第6話

『TVで大大大人気! 天才ピアノ少女アヤメちゃんが来る!!』


 母さんが持ってきたチラシを、ぐしゃぐしゃに丸めてから蹴っ飛ばしてやった。当然、母さんは角を生やして怒った。


「文句言わないで、さっさと着替えてお出かけの準備! まだ一人で留守番なんてできないんだから!」


 母さんの大声と一緒に、外で雷が落ちた。今日はサッカークラブの試合があったのに、雨のせいで中止になった。ふざけんな、天気のばかやろう。


 おかげで母さんに引っ張られて、わざわざ嫌いな奴に合わないといけないんだ。


 火曜日夜八時からの音楽番組、その1コーナーに母さんはハマっている。ピアノ自慢の芸人やアイドルと、天才ピアノ少女が演奏の点数を競う対決企画。


 毎週大人たちの挑戦を受ける少女は、俺の一つ年上。名前は「アヤメ」。大人を見下す態度と、これまで全ての挑戦者を蹴散らしたバツグンのピアノが、母さんたちには楽しいみたいだった。


「あなたもこんな特技があればよかったのにねぇ」


 俺は火曜日に決まってそう言われるから、アヤメが嫌いだった。


 嫌おうと思えば、イヤなところなんて無限に出てくる。口調が偉そう、嫌い。ドレスが似合っていない、嫌い。ちやほやされていい気になっている、嫌い。天才なんかは、大嫌い。


 近くの市民会館で公開収録、応募してみたら当たった、とか母さんは言って、馬みたいに鼻息をあらくしていた。母さんはそのいけ好かない天才少女に会うため、どかどかうるさいほど雨が降っているのに車を出しているんだ。


「あんな奴、見たくねぇよ」


 助手席のガラスに落書きしながら、車の音にまぎれこませて独り言を言った。ちょうど信号待ちで止まったせいで、母さんに聞こえてしまった。


「こんな機会がないと、テレビに出られる人なんて見られないんだから。どうせなら、アヤメちゃんみたいな天才を間近で見てみなさい。きっとスゴイ子なんだから」


「しらねぇ、そんなの」


 俺だって、リフティングは百回できる。給食を食べ終わるのはクラスで一番早い。それだけじゃ、天才なんて呼べないのかよ。天才がえらくって、天才じゃない俺がだめなのかよ。


 なんて、うまく言えるわけもなかった。しわくちゃになったチラシを広げると、アヤメの顔がブサイクになっていた。それだけが笑えて、あとは全部にムカついた。


 コンサートホールはだだっ広くて、テレビで大きく映っていた芸能人があんまりにちっぽけだった。俺は一気につまらなくなって、撮影が止まると同時に席を立った。母さんは配られたパンフレットを読んでいるから、俺のことなんてどうだっていいのだろう。だったら俺だってこんな大人たちのバカさわぎはどうでもいい。


 市民会館を探検する方が、ずっとおもしろい。自分が行き先を決めていいし、みんなはどうせ俺なんて見ていないから、好き放題やりたかった。


 シートベルトと同じ紐をくぐって、おまわりさんみたいな服のおじさんたちに見つからないように走り回って、部屋がずらっとならんだ廊下にたどり着いた。学校より床はふかふかで、いい匂いがした。ここを走ればどんなに気持ちがいいのか、膝がウズウズした。


 いざ駆け出そうとしたとき、すぐ近くのドアの向こうから怒鳴り声がした。


 壁のせいでちゃんと聞き取れないけれど、女の人のキンキンする声だった。クラスメイトが怒られているのはおもしろいはずなのに、これは……聞いているだけで首がちぢこまって、気分が悪くなる。


 動けないでいる俺のすぐ横で、ドアが壊されそうな勢いで開いた。出てきたのはヒラヒラの服を着た女の人。そして、ドアの隙間にはお団子髪の小さな女の子が膝を抱えて泣いていた。


