第4話

 学園祭準備が本格的になってきた放課後。


 学校中が鬱陶しく賑やかな中、体育館裏の壁に彼女がもたれて座っていた。血が滲んだ唇の端を、舌先で突っつくように舐めている。


「殴られた。ぐー、で」


 なぜか得意そうに胸を張って、彼女は言った。


「見てた」


 俺が答えると、彼女は「止めろよ」なんて笑ってみせる。


「学園祭の合唱って、クラスで一人、伴奏者を出すんだけど」


 殴られるに至った経緯を探る俺に、彼女はまずそう言った。


 妙に饒舌な彼女は、上履きで土を掘り起こす。


「それがもう、駄目だった。ちせつ。オンチ。壊滅的。リズムも抑揚もなってない。楽譜通りに弾けないこと自体、信じられない」


「誰だってミスはするだろ」


 俺は伴奏者を擁護する。機嫌を損ねると思ったが、彼女は口をポカンと開けた。


「……小学生の頃、ひらがなのドリルってやったことある? 書き順をなぞるやつ」


「あるけど」


「楽譜があるなら、伴奏はあれとまったく同じでしょ。どうやったら失敗できるの?」


 俺も、開いた口がふさがらなくなった。ピアノには詳しくないが、彼女の言っていることが間違っていることはわかる。横暴で鮮烈な、天才だけに許される非常識だ。


「同じことを言ったら、クラスの全員がその顔してた。その後、伴奏の人が泣き出した」


 それからのことは、物陰から目撃した。空気を腐した彼女を、数人の女子が体育館裏まで連行してきた。反省を態度で示すように求めて、しかし彼女は首を傾げる。呟く彼女の一言に一人が激昂し、顔をめがけて拳を振り切った。まさに正義の鉄拳。彼女は悪として裁かれた。めでたしめでたし……。


「あの時、あんた、何を言ったんだよ?」


 尋ねたタイミングで見下ろすと、彼女は掘り返した土の中からミミズを捕まえていた。


「見て。おっきいのいた」


 彼女の小指より太いミミズが頭か尾のどちらかをつままれて、宙ぶらりんのままのたうつ。気色悪い……。


 指に伝わるミミズの抵抗に、彼女はくしