第5話

 鍵盤に、赤い斑点。それは夕日なんて比べるべくもない、赤血球の色だった。


 学園祭はもう明後日に迫っている。部活動の時間も返上して準備に追われる学校全体を、俺は逃げるように徘徊していた。同じサッカー部の連中と会うことを避けるため、あいつらが絶対にいない場所へ足を向けた。


 体育館のステージ袖は、カビ臭い匂いが充満していた。緞帳を操作するレバーに手をかけて、握ってみる。折れていた骨が修復されて、ようやく三角巾が外れた。ギプスだけを着ける利き手だったが、思い切り力を入れることはできない。


 背後で高音が響いた。


 ギョッとして振り返ると、また彼女が鍵盤の前に座っていた。長い前髪のせいで彼女の目は見えないが、唇は笑っていた。


「……なんすか」


「今さら敬語とかいいから。来て」


 彼女が手招いている。俺はふらふら隣に歩み寄って彼女の隣に着いた瞬間、目を見張る。


 ピアノに血がついている。ぽっぽっと、鍵盤が真っ赤な水滴で汚れている。どの斑点も液体のまま残っているから、乾くほどの時間が経っていないことはわかった。


「どうしたの?」


 彼女は冷静に血の斑点を見下ろしていた。正確には、右の小指から流れる血をぼんやり眺めていた。


「あんたの血、かよ」


「弾いていたら傷が開いた」


 そう言うと、彼女はハンカチで小指を包んだ。血を拭き取っても、小さくも深い傷だったようですぐに血が滲む。


 彼女は不服そうに鼻を鳴らした。そして、両手を鍵盤の上に置く。


「なに、してんだ?」


「ピアノ、弾く」


「血が出ているだろ」


「それがなに」


「弾くより先に、血をどうにかしろって」


「どうして?」


 彼女は首を回して、俺を見上げる。


「指から血が出たくらいのことで、なんでやめないといけないの?」


 俺が答えられずにいると、彼女はピアノに向き直って、揺れる前髪の間から立てかけた五線譜に目を通す。


 俺は「この練習はすぐやらないとダメなのか?」と尋ねる。演奏を始めるタイミングで「別に」と彼女は答えた。


「伴奏の練習。クラス合唱の」


 彼女は手と口を別人のように動かす。抑揚をつけた協和音を奏でながら、口から出る言葉はひどく平坦だった。


「伴奏の人が、ボイコットしたの。なんでも、それが私のせいなんだって」


 唇を尖らせている彼女の口角は、まだ赤い。数日前、一切の悪気なく伴奏者を扱き下ろし、クラスメイトに鉄拳制裁を食らったあとは健在だ。


「責任取ってあと二日で弾けるようにしろ、って、教室から追い出された。困る」


 はぁっ。彼女が大きくため息をついた時、ちょうど合唱曲の一番が終わった。聞く限り、ミスは一つもなかった。


「楽譜を見ながらでいいなら、すぐに弾ける。二日も時間あっても、余るだけなのに」


 流れるように演奏が二番に移り、機械的な伴奏は続く。その間、彼女の方から質問が飛んでくる。


「腕。治った?」


「まだ。ギプスがないとダメだ」


「指は動くでしょ」


「指だけ動いたって、ゴールキーパーはできないんだよ」


「ピアノはできるじゃん」


「俺ができてどうすんだ」


 彼女の声に、俺は間髪入れずに答えていく。そうすれば演奏のリズムが崩れると思ったけれど、この程度は妨害にもならなかった。


「私は、ピアノが弾けないなんて、わかんない。鍵盤に触っていないと、腐敗するから」


「腐敗?」


 思わず口にすると、彼女は横目で俺を捉えた。楽譜を見ていなかったが、演奏は整ったままだ。


「九想図って見たことある?」


 俺は首を横に振る。それを彼女は「ふがく」とだけ罵ってから、流暢に話を続ける。


「仏教画の一つ。綺麗な女の人がね、死ぬんだ。でね、そのままの体勢で腐り果てるまでを描いてあるの。お腹と足がぼこって膨張して、体から液体が滲んで、動物に食い荒らされる。気持ち悪いんだぁ、ほんと」


 グロテスクな説明を飄々としながら、彼女は白い歯を見せて笑っていた。今から思えば俺はその時に、彼女を理解することを諦めていた。


「ピアノを弾けないことは、私にとってそういうこと。ピアノのある私から何もない私に、腐る。腕とか指がぐじゅぐじゅに熟れて潰れていく。それが不安で、怖くて、鍵盤の前から離れられないだけ」


 それが、私。


 彼女の語りはその一言で終わった。だからと言って、演奏に集中しているわけではない。楽譜を眺めながら、業務的に指を動かし続けている。


 そんな彼女が、俺は不憫で仕方がなかった。


 いつの間にか曲は終盤へと差し掛かっていた。彼女はフォルテッシモに対して忠実に、音量を上げていく。相変わらず精密な指は、楽譜に従って動いている。合唱の基盤として、きっと百点満点の仕上がりなのだと思う。


