#2

 中学の途中から、私は学校へ行かなくなった。もう限界だった。自宅の私の小さな部屋に閉じこもった。

 SNSやオンラインゲームで世界と繋がることができるから、別に学校なんて行かなくたってへいきだと思っていた。けれど、それもはじめだけで、じきにインターネットの世界に浸っていくうちに、現実世界と同じように、他人の悪意や嫌な目に遭うことが重なった。だが、我が城に籠もる私は、学校にいた私とはちがった。気付けば、匿名のSNSで負けず劣らずの攻撃的な言葉を返していた。それも無自覚に。カタカタと他人を呪詛する言葉を打ち込む私の顔が、ふとした瞬間に暗いデスクトップに映った。笑っていた。笑いながら知らない誰かを傷つけようと一日パソコンの前に座っていた。ぞっとした。以来、極力インターネットも遠ざけるようになり、世界はいっそう遠くなった。

 自身の経験から、人間なんて皆こんなものなんだと割り切るには至らなかった。ますます世界が恐ろしく思われた。こんな醜い私であることが申し訳なくて両親を避けるようになった。なのに、母は毎食、部屋の前まで食事を届けてくれたし、父も毎月ドアの隙間からお小遣いを差し入れてくれた。彼らは温かい言葉を掛けてくれたけれど、私は返事さえしなかった。口を開けば暴言を吐いてしまいそうだったから。両親が嫌いなわけじゃあない。むしろ逆で。だからこそ、我が身が不甲斐なかった。一人娘で大事に育ててもらったのに、どうして私は普通のことを普通にすることすらできないのだろう。両親に申し訳ない。けれど、どうすることもできない。怖い。悪いのは、私じゃない。学校が悪いし、世の中が悪いし、親には生んだ責任があるのだ。頼んで生んでもらったわけじゃない。そう帰結させるたびにいっそうむしゃくしゃした。体の、心の、魂の底から叫んで、この世界を崩壊させてやりたいと願った。

 ひきこもって数年間、私の日常のほとんどは読書と映画に消費された。

 最初のうちこそ、空疎な日常に焦燥を感じていたけれど、そのうち慣れた。あれだけ長いと思っていた一日は、寝て起きて映画を観てまた寝ているとあっという間に過ぎていった。鍵アカウントに一日一本映画か本の感想を書くという生産性のない日課だけが、日々の指針だった。

 両親は、定時制高校と通信制高校のパンフレットを部屋の前に置いた。それはその場所に放置されたままで、じきに撤収されたけれど、じつはちゃんと目を通しはしたのだ。けど、通信制高校でも登校日があるということで、とても私には無理だと思った。代わりに、独学で高卒認定を受けようと思った。こっそり参考書を揃えた。根が真面目なだけあり、目標と計画を立てると真摯に取組んだ。自作の時間割通りにYou Tubeの講義動画を視聴して、問題集を解いた。質問を投げれば答えてくれる人がいる。適切な距離を置いたインターネットはさほど怖い場所でもないのかもしれない。同級生達のSNSを覗いて、勝手に傷つくこともなくなった。

 ひきこもって、もう五年経っていた。

 本や映画からも多くを学んだ。怖い。けど、前に進みたい。でももしもまただめだったら? その時はまたこの部屋に戻ればいい。けれど、両親をがっかりさせてしまう。いや、これだけ待ってくれた彼らなのだから、分かってくれるはずだ。ああ、せめて感謝だけでも伝えたい。

「今までありがとう。私は高卒認定を受ける」

 それを伝えると決めるだけで、三日間も布団の中で悶々とした。けれど、決めた。明日、言う。明日は母の誕生日なのだ。

 そうしてドキドキと深更にようやく眠りに就き、昼頃目覚めた。パジャマを脱ぎ、Tシャツとジーンズに着替えて、髪を結んだ。深呼吸して、部屋のドアを開けた。

 何もなかった。

 私の部屋の外に自宅は跡形もなかったし、両親もいないし、街は廃墟と化していた。

 ぼうぜんと立ち尽くす。

 どれだけそうしていたか分からないが、ぼーっとしていただけで何一つ状況は掴めなかった。少なくとも、ここら一帯に生きた人間はいないように思われた。

 それで、ふらふらと一歩を踏み出した。両親の働いているはずのオフィス街まで行くことにした。途中でスニーカーを拾った。私のサイズより少し大きかったけれど、紐をぎゅっと縛って履いた。

 地図は読めないし方向感覚もない私だけれど、向かうべき場所は分かった。建物が崩れて見通しが良くなった彼方に、オフィス街のランドマークが聳え立つのが見えた。それだって、いつ崩れるか分からない。休まず歩いた。

 両親が片道一時間かけて通勤するオフィス街に、三時間歩いて到着した。ふだんの運動不足もあり、足はへとへとだ。夜には筋肉痛になるかもしれない。

 オフィス街にはいくらかのビルが倒れず残っている。瓦礫の間に、コンビニの緑の看板が見えた。開き放しの自動ドアから店内に入る。さっと店内を回って、飲み物と食べ物、懐中電灯とか絆創膏など、必要だと思われるものを手当たり次第レジ横の大きなエコバックに詰め込んだ。少し迷ったけれど、一応レジの上に二千円置いて店を出た。その拍子に入口が崩れ、背筋を冷たい汗が流れた。

 お茶とおにぎりとカヌレを頬張って、ようやく少し落ち着いた。

 とはいえ、依然として状況は分からない。一帯の建物が崩れているところからみると、地震だろうか。全然揺れなど感じなかったけれど。私の寝ている間に? いや、さすがに起きるだろう。いや、しかし。

 仮に大地震だとすれば、どうだろう。ここは海からさほど遠くない土地だから、高台に逃げるのではないか。けれど、この辺りに高台なんてない。そう思いながら、残ったビルを見上げる。すでにあちこちの外壁が崩れているが、その上層階の窓に人影が見えた。

 考えるより先に体が動いていた。

 ビルに入る。エレベーターホールは天井が崩れているし、そもそもこんな状況では使用不可だろう。脇に階段を見つけて、駆け上がる。二階分上がったところで息が切れる。心臓が飛び出しそうだ。けれど、一段飛ばしで上っていく。人影が見えたのは十階くらいだった。七階辺りから、いちいち非常扉を空けてフロアの様子を覗いていく。が、そもそも開かなかったり、一目で崩れていたりする。本当にこのまま上がっていって大丈夫だろうか。そう思いながらも進む。だって、あの影は両親かもしれないのだから。

 果たして、十二階から人の声が聞こえた。フロアに踏み入ると、黒髪の女の子が床に這いつくばっている。

「がんばって!」

 叫んでいる。何をしているのかと近付くと、下層階までの吹き抜けに向かって手を伸ばしている。手摺の崩れた吹き抜けの、彼女が手を伸ばす先には小柄な女の子がぶら下がっている。

「え!」

 私の声に黒髪の彼女が気付く。

「手を貸して!」

 真っ直ぐに向けられた声。私は鞄を投げ捨てて駆け寄る。彼女の隣に同じように這いつくばり、手を伸ばす。黒髪の彼女がぐっと渾身の力を込め、少しだけ小柄な女の子の体が持ち上がる。女の子の伸ばした手が、私の指先に触れる。温かい。離しちゃだめだ。そう思った瞬間、腕が伸びて彼女の手を掴んだ。力いっぱい引いて、反対の手で手首を掴む。少し安定したところで、「せーの」と隣に這う彼女とタイミングを合わせて、一気に引上げる。女の子がフロアに手をついて、そのままパンツのウエストを掴んだり足を抱えたりもみくちゃになりながら、なんとか女の子の体をフロアに上げた。私達は三人川の字になってフロアに寝転んだ。これが、アカネちゃんとミナミちゃんとの出会いだった。

 フロアには他にも建物の下敷きになった子達がいるということで、私達は協力してその救出に当たった。大抵の子は感謝を述べて他の子の救出に協力してくれたけれど、中にはそそくさ一人で逃げていく子もいたし、最悪なのは、皆が救出作業に当たっている間に私の非常食を丸ごと持ち去った奴までいた。

 何度か大きな音がして壁や天井が崩れていく中、最後までそのビルに留まったのは、私とアカネちゃんとミナミちゃんの三人だけだった。目に付いた限り十数人を助けたあと、ようやく私達はビルを降りた。父も母も見つからなかった。

 公園だった場所の東屋で夜を過ごした。夜風が冷たくて、三人で身を寄せ合った。

 アカネちゃんは二つ年上の専門学校生で、決断が早いし何でもずばずばはっきり言うしとても頼りになる。小柄なミナミちゃんは私と同い年で、おっとりしていてずっとにこにこしている、癒し系。助けた人の中には「もっと早く助けろよ」と暴言を吐く人もいたが、それでも人間不信にならずに済んだのは彼女達のおかげだ。半日行動をともにしただけで、私はすっかり二人を信頼していた。たぶん、日常生活だと彼女達も「生きづらい」タイプなのだと思うけれど。

 一息ついた夜の間に、二人からいまの状況のことを色々聞こうと思っていたけれど、疲れ果ててそのままぐっすり眠ってしまった。久々に悪夢を見ずに朝を迎えた。

 翌日も朝から三人で街を、街だった場所を廻った。その間私が分かったのは、これが地震でもなく戦争でもないということだけだった。それ以上のことを聞く暇もないくらい、忙しなく食料を確保しては、時々見つける救難者を助けた。見つけた人は皆、若い女の子ばかりだった。

 そうして昼頃、大きな地鳴りがした。残っていた建物が一気にガラガラと崩れていく。土埃で空が暗くなる。足元が揺れるけれど、地震なのか崩落のせいなのか分からない。

「来た!」

 誰かが言った。アカネちゃんかミナミちゃんだったかもしれないし、他の女の子の声だったかもしれない。けれど、世紀末の光景の中、にわかに空気が浮き立った。

 土埃の中、男の子達がやって来た。「運命の相手」を迎えに。

 そうして、私はアカネちゃんミナミちゃんとばらばらになり、ヨウヘイと西へ向かうことになった。

 これが、この二日間の私の記憶だ。

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