第4話

「ねー清洲さんさあ、ちょっと一緒にトイレ行かない?」


 同じクラスの話したことのない女子に机の脚を蹴られたのは、次の日の二時限の後だった。

 なんだろう、きょとんとしていると腕を強くつかまれる。痛いよ。と抗議の声を出すと、良いから早くしてよと急かされた。別にお手洗いに用事がないのにどうして行かなきゃならないのか、解らずに付いて行くとメグが三組の方に走って行くのが見える。


 何の用なんだろう。女子が連れ立ってお手洗いに行くのなんて密談や相談やコスメ交換の時ぐらいだ。ちなみに私は髪が派手なのですっぴんでいることが多い。運動も好きだしね。じゃあ相談? 密談? 解らなくて覚束ない足取りでてけてけお手洗いに連れ込まれると、そこにいたのは先日私に手紙を出して来た女子だった。

 名前は忘れちゃったけど顔は覚えていたので、あ、と声が出る。彼女とその近くの取り巻きみたいな人達に一斉に睨まれて、やっぱり私はきょとんとしてしまう。何か用なんだろうか。潤とのお付き合いに関してはあの場で完全に振り切ったと思ったけれど。


「あんた達この子の告白、キス見せ付けて断ったって言うじゃない。それってどうなの?」

「どうなの、って言われても、潤は私が好きな人だし私も潤の好きな人だから、手っ取り早いと思って潤が見せたんだと思うけど」

「手っ取り早い!? ちょっと馬鹿にしてるんじゃないの!?」


 怒鳴られてびくっとする。他のお手洗い使用者は目立たないようにこそこそ出て行っていた。生理とかだったら大変だろうに、施設の私物化って良くない気がするなーなんて私は呑気に考える。

 今までにもこういうことは何度かあって、その度に私はその言い分を聞いていたりしたのだけれど、納得の行く答えが出たことはなかった。だって潤のした事だから、私には答えが出せないのだ。と言うと余計激昂されるから言わないけれど、でも押し付ける訳じゃないけれどそれは潤に聞いた方が良い。なんでキスして見せたのか。手っ取り早いから。多分潤も、そう応える。


 それにしてもお手洗いには結構な数の女子が集まってる。五人ぐらいだろうか。友達の多い人なんだなあと、私は呑気に考える。自分の恋心を吐露できる相手がそんなにたくさんいると言うのは凄い事だ。私みたいにメグぐらいしかいないのとは大間違い。だって私はそんな事しなくて良い。許嫁であることは学校中にほぼ知れているのだから、今更潤の事を話す相手なんていなくても良い。

 大体どうなの、で言うなら、そんな潤を諦めろと言外に手紙に書いて寄越した彼女の方だろう。許嫁同士の結束はそう簡単に破れない。親同士の決めた事だからだ。それに私達同士も愛し合っている。どうすればその中に入って行けると思ったのか、こっちが解らないぐらいだ。


「私達が愛し合ってるのにどうして仲に入って行けるって思ったの?」


 率直に尋ねると、彼女は顔を赤らめて、なっと声を漏らす。


「だって、許嫁なんて結局親の決めた事でしょう!? 本気で愛し合ってるわけでもないのにそんなのおかしいって思わないの、あなた達!」

「思わないよ。確かに親に決められたことで、いつも一緒に居るように躾けられていたけれど、私は潤が好きだからそれは苦痛じゃなかったもの。本気で愛し合ってるわけじゃないって言う方が不思議だよ。私達の何を知ってるの? 何も知らないのにどうして言い切れるの? 潤のどこが好きなの? どうして私から身を引かせようとしたの?」


 ぽんぽん質問を飛ばすと、え、え、と彼女は狼狽える。この分だと中学の時の教室キス事件も知らないんだろうなあ、なんて思った。


「あ、あんたなんかどうせ河原君に弄ばれてるのよ!」

「潤は遊びでキスなんかしないし、弄ばれてるなら余計キスなんて見せないと思うけれど」

「う、うるさいうるさいうるさい! とにかくあんた達なんて偽物のおままごとなのよ!」

「そっちが違うって言う証拠は?」

「っ」

「恋に恋する乙女かもしれない、そうじゃない証拠は?」

「ッこの!」


 手を振り上げて私の頬にビンタしようとするその目から、私は目を逸らさなかった。だって嘘はついていないし、質問の答えは一つも貰っていない。私の好きな人。私を好きな人。十七年間の積み重ねを、否定される謂れはない。だから目は逸らさない。叩かれたって痛いだけだ。痛いだけで、無くなる絆なんて、はなっから持ち合わせていない。痛みだけでどうにか出来ると思っている方が、幼稚なぐらいだ。


 今までこう言う事がなかったわけでもない。その度に苛められたり叩かれたり殴られたりはしてきた。でも私が潤を好きだという事実が変わったことはなかった。潤だって嫌がらせされたり冷やかされたりしてきただろう。思春期は男の子の方がそう言うのを嫌がると言うけれど、潤はそう言ったものをしれっと無視して来た。ならばその好きな人である私が逃げる訳にはいかない。


「――答えられなくて暴力に走るって言うのは、ちょっと幼稚じゃないのかしら?」


 たしっと振り上げられた手首をつかむ手。声はメグだった。あ、助けに来てくれたんだ。ちょっとホッとする。私にも友達はいるのだ。メグだけじゃない。普通に話の出来る友達だって、たくさんいる。この五人の結束ほど強いものではないけれど、数の問題でもないだろう。信用できる一人がいればそれで十分だ。そして私には、好きな人がいる。


 くるんっと振り向くと、ドアの所に立って目つきを険しくしている潤がいた。そんなに怒るほどの事じゃない、まだ何もされてないし私は無事だ。編み込みしてもらった髪を揺らして、にこっと笑い掛ける。毒気を抜かれたように、潤ははーっと溜息を吐いた。大丈夫。私は心も身体も傷付けられていない。そんなに生半可な、絆じゃない。この十七年間は。


「……それで? マナの質問に君は何を答えられるつもりなんだ? 俺達の関係は俺達だけの関係じゃない。ラブレター一通で離れられる関係じゃないし、俺は誰の告白も受け付けないつもりでいる。マナを愛しているからだ」

「ッ……何よお、全然入る隙間ないじゃない、なんなのよぉあんた達っ!」

「それを君に問うている。君が自問自答する問題だ、これは。マナ、おいで。メグも」

「ほいよー。マナ、怪我は?」

「メグが助けてくれたから全然大丈夫だよー。今更殴られても痛くも痒くもないしね」

「あんたのその図太い所は流石に尊敬するわ。普通殴られたら恋心なんて一発で壊れてもおかしくないんだから」

「恋心じゃないよ。愛。だから大丈夫なのさあ」

「ったく……ほら、早く教室帰るよ」

「はーい」


 途中まで潤と手を繋いでいく。私達は恋人同士なのだ。愛し愛されているのだ。怖いものなんて何にもない。だけどお手洗い行くのはちょっと怖くなったかな? 鉢合わせしたらとんでもない。暫くはちょっと遠いけど一年のお手洗いに行こう。階段下りたらすぐだ。


 手を離して、また後でね、と私は潤と分かれる。するとクラスの女子が、次々に言葉を掛けてくれた。


「大丈夫? なんか不穏な空気だったけれど」

「脅されたりとかしなかった?」

「髪引っ張られてたりしてない?」


 半ば野次馬根性なのは分かってるけれど、心配してくれる友達たちに私は笑い掛ける。大丈夫だよー。メグが助けてくれたし潤も来てくれたし。


「許嫁の為とは言え女子トイレに乗り込める河原君凄いね……」

「乗り込んでまではいないよー。お手洗いの前で迎えに来てくれたの」

「大して変わんないわよ。本当、あんた達の絆の強さにはこっちがひっくり返るわ。何があればそんなに絶対的な信頼感? とか、手に入れられるの?」

「それは秘密かな。でも生まれて十七年離れたことが無かったら、ちょっとぐらい特別な感情が生まれてもおかしくないし、何より許嫁として育てられてきたのは大きいかなー。でもそれだけじゃないよ。顔も好きだし身体も逞しくなって好きだし」

「身体!? あんた達とうとうその一線を越えたの!?」

「抱き合ってれば判る程度だよー」


 まあ抱き合って寝たら、いつもの制服より薄いパジャマのお陰で筋肉はよく解ったけれど。あれなら私をどーにかこーにかしようとする男子にだって負けないだろう。小さな頃から塾と少林寺拳法やってるから、なまじ人より体力があるのだ、潤は。体育は五を逃したことがない。私はドベだけど。身体動かすのはバドミントンぐらいで限界だよ。


 しかし世の恋人たちは抱き合ってキスとかそんなにしないものなのだろうか。小学校の頃からどこでもキスしてきた私達にはよく解らない感覚だ。抱き合う。お互いの身体の感触を確かめ合って、その変化を知る。私達には結構大切な行為だ。お互いを知り合うためにはそれが一番良い。