 パーフェクトな演奏を隣で聞いていて、俺はあくびを噛み殺せない。彼女の演奏の正確さに誰もが感心して、しかし誰も感動はしない。そんな確信があった。


 彼女は指を加速させる。とうとう楽譜の最後のページに入る。残り十六小節、十二小節、八小節。心なしか、早く終わらせようとしている忙しない演奏に聞こえた。


 最終段、残り四小節。四つの協和音で、ピリオド。彼女の指は、間違いなく正しい音をはじき出した。


 響いた音は、五つ。不協和音の原因である一際高い音の鍵盤は、俺が押していた。


「……ふざけんな」


 彼女の低い声がする。椅子を倒して立ち上がり、俺の胸倉を掴んだ。前髪の向こうの目を覗くまでもなく、彼女は憤っていた。


 ひっぱたかれる前に、俺は画面の中にいた頃の彼女のように不敵に笑ってみせた。彼女の体の熱までわかる距離で、言い放つ。


「最後だけ、面白かった。それ以外退屈だったんだよ、完璧すぎて」


「は?」


「腐るとか潰れるとか、なんでもないあんたになるのが怖いとか? ご大層なおべんちゃらの割には、つまんねぇ演奏だったな。CD音源じゃねぇか」


「けんか、売ってる?」


 睨み上げてくる彼女に、俺は小さく頷いた。途端、彼女は右手を振り上げる。短絡的な行動に対して、俺はひどく冷静だった。


 彼女の渾身の右ストレートなんて、たかが知れている。自由の利く左手で受け止めてしまえば、ぱちん、と、間抜けな音がした。


 右手を包んだまま、彼女をピアノの方へと押す。バランスを崩して、彼女が左手をついたところに鍵盤があった。


 ピアノが大きく、がなった。聞くに耐えない不協和音。彼女は両手で耳を抑えてその場にしゃがみこんでしまった。ピアノにもぐりこむような姿勢になった彼女は、とても小さかった。


 視線の高さを合わせて、俺は彼女に詰め寄る。


「指から血が出ているなら、まず止めろ。簡単に人を殴ろうとするな。ピアニストが、自分の手を大事にしないでどうすんだ」


「説教なんて、えらそうに」


「聞けよ。あんたは、わかってねぇんだよ」


「うるさいだまれ。ばか、ばーか!」


 小さな子どものような癇癪を起こして、彼女は両耳を塞いだまま首を振り回す。


「あなたなんかに言われるまでもない! つまらないとか、今まで何百回も吐き捨てられた! センスがない、才能がない! 目障り、耳障り! そう言う奴は決まってほざくの! 『期待しているから厳しくあたる』! 『愛情の裏返し』! 取り繕って美談にすれば暴言を言っていいとか、あんたたちの理屈でしょ! 私は……わたし、はっ!」


 呼吸が足りなくなった彼女は、顎を持ち上げるように深呼吸をする。長い前髪は勢い余って後頭部の方向へ流れて、両目がむき出しになった。


「ピアノを弾いているだけでいいのに。それが、わたしの生きる意味、なの……」


 目は充血している。しゃくりあげる彼女から、もう言葉は出そうになかった。


「あんたこそ、ふざけるな」


 声だけは感情任せに、俺は彼女の手首にそっと触れた。壊れないように優しく、支えるようにしっかりと。


「なぁ。生きる意味なんて言うなら、せめて「楽しい」って言ってくれよ」


 彼女の細い喉が上下する。


「機械みたいに、つまんなそうに、ピアノを弾くな。感情を音にしてぶちまけるような演奏をしてみろよ。人に怒られたって、迷惑かけたって、へらへら笑ってみせろって……!」


「…………」


 俺の荒い息で、彼女の髪がそよいでいた。彼女の瞳の中に俺がいて、それが一番に恥ずかしかった。


「指」


 俺の羞恥心なんて、彼女はまるで気にしていなかった。普段の調子をようやく取り戻し、俺の右手の人差し指を見つめていた。


「血、ついてる」


 言われるまで、指が汚れていたことに気づかなかった。演奏の最後を台無しにしたとき、鍵盤から付着した彼女の血だ。


 掴んでいた手首を離すと、すかさず彼女が俺の右手を捕まえた。そのまま目の前に俺の人差し指を持っていく。


 そして彼女は、俺の人差し指を血痕ごと口にふくむ。まるで熱を持った脱脂綿に包まれる心地に、声を出せなかった。


 彼女は爪の間まで舌先を滑らせて、自分の血を舐めとる。血液を凝結させたような真っ赤な舌だけ俺は見ていた。

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