 閉まるドアの隙間に滑り込んで、俺はその部屋に入っていた。


「泣き虫」


 俺は言って、その女の子のピカピカの靴をコツンと蹴った。そいつが腕の中にあった顔をゆっくり持ち上げると、涙と鼻水をだらだら流した顔のまま、言った。


「泣いてないっ」


「泣いてんだろ。鼻水、きたねぇ」


「私は、泣いてないのっ。目と鼻が、勝手に泣いてるのっ」


 乱暴に涙と鼻水をふいた顔は、俺が車の中でくしゃくしゃにしたのとそっくりだった。


「……アヤメ」


「え?」


 名前を呼ばれて、そいつは首をかしげた。真っ赤な目で俺を見上げる小さな女の子は、女王のように大人を見下していた天才ピアノ少女だった。


 小さくなった彼女は、一つ年上どころか小学生にも見えない。きれいなのはドレスだけで、他は全部ボロボロなアヤメをからかうこともできなかった。


「服、汚れんじゃん。やめろよ、ふくの」


「汚すの」


「はぁ? なんで?」


「衣装がなければ、テレビ、出なくって良くなる、かもだから」


 しゃくりあげながら、アヤメは指をかんでいた。爪だけではなく肉までまきこんでいるから、みているこっちが痛い。


「指をケガしたら、出なくていいかも。このままあなたにいじめられたままなら、出なくっていいかも」


「いじめてない」


「じゃあいじめて。私を助けるために、いじめてよ」


 座ったまま俺をにらみあげて、アヤメはそんなことを言っていた。一歩下がった俺に「よわむし」とだけ言って、また指をかみはじめた。


「……おまえ、ピアノ、好きなんだろ?」


 俺はわからなかった。こいつは「ピアニスト」で、サッカー選手みたいなやつだろう?


 スタジアムでボールを追いかける選手たちは、みんな全力だ。まちがいない。だったら、アヤメだってそうだって思っていた。好きなことじゃないと、人前でできないだろうし。


 嫌いなものを、あんな楽しそうにできるわけない。


「ピアノ……好き。あと、全部嫌い」


「ぜんぶ?」


「テレビカメラは、私を見張っているから嫌い。芸人さんは、私を使ってバカなことするから嫌い。女優さんは、私の指をべたべた触るから嫌い。先生は、私のこと嫌いだから嫌い。センスがないから、才能がないから、本番の前に泣きべそかくから……私は、私、嫌い」


 センスがない、才能がない。壁越しに聞こえてきたトゲをさすような声は、確かにそう言っていた。


「おまえ、何言ってんだ。天才のくせに。みんなが、おまえをすげぇって言っているくせに」


「うるさい。対決とか、点数とか、全部じゃま。私は、ピアノを弾いているだけでいいの。それだけのことを、誰も許してくれない」


 アヤメがまた乱暴に人差し指を噛む。爪と指の間からピンク色の肉がむき出しになって、やがてじわりと血がにじむ。


「さわがしいのいや。おこられるのいや。どうしてみんな、私にピアノだけやらしてくれないの?」


 その言葉とアヤメの目が、俺にずしっとのしかかる。お腹の底に残る感じが消えなくって、俺は目の前の弱っちい女の子が怖かった。


 こちらから目を見えないようにしたかった。––––いまにして思えば、酷く身勝手なスタイリングだ。


「……なに、すんだよ。ばか」


 俺は、アヤメの髪をほどいていた。頭のてっぺんで団子にした髪をぐちゃっと乱して、両手で前髪をアイロンみたく伸ばし、アヤメの両目に壁を作った。


「目ぇ、いたい。チクチクする」


「いいだろ。これで、他のやつのことなんて見えなくなるんだから」


 俺は強がって言った。アヤメはぼーっと、されるがままになっている。


「……ほんと、だ。指だけ見える。鍵盤だけ、見える」


 鼻まで伸びる髪でアヤメの目は完璧に隠れて、口元は笑っていた。


「ふ、ふふ。ほんとだ! 世界、せまい! ピアノと私だけ! どうだ、見たか! ざまみろ! あははははっ!」


 手足をばたばた動かして、床の上で溺れているみたいなアヤメはけらけら笑っていた。それがおかしかったから、俺もひひっと笑った。


「ざまみろって、なんでだよ」


 言って、アヤメはそれには答えない。


「私、天才なんかじゃない。天才、なんかじゃなくって、いい! 私は、ピアノだけあればいいんだっ! みんなみんな、みぃんな、入ってくるなー!」


 座ったまま、天井に向かってアヤメは叫んだ。アヤメは俺のことなんて見ていなかったけど、俺はアヤメから目が離せなかった。テレビの中でマイクを向けられるこいつよりずっと、おもしろかった。


 ドレスの袖は涙か鼻水のどっちかでぬれている。バタ足のせいで、靴は片方脱げて、スカートも太ももまで上がっていた。髪の毛なんて俺のせいでめちゃくちゃのぼさぼさだ。


 最後、アヤメの手に目がとまった。彼女の前に膝をついて、許しをもらうより先に手を握った。そのまま、血が滲んだままの人差し指を口に入れる。


 十円玉をふざけて食べた時と同じ味が、口の中に広がる。舌にさわったアヤメの指は、かたかった。


「さいてー」


「なにが?」


「ピアニストの指に、なにすんだよ」


「血、出したのはおまえだろ」


「なめれば治るもん」


「だから、そうしてやってんの」


「……えっち」


 アヤメはそれきりなにも言わなかった。くすぐったそうに喉を鳴らし、ひとつ年上の少女として笑っていた。

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