応急処置をするために(1)
ーこの龍は、父上だ
目の前の現実を、受け入れなければいけない。
白竜の鱗は無常にも闇を照らす。それにより、徐々にシグマの見えていなかった箇所が、露わになっていく。
切り裂かれた肌に抜け落ちた鱗。輝く日輪のような紅の瞳は、今は見る影もない。目玉は片方潰され、血の涙のように鮮血が流れ落ちている。だが、それ以上に酷いのは四肢だ。吸血ヒルが、わらわらと群がり、我よ我よと一心不乱に血を吸い上げている。…両手足ともに欠損し、血がとめどなく溢れているからだ。
このままでは、父が死んでしまう
そう、思った瞬間、ロルフは頭から爪先までの感覚がなくなる。だが、心臓だけはこれでもかというほど脈打ち、ロルフの心を蝕んでいった。
しかし、己の視界で泣き崩れている母を見て、ロルフは血が滲み出るほど拳を握り込み、己を鼓舞する。
まず頭に思い浮かんだのは、城の衛生隊を此処に連れて来ることだった。衛生隊は回復術師で形成されている部隊だ。己の記憶が正しければ、各中隊に1人配属されていたはず。寄せ集めたら、それなりの数になるだろう。
希望の光が見えてきた。早く城に戻り、衛生兵たちを此処へ呼ぼうと、ロルフは狼の姿となった。
しかし、ロルフは立ち止まる。
……ある禁忌が、頭に遮ったからだ。
妖精の羽を捥いではいけない
人魚は丘を夢見てはいけない
天使は呪いをかけてはいけない
悪魔は祝福を与えてはいけない
妖狼は満月の夜に出歩いてはいけない
龍について、究明することは許されない
種族によって犯してはいけない、踏み込んではいけない禁忌がある。それは遥か昔、戦争が終結した際に作られた世界の掟だった。そして、この掟を皆が守り続けたことにより、今の平和は保たれているのだと、ロルフは母に教わった。
だからこそ、回復術師を呼んで正解なのか…ロルフには分からなかった。
父と母の種族について、何も知らないのだから
震える手を抑えながら、ロルフはトウランに近寄り片膝をつく。今にも消えてしまいそうな母に掛ける言葉は、未だ見つからない。だが、そんな悠長なことも言ってられなかった。
「母上、俺に命じて下さい」
…トウランは何も話さない。ただ、焦点の合わない瞳からは涙が溢れ、吸血ヒルたちが膝に落ちてくるのも構わず、シグマから離れようとしない。
「母上!!」
ロルフは必死に呼びかける。
だが、何度呼び掛けてもトウランは動こうとしない。ロルフは焦りと苛立ちのあまり、トウランの両肩を軋むほど掴み、焦点の合わない瞳を無理矢理合わせた。
「このままだと、父上が死んでしまいます…!」
悲痛な叫びが、森の中で響き渡る。樹々の上に身を潜めていた小鳥たちは羽ばたき、再び沈黙が、2人を襲う。
しかし、ロルフの、今にも泣き出してしまいそうな顔を見た瞬間、トウランの瞳は徐々に光を取り戻した。紅の瞳は涙で濡れながらも、真っ直ぐとロルフを見て命令する。
「…出血を、止めねばならぬ。血とともに、魔力が抜け落ちておる」
「………回復術師を呼べばいいですか?」
「回復術師は、ならぬ。……ー仕立て屋を呼べ」
……仕立て屋?
予想外のことを命じられ、ロルフは思わず硬直する。
己の知っている仕立て屋とは衣服を裁縫し,または縫い直し,継ぎはぎなどを修理する仕事のこと。
何故、仕立て屋を呼ぶんだ?混乱したまま、ロルフはトウランとシグマを交互に見る。
だが、シグマの欠損した右腕から吸血ヒルが無数に落ち、その反動で流血している姿を見て、ロルフはギャビンの言葉を思い出した。
『お前は脳筋なんだから変に考えるな』
そうだ、俺はギャビンのように頭の回転は早くない。全く意味が分からないが、仕立て屋を呼ぼう。そう決意したロルフが城へ走り出そうと、トウランたちに背を向ける。
すると、踏み潰してしまいそうなほど、とてもか弱そうな、震えている小鳥と目が合った。
ーーー
住民たちの城への避難は、一通り終わりを迎えた。
パニックになっていた住民たちも、今は楽しそうに魔導士から蝋燭を受け取り、それぞれの部屋に火を灯していた。
ジャーマンアイリスの民たちは、戦争を知らない者が多い。この国の種族の約6割は人間、残りの4割は何らかの種族の混血種、ようは亜人である。亜人は人よりも寿命は長いが、それでも長命種は極一部だ。戦争が終結したのはおよそ1000年前であり、人間は全て世代交代を終えている。だからこそ、この異常事態でパニックになれど、国が襲撃されているかもしれない、などとは決して思わなかったのが、不幸中の幸いだった。
それが、本当に良いことなのかどうかは、ギャビンには分からなかったが…
だが、パニック時の軽傷者はいたが、最悪の事態は免れたと、ギャビンは胸を撫で下ろす。すると、蝋燭を運び終えたエラが「おつかれー!」と満面の笑みでギャビンの二の腕を掴む。可愛い妖精の悪戯にギャビンは破顔しエラを強く抱きしめながら、居間のステンドガラスの横でくるくると飛び回った。
「エラも、よく頑張ったじゃないか。褒めてあげよう」
「わあい!ありがたきしあわせー!」
「ふふ、誰にそんな言葉を教えてもらったんだい?」とギャビンが笑いながら尋ねると、エラは無邪気に「とう様ー!」と言いながら飛び回る。
ギャビンは微妙な気分になった。
だが、ギャビンは分かっていた。
エラが己と戯れるために、此処に来たわけではない事を。
エラの頭をくしゃくしゃに撫で、欲しかった言葉を耳元で囁く。
「片割れを探したいんだろう?行っておいでよ」
「っ!……いいの?」
「勿論さ、私も共に探してあげたいが…」
片割れであるエリーと、あの混乱で逸れてしまったのだろう。エラが蝋燭を運びながら、キョロキョロと辺りを見回していたことを、ギャビンは知っていた。
「大丈夫!お外にいって、エリーをさがしてくるー!」
「城の外はまだ暗闇だ。気をつけるんだよ」
ギャビンの忠告を前に、エラは飛び立った。「なれてるから大丈夫ー!」と叫ぶ声が、居間に木霊した。
ギャビンはやれやれと首をすくめ、白銀の翼を羽ばたかせた。そして、これからどう行動しようかと模索していると、かわいい小鳥が、自分に何かを伝えようとしているのをキャッチした。
ギャビンの眼は、小鳥と契約を交わしている。契約内容は至ってシンプルであり、お互いの視界をいつでも共有することが出来る、というものだった。
これが意外と便利であり、ギャビンは長年、契約を更新し続けている。本当に便利なのだ。今回のように、危険を知らせてくれることもあれば、美しい女性が街中で佇んでいる時も知らせてくれる。ギャビンにとっては最高の契約だった。
さて、あの黒龍の動向についてか、それとも美女が助けを求めているのか。勿論、後者だと嬉しいが…と思いながら、ギャビンは小鳥と視界を共有する。初めはモヤがかかったようにぼんやりとしか見えなかった視界が、徐々に鮮明になっていく。
現れたのは、黒龍でも美女でもなかった。
それは、視界いっぱいに必死で何かを叫んでいる長男、ロルフの映像だった。
「……何やってるんだ?あいつ」
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