第8話

 これが、もう十五年は前の話だった。


 じきに学生だった年月より社会人になってからの年月が逆転するようになる年齢で、いつまでも高校時代のことなんて覚えていられなかった。そもそもあの天才少女は学年が一つ上だったから、彼女が卒業してから会う機会もなくなった。


 ここまでの話は、妻にだってしていない。思えば、あの奇天烈な少女が俺の初恋相手だったのだ、恥ずかしくって言えるわけもない。


 ただ、俺は今日の間にこのことを書き切っておかないといけないと思う。


 午前から立川のコンサートホールで、娘のピアノの発表会へと出向いた。俺たち夫婦は息子にはサッカーを、娘にはピアノを習わせる、と結婚前から決めていた。


 妻は「息子が生まれてもピアノは習わせるつもりだったけど」「男女で区別なんて、今時やめたら?」としたり顔で言っていたが、思惑通りに娘は歩くより先にピアノのおもちゃで遊んでいた。


 親の贔屓目はもちろんあるが、来春小学校へ入学する娘は同年代の子に比べるとピアノの腕前が抜きんでていた。妻の英才教育の賜物である。


 コンサートホールで演奏することに相成ったのだが、主役の娘は、起きてからホールに到着するまで延々とぐずっていた。


 何百人と動員するホールで一人ピアノの前に座らされることは、まだ彼女にとっては得体の知れない恐怖なのだろう。妻はあの手この手で娘を宥めるが、本人はとうとう俺の足にしがみついて泣き出してしまった。


 妻は、この日のために新調したドレスを崩さないように娘を引っ張るが、そんな遠慮がちな力で俺から離せる訳も無い。肩で息を吐く妻が、俺をキッと睨み上げる。あなたも説得しなさい、と、目だけで雄弁に語っていた。


 妻の視線から逃れて、あたりを見渡す。ホールの二階席に上がる階段の踊り場で、目が止まった。


「よし。あそこに行こう」


 ひょいっと娘を抱き上げて、俺は目当ての場所に彼女を抱えていった。


 その踊り場には、ピアノがあった。東京都庁や渋谷マークシティにあるような、一般に開放されているピアノの前に、嫌がる娘を座らせる。


 娘は鍵盤を拒絶するように椅子の上で身をよじった。それでも俺は娘の肩に手を置いて、そのまま腕を持ち上げる。まだ俺の手の平の部分にすっぽり収まるほどの小さな手を、一緒にピアノにおいてやる。


「今は、好きな音を出していい。これは練習じゃなくって、遊びだ。おまえとピアノだけで、好きなように遊んでいい」


 嗚咽を整えていた娘は、目を丸くして俺に振り返る。セット前の髪をぐしゃっと撫でて、前髪で目元を隠してやった。


「これで、手元だけ見えるだろ? パパもママも何も言わないから、好きなようにピアノを弾いていい。自分勝手でわがままなピアノを、聴かせてくれ」


 最後に背中を押してやると、娘は涙を拭ってから、鍵盤に手を置いた。探り探り、かき分けるような手つきで音を弾く。外食をした時にいつまでもメニューを決められない優柔不断な娘の姿を、遠慮がちで控えめなメロディに思い出した。


 周囲の人はピアノの音につられて、娘を眺めている。拙い演奏は微笑ましいようで、にこにこと見物しては歩き去っていく。


「予定調和で、つまんないピアノ」


 背後から、そんな声がした。演奏に集中している娘に届かない音量で、しかし俺にはしっかりと聞こえた。「偉そうに」と口の中で罵倒して、声の正体を見つけようと首を回す。


 見つけたその人物と、目は合わなかった。長い前髪が、彼女の目元も隠していたから。


 女性が一人、俺のすぐ横を通り過ぎた。彼女は艶やかなインディゴのドレスを着こなしながら、モスグリーンのくたびれたミリタリージャケットを腕に通さず羽織っている。ミスマッチなファッションに誰もが彼女を二度見しているのだが、当の本人はピアノだけしか見ていなかった。


 彼女は娘の背後に立って、肩に手を置いた。娘は飛び跳ねるように驚き、演奏を止めてしまう。


「続けて」


 その声はとても柔らかい。ピアノの前では間違うことを恐れてびくびくしていたはずの娘が手を止めなかったのが、確かな証明だった。


「いらない力が入っている。指も、手のひらも、かっちり固めるだけ。鍵盤は、肩で叩く」


「う、ん」


「音が狭い。あなたとピアノの間に他の誰かがいる? もっと広く、自分の腕が届く場所まで、音を散らかしていいんだよ」


「ちらかす……」


 言葉の響きに娘は年相応に高揚したらしく、そこからの演奏は明らかに変わった。あちこちに飛ぶ音は無秩序で身勝手だが、それだけ自由だった。


「すぐにできるの、最高だね。あなたは私と違って天才なんだ」


「ん、ん……」


「デリケートな分、透明感がある。あなたの硝子細工みたいなピアノ、好き」


 照れる娘から手を離して、彼女は隣に腰掛ける。ピアノに向かって半身のまま、彼女は右手で鍵盤を弾く。娘のか細い旋律を支える、副え木のような協和音だった。


 ふと周りに目をやると、ホール中の人たちが二人の連弾に釘付けになっていた。発表会に来た家族連れも、併設するカフェに座るカップルも、ピアノの音に耳を傾けている。


 娘のメロディは既にバリエーションがなくなってきたが、デュエットを組む女性が自分の音を変則的に動かすおかげで、同じ流れの音もまるで違う曲かのようにデコレーションされている。


 解放された窓から音が広がり、ホールの外にいた人までピアノの周りに集まりだした頃、娘は中途半端に指を止めた。女性は、右手を止めない。


「ねぇ」


 娘は首を縮こませて、女性に声をかける。


「演奏中だよ」


 そっけない言葉に、しかし娘が怖気付くことはなかった。


「でも、私、してほしい」


「なにを」


「お姉さんに、ピアノ、弾いてほしい」


「……いいの?」


 女性は尋ねた。見た目に釣り合わない幼い一言に、娘は頷いた。


「だって、お姉さん、すごく弾きたそうだもん」


 でしょ? と、娘は首を傾げる。それに応える女性に、遠慮や見栄はまるでなかった。


「うんっ」


 食い気味に言うと、娘は「聴かせて」と言い残して、椅子からぴょんと降りる。


 同時に、女性はミリタリージャケットを肩から落とした。

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