燃ゆる極光

 灰の川辺を行く者がある。

 死に絶えた世界、無彩色の、乾ききった、ゆめとうつつどちらともつかぬ、灰に満たされた川の岸辺をかれは行く。

 男であるのか、女であるのか。

 川上へ、それとも川下へ向かうのか。

 ひと、であるのか。

 いずれ知る人もなく、かれ自身にもわからぬものであり、まず、意味のない事柄であった。

 空は厚い雲が垂れ込めほとんどの光を遮る。薄暗さもまた、日暮れ時とも夜明け前ともどちらでもないのだった。

 脆くがらんどうの骨を踏み砕く音がする。砂塵は絶え間なく舞い上がり、行く手をあいまいに霞ませる。

 かれは一層のこと深く外套の襟を合わせ、先へ先へと歩みを進める。

 行くあても帰るあてもなく、ただ先へ先へと川岸を、灰の旅路を行くのだ。

 ふと、彼は足を止めた。

 ――ごうごうと、遠くの空がうなっている。

 俯き加減に、やはり空の音が低く響くことを確かめると静かに身を屈める。 

 嵐の訪れだ。

 かれが地に伏せるのとほとんど同時だった。

 獰猛なうなり声を上げて、灰の川の対岸から嵐が押し寄せて来る。

 砂と、礫と、砕けた骨と――世界の欠片。

 かれは辛抱強く耳を塞いだ。

 嵐は荒れ狂い、そこら中の時と空とを切り裂き、かき混ぜ、踏み荒らす。

 あの日世界は生きていた。

 あの日人々は、生きていた。

 ありとあらゆる風景のいろ、なにかのだれかの記憶のおと、膨大な、砕け散った無数の情報の群舞。

 死に絶えた脆き世界は、蹂躙によって更にばらばらに砕け散る。

 伏せた身体を地面に押し付け、かれはただ耐えた。

 懐かしい、見知らぬひとの顔。歌う旋律。肌のぬくもり。

 二度と戻るまい、それは失われた幻影だ。

 手を差し伸べるそばから霧散し、どこへとなく流されてゆくものだ。

 共に行くことは許されない。

 かれは、この脚でのみ歩んで行く。

 長い短い時が過ぎたのち、かれはよろめきながら身を起こした。

 嵐は行った。行ってしまった。

 外套の被り物の奥から、そのまなざしが灰の川のみなもにそそがれる。

 かれの瞳は——いつか存在した夜天の、ひかり抱く黒だ——見た。

 ぽつ、ぽつり、炎が上がる。

 目の眩むばかりの虹色の炎。それは残り香のごとき嵐の名残。

 はらはらと砕け落ちた在りし日の思い出たちは、灰色の重力から解放されてそこかしこから、次から次へと曇天へ駆け上って行く。

 無彩の世界にプリズムの尾を引き、極光の粒子を振りまいて、どこまでも高く、閉じた空の果てまでも鮮やかに。

 やがて川岸は、すべてうしなわれた後の灰に戻るだろう。

 やがてそのひとは、再び灰の川岸を歩き始めるだろう。

 たましいの内側に、いくつものオーロラの炎を燃え上がらせながら、行くあても、帰るあてもない。

 ただ先へ先へと、進んで行くのだ。

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