第9話

 夕方、帰宅してから妻に矢継ぎ早に語られたことを、まとめておく。


 彼女は、瀧崎菖蒲という無名の天才ピアニスト。「天才なのに無名なのか」と尋ねると、妻は興奮を声に乗せて語った。


 瀧崎菖蒲には、受賞歴がない。彼女は音楽大学を中退してから日本全国を、その数年後には海外を舞台に武者修行へと身を投じた。各地を転々としていた当時から名高いコンクールに推薦されるほどの実力がありながら、これまで十年以上も形に残る経歴を持っていない。


 そのことに対し、海外の著名なピアニストはこんな風に称していた。


『荘厳なコンサートホールの彼女を紙の上で採点すると、アヤメはどんな大会でも最下位になる。しかし、ストリートピアノで演奏する彼女には、ショパンもスタンディングオベーションを贈るだろう』


 彼女はバーやパブで一夜限りのショーを披露しながら、世界中を回っているのだと言う。鼻まで届く前髪と、男物のミリタリージャケットがトレードマークの女性ピアニスト。メディア露出は皆無、CDすら出していない。ピアノ通の中で『アヤメ・タキサキ』の存在は一つの都市伝説のように囁かれている。


 YouTubeを漁ると、粗い画質のアヤメをいくつか見つけた。彼女がストリートピアノで演奏する場面に、世界中の人たちが居合わせている。少ない日本語のコメントに、こんな言葉があった。


『これは上手い下手とかじゃない気がする。そんなことにこだわっていた自分を殺されたくらいの衝撃がある』


 それを見て、俺は昼間の彼女の演奏風景を脳内でリピートする。


 彼女のピアノは、その場にいた全員を確かに殺してみせた。圧倒したとか魅了したとか、そんな言い方じゃ収まらない。時間を忘れて突っ立っていた俺たちは、意識や感情をアヤメに支配されていた。


 あのピアノを邪魔したい人間なんていなかった。しかし、思わぬ刺客が再び現れた。


 換気のために開けられた窓から迷い込んだ蝶が、演奏中の彼女の前に躍り出た。十数年前の音楽室にも見た、キアゲハだった。


 実際、その瞬間にこれまで書き連ねた彼女との思い出が俺の頭に蘇ってきた。思わず声を上げてしまいそうだった俺を制するように、彼女は左手を上げる。彼女とピアノの間に割り込んだ一羽の蝶に鉄槌を下すため、手を振り下ろす。


 そんな苛烈な少女は、もういなかった。


 彼女は右手だけで演奏を続ける。持ち上げた左手は人差し指だけを伸ばし、キアゲハの前で構える。そのまま蝶は翅を小刻みに動かして、彼女の指にとまった。


 彼女は羽ばたき疲れたキアゲハを休ませて、それでもピアノを弾いていた。ドレスのデザインのせいでむき出しになった背中は、もうあの頃のアヤメじゃない。俺は、ぷっと吹き出した。


 あぁ、よかった。


 アヤメは、もう何も……自分も、殺めることはないんだ。


 演奏を終えて、彼女は割れんばかりの拍手に応えることなくジャケットを拾い上げると、まっすぐ俺に向かって歩いてきた。白状すると胸が高鳴ったが、彼女の目当ては俺ではなく、俺のスーツの裾を掴んでいる娘だった。


「譲ってくれてありがとう」


 彼女は、娘に手を差し出した。


「あなたのピアノは、私には弾けないものだった。あなたは他にいない天才だから、私ももっと練習しなきゃ、置いていかれると思う」


 彼女の言葉は激励というより、ライバルへの賛辞に近い。まだ幼稚園児の娘に、彼女は対等な姿勢を貫いている。


「ほら。お姉さんに、きちんと挨拶しないとダメだろ」


 俺が頭を撫でると、ぽぅっと顔を赤くしたまま、彼女の手を両手で握った。


「私は、瀧崎菖蒲。お互い、頑張りましょう」


「……はい」


 娘が答えると、彼女は満足そうに頷いた。


 立ち上がった彼女はミリタリージャケットを肩に引っ掛けて、出口に歩いていく。俺の横を過ぎ去る時、声をこぼした。


「この子を昔の私みたいにしたら……ぶんなぐる」


「えっ?」


 振り返ると、やっと彼女と目が合った。首だけで振り向く彼女は前髪を掻き上げて、俺をじっと見ていた。


「返事は?」


「あ、あぁ」


「やくそく、だから」


「……任せろ。あんたよりすげぇピアニストになっても、恨むなよ」


 最後にふざけて言うと、彼女は笑った。


 あの無邪気な笑顔だけ、変わっていなかった。

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あやめるアヤメにあやかって 河端夕タ @KawabatayutA

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