第7話

 ステージの上に、ピアノと彼女がいる。アヤメという天才少女が、その時鍵盤の前に座っていた。


 学園祭の題目はクラス合唱で締めくくられる。変える理由が見つからない、退屈な伝統だった。俺のクラスは既に終わっていたから、目当ての時まで歌を聞き流していた。


 とうとう隣のクラスメイトが舟を漕ぎ出した時、楽譜を脇に抱えた彼女がステージに姿を現した。椅子の背もたれから体を離す。


 彼女は鼻まで隠していた長い前髪を左耳に引っ掛けるように流し、ヘアピンで留めていた。照りつけるライトの下で露わになった彼女の目元を、凝視する。涙袋の下にぽろぽろとそばかすがあったことが印象的で、過去のアヤメを鮮明に思い出せた。


 学生服とセーラー服がステージに並ぶ。彼らは決まった間隔を空けて、決められた姿勢になって歌う準備をする。規則正しく立つ彼らは、あろうことか全員で手を繋ぎ始めた。そういう演出らしいが、俺にはその姿がのたうつミミズに見えた。彼女が歌う側にいなくて、良かった。


 始まった合唱は、今まで聴いた中で最も整頓されていた。楽譜という道筋から一つのズレもなく進んでいくから、聴いている分には間違いなく美しかった。男声の太い低音と女声の煌びやかな高音が交わり、支えるための伴奏は彼らの声を活かすため寸分違わず演奏を進めていく。


 完成度の高さに注目しだす生徒たちに紛れて、俺はギプス固定をしている右腕を掴んで、震えていた。


「なんだよ、これ」


 俺は彼女しか見ていなかった。しかし、クラス合唱の音源に徹する雁字搦めな彼女は見ていられなかった。


「違うだろ、おまえは。こんなの、おまえじゃないだろ。アヤメ」


 学校中の生徒たちは合唱に没頭している。俺の口からこぼれる吐露なんて、聞いちゃいない。


 あの時、はしゃいでくれただろ。


 前髪で遮ったあんたの世界が、自分とピアノだけになったって、喜んでくれただろ。


 先生に褒められるために弾くのかよ。


 クラスメイトへの責任感で弾くのかよ。


「誰かのためって言い訳して、それでおまえは……おまえを押し殺すのかよ?」


 殺す。口をついたその言葉に、俺は彼女との過去へ立ち返る。


 彼女は言っていた。何かを殺すことについて「二回目から何も感じなくなった」と。


 だったら、アヤメが初めて殺めたのは、何−−−−いや、誰だ?


 蟻。チューリップ。キアゲハ。それらは確かに彼女が殺して、無機質なモノに成り果てた。


 そして、いまピアノを前にした彼女も、ヘアピンのせいで血の通っていない目を晒している。


「アヤメ。おまえが初めて殺したのは、おまえだったんだ」


 蟻を潰していた時、既にアヤメは「何か」を殺すことに手馴れていた。我欲、情熱、希望……まだ幼かった彼女が持っていて当然のエゴを、彼女は自分で殺していた。


 それは、天才少女として売り出したかったテレビ番組のためか、時間をかけてレッスンをしてくれる厳しい先生のためか、それ以外の何かのためか、俺なんかにわからない。


 でも、アヤメは自分じゃない誰かのために、自分を殺してしまえる。突飛な感情も無類の才能も他人のために投げ打つことができるのが、この人なんだ。


 このまま誰かのために彼女は彼女を浪費して、使い潰されて、埋もれていく。それを選んでしまうのがアヤメという人間で、そのあり方は「誰か」と「何か」にとっては美談で。


 俺にとってはクソつまんねぇ末路だった。


 気づくと、合唱は終止符の目の前まで来ている。歌唱パートは既に終わっており、アヤメが奏でる伴奏の数小節を残していた。


 そのおかげだろう。俺の罵倒は、ステージの上のアヤメにはっきりと届いた。


「アヤメ! そんなもんじゃねぇだろっ!」


 会場中の全員が目を剥いて俺を見ていた。もちろん、アヤメだって見ている。俺と目が合っているくせに鍵盤を弾く指が止まらないのが、さすがの彼女だった。


「おまえ、天才なんだろ! ピアノを弾いているおまえは、無敵だろ! 世界はおまえとピアノだけでいいんだ。おまえだけは、それでいいんだよ! 天才は、誰にも何にも縛られずに、へらへら笑ってみせろって!」


 もうすぐ、彼女のピアノが終わってしまう。早くしないと、アヤメは自分を殺したままステージを降りてしまう。そんなこと、俺はどうしても許せなかった。


 いつかに、初めて会ったアヤメが無邪気に笑ってくれた。あんな笑顔がこの世からなくなってしまうことに、俺は耐えられなかった。


 彼女を動かすのに、言葉だけじゃ足りない。だから俺は、右腕のギプスをむしるように外した。まだ骨が繋がっていないから、無茶をしないように、下手に動かすと悪化する、チームに復帰するのがもっと遅くなる……。


 知ったことか。何ヶ月も世話になった医者と自分を待ってくれるチームメイトの言葉を全て無視して、右腕を振り回し、俺はアヤメを指差した。


「ほら! こんなふうにぶっ壊せ! ここにいる全員! アヤメ、おまえのピアノで殺してみせろ!」


 その瞬間、会場の中で俺から視線を外したのはアヤメだけだった。


 全員が俺を睨む中、彼女だけは目の前のピアノに向かい合う。前髪を留めていたピンを乱暴に投げ捨てて、楽譜を床へぶちまけた。俺の叫び声から、アヤメのソロが始まった。


 そのピアノは獰猛で、鮮烈だった。一つ一つの音を出すために、アヤメは全身の筋肉で鍵盤を潰すように弾いている。立ち上がり、肩幅に開いた脚を沈ませてリズムをとっていた。


 聞き覚えのあるメロディーは一つもない。全てが即興で、一秒前の旋律に浸る暇もなかった。会場中の誰もが、アヤメが見せる一秒後の音に集中している。


 俺たちはアヤメのコンサートに没頭していた。彼女の独壇場は合唱曲よりはるかに長い時間だったらしいが、そんな風に感じた奴は一人もいなかったはずだ。あっという間に通り過ぎたピアノの音色は、確かに聴く人の心を奪っていった。


「……は、ぁ。はぁ、はぁ……」


 演奏が終わった時、アヤメの荒い息遣いが聞こえた。首をぷるっと振って、前髪から汗を飛ばす。その後は呆然と、ただ天井を見上げていた。


 拍手は至る所から始まった。最初は俺だったが、その後は合唱の審査員席からも、ステージ上の彼女のクラスメイトからもアヤメを讃える音が鳴り響く。やがてコンサートホールに拍手の音が反響して、声も届かない音量になった。


「やったな、アヤメ」


 俺は言った。届かなくても、言わずにはいられなかった。


 誰かのためって、何かのためって、そんなことばっかり考えるおまえじゃ、ダメなんだよ。


 自分のために思いきりピアノを弾いて、自分勝手でわがままなおまえだから、誰かを動かすんだよ。


 なぁ、アヤメ。


「自分を殺すなんて、もうやめろ。自分だけは、好きになってやれよ」


 万雷の拍手はしばらく鳴り止まない。みんながステージのアヤメを見ていた。


 アヤメは笑う。長い前髪から目を覗かせて、無邪気にくしゃくしゃ笑っている。


 いつかに俺が一目惚れした時のままの笑顔で、アヤメはピアノの前に立っていた。

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