機関の感触。それは麗華にとって技術者としての原点で、今もなおその感触が精神を支えている。


 だというのに、祖父の夢と現実の間には、越えられないほどの溝が存在しているように感じられてた。


 デスクに手をつき、深呼吸をする。心を落ち着けようと試みてはいたが、焦りは広がっていた。このままでは上海が再び沈んでしまうかもしれない。その不安が頭をもたげるたび、彼女は必死に計算式を見直し、わずかな誤差を修正する。技術者としての誇りを保ちながらも、彼女は世界都市上海の命運に押しつぶされそうになっていた。


 ―――


 人工衛星とスーパーコンピュータによってもたらされた天気予報は、数日後に巨大な台風が上海を直撃することを告げていた。嵐の前触れは、肌に感じられるほど明確だった。空が鉛色に重く垂れ込み、遠くで雷鳴が鳴り響いて、風が強まり、ラボの窓を揺らす。上海の街は、目に見えない恐怖に包まれていた。


 麗華は、目の前にあるデータと設計図を睨みつけ、思案を重ねていた。もし台風がこの都市に直撃すれば、フロートユニットが揺れ、都市全体が崩壊する危険性がある。


 蒸気タービンの音が響く中、窓の外の暗い空を見上げる。嵐が来る前に、彼女は最善の選択をしなければならない。しかし、どの道を選んでも、彼女が直面するのは未知の恐怖だった。


 ―――


 夏の嵐がやってきた日、タービン機構はすでに限界に近づいていた。たしかに蒸気は膨大なエネルギーを供給し続けることで、今のところ都市を支えてはいた。だが、その力は嵐の猛威の前ではあまりにも小さい。高圧で送り込まれる蒸気は、フロートユニットを支えるために絶えず循環していたが、それでも都市の微妙なバランスは揺らぎ始めている。


 麗華の目の前に広がるモニターには、フロートユニットのカラフルな警告ランプが次々と点灯している。フロートユニットの安定を保つためには、蒸気の供給を維持しなければならない。都市の各部分はわずかに傾いて、蒸気の圧力が均等に分散されなくなっていた。彼女は冷静を保とうとしていたが、もうひとつの問いが心の中で渦巻いていた。


 プロジェクトを一時的に中断して都市を降下させるべきか、それともこのまま浮上を続けるべきか、それが問題だ。——―ハムレットのようなこの問題は、どちらの選択肢も危険だった。


「もしここで都市を降下させれば、その一部が波に呑まれて失われるかもしれない。しかし、嵐をこのまま迎えれば、全てが崩壊する危険もある……」


 麗華は自らに言い聞かせるように、その言葉を繰り返した。答えは出ない。祖父が遺した蒸気技術に対する信頼と、現実の猛威に対する恐怖がせめぎ合っていた。


 ラボの電気が一瞬だけ消えて、室内が暗闇に包まれた。風がさらに激しく吹き込み、建物全体を揺らす。電力が戻ったとき、手は震えていた。コントロールパネルに目をやってから深く息を吸い込んだ。決断の時が迫っている。


 そのとき、心の奥底でかすかに響く祖父の声を思い出していた。まだ幼かった頃、祖父がラボで機械を組み立てながら語りかけてくれた時の声だった。蒸気がシューッと立ち上る音、歯車が回転する微かな音、そして祖父の落ち着いた声。


「技術は自然に対して謙虚でなければならない。だが、技術の力を信じれば、人間は自然をも乗り越えられる」


 彼女はその言葉に希望を感じたが、同時にそれが幻想に過ぎないのではないかという不安も抱えてしまった。今、彼女が直面しているのは、祖父の夢と現実とのギャップであり、それは技術者として成長してきた道程そのものだった。ついに彼女は決断した。


 ―――都市を降下させ、嵐を避ける。


 彼女は手元のパネルに指を置き、慎重に降下システムを作動させた。蒸気の圧力が徐々に減少し、都市全体がゆっくりと降り始める。しかし、その決断は想像以上に大きな代償を伴うことになった。


 蒸気の供給が減少した瞬間、都市の一部が不安定になり、巨大な構造物が海へと傾いた。麗華は息を飲んだ。崩れ始めた構造物は、まるで波に呑まれるかのようにゆっくりと海中へ沈んでいった。守ろうとしていた都市の一部が目の前で消えていく。まるで自らの夢がそのまま海に飲まれていくようだった。


 蒸気が途切れるたびに、都市の未来が薄れ、夢もまた、その波の中に消えていった。


 麗華は全身の力が抜け落ちるのを感じながら、呆然として崩壊を見つめていた。


 ―――


 嵐が過ぎ去った上海を、静寂が包みこんでいた。太陽が雲の隙間から顔を覗かせ、重苦しかった空が一転して明るさを取り戻していた。その光は、都市に残された崩壊の跡を残酷に照らし出す。蝉の鳴き声が遠くから響き、海の波が穏やかに岸辺を撫でていた。平穏な時間が流れているようにも見える。


 それでも、そこに残されたものは、失われた夢の断片だった。


 ラボから出た麗華は、沈んでいく都市の一部を見下ろした。風は彼女の頬をかすかに突き刺すように感じられた。


 蒸気の力で都市を浮かせる——―すべてを捧げた計画は、その夢は、海の底に消えつつあった。彼女が祖父から受け継いだ技術、そしてその技術を信じて進めた都市浮遊の計画は、現実の厳しさに飲み込まれてしまった。


「蒸気は、かつての力を失ったのかもしれない……」


 麗華はそう思いながらも、祖父が生涯をかけて築き上げた蒸気技術に対する思いは消えることがなかった。祖父への尊敬と現実の厳しさがせめぎ合い、蒸気の力を信じる心と、その力が今や時代遅れかもしれないという不安が入り混じっていた。


 技術は人を救う力を持つはずだった。しかし、現実はその信念を無残にも裏切り、彼女の心に深い傷を刻みつけた。蒸気の力が救えるはずだった上海が、まるで彼女の手をすり抜けるように、淡々と沈んでいくのをただ見守るしかなかった。


 祖父の設計図をポケットから取り出して手に取った。紙は古びていて黄ばんでおり、何度も折り返された跡があった。彼女にとって蒸気機関の設計図は、ただの技術書ではなかった。それは祖父との絆であり、技術者としての自分を支えてくれる存在だった。


 陽光が手元を照らし、紙がかすかに輝いた。蒸気の力は確かに都市を救えなかったが、その夢を追い続けた日々に無駄はなかった。彼女はそのことを受け入れようとしていた。


 波が寄せては返し、残骸の隙間をさまよっている。その音が、彼女の心の隙間に染み渡り、わずかな癒しをもたらしていた。街は今、夏の日差しの中で沈んでいたが、その穏やかな中に、まだわずかに未来への希望が宿っているように感じられた。


 やがて、蝉の声がまた遠くで響き始めた。夏の終わりを告げるその音が耳に柔らかく響く。街は再び波に飲まれ、夢もまた、波とともに去りゆく。その波音の中で、彼女は新たな何かを感じ取っていた。それは、技術者としての未来かもしれない。まだ新しい道を探し続けることは出来るだろう。


 夏の光を背にして、麗華は軽やかな一歩を踏み出した。


 風が髪を揺らし、再び蝉の声が彼女を包み込んでいた。

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