 お互いにお互いを好きだと解り合うには、それが一番なのだ。嫌いな人とは出来ない行為だと思う。何とも思ってない人とも出来ない。そう言えば写真、結局誰だったんだろうなあ。ズームを限界まで使ってたみたいだから、距離感が分からない。でもあの日私が呼び出されてたのを知ってるのなんて、潤ぐらいだ。潤が誰かに撮らせた? うーん、それも考えづらいなあ。意味がない、今更私達のキスシーンなんて。実際登校した生徒はスルーしてたみたいだし。


 誰が何のために? 私達の関係を守るためにしてくれたのだとしたら、それは有難い事だ。清洲愛には河原潤がいる。それを分からせるには十分な、物証。

 でも本当に今更だからなあ。応援団長にはちょっと悪いことしちゃったかなって思うけれど、だって私が好きなのは潤だから、それを解ってもらうにはああいう形で見せ付けるのが一番なのだ。一番効く。申し訳ないけれど私は潤の物なので。潤も私の物なので。そう言うわけで、さようならごめんなさいするしかないのだ。


 許嫁だから、って言い続けてきたのは確かに悪手だったのかもなあ。許嫁じゃなくなれば離れて行くだろう、って思った人が少なからずいるって事だ。その言葉に腰掛けて逃げて来たのは私だ。それは悪い事だったのかもしれない。ちゃんと好き同士の恋人関係に、たまたま許嫁と言う名前が付いている。

 いや、それも違うな。許嫁として育てられてきたのには間違いがない。だけどそこに恋人と言うちゃんとした名前が付いているから、引き剥がされない。私達は、愛し合っているのだ。マナの愛は潤君の為の物みたいね、と昔お母さんに言われたことがある。違うの? と聞いたら、お父さんとお母さんにも分けて欲しいぐらいよ、と笑われた。


 私の愛は潤の物。潤の愛も私の物? 教室で同じメニューのお弁当を開けると、周りがとうとう弁当まで作り始めたか、と言う目で見て来るのが分かった。悪くないでしょ、恋人同士なんだから、恋人のごはんはいつかお嫁さんになる私が作っても。それに潤のごはんは私が作ったけれど、私のごはんはお手本代わりに潤のお母さんが作ってくれたものだ。いつかは一人で二つ作れる器量が欲しい。

 炊き込みご飯のおにぎりにレンコンの煮物、味玉なんかで全体的に茶色いけれど、それは私がアレンジして行けば良いだろう。トマトや玉子でも十分色取りは取れる。茹でたブロッコリーなんかも良いな。カリフラワーだって使える。と、それじゃうちのごはんになっちゃうから意味が無いか。あくまで潤のごはんなんだから、潤の家の味をしっかり覚え込まないと。


 だけど昔から食べ慣れてる所為か、どっちがうちでどっちが潤のうちだか分からなくなってるのも事実だ。舌を鍛えなければ。いざとなったら料理教室なんかにも通って全く新しい味付けを覚えなければならないだろう。それはそれで楽しみかも知れない。ハンバーグとか、グラタンとか、デザートとか、色々覚えるのには吝かでないのが私である。

 楽しみだなあとにこにこしながら食べていると、ん、と潤がおにぎりを食べて頷く。


「いつも俵型だからかな三角のは新鮮だし、結構食いやすい」

「ほんと?」

「うん。マナが作ってくれたと思うと、余計に」

「えへへー」

「見せ付けてくれてんじゃないわよまったく。あんなことがあったってもう学年中の噂になってるのに、何の違和感もなく彼女の教室に来れる度胸にはいっそ惚れ惚れするわ」

「駄目だよ惚れたら。潤は私のなんだから」

「だったらそのレンコンを寄越しなさい、美味しそうだ」

「美味しいよーだって潤のお母さんの味だもん。味が滲み滲みしててすっごく美味しい。私もこれで育って来たんだー。運動会とかおかず交換したりしてね」

「ほんっとうにラブラブでいっそ鬱陶しいわね!」

「そこまでメグに言われるのは初めてかも。今更じゃない?」

「えーえー今更ですとも……」


 はあっと息を吐いて、メグはひょいっと私のお弁当箱からレンコンを取った。

 ちなみにお弁当箱はお揃いである。いつかはと潤のお母さんが買っておいてくれていたものだ。昨日の私のお弁当箱は朝に家に置いて来た。一日経ったらばい菌が増殖しちゃうでしょ、と軽く怒られたけれど、まあ行ってらっしゃい、と送り出して貰った。


 この関係は恋人同士よりちょっとだけ近い。

 それが嬉しくて、私も味玉にぷすっと箸を刺した。

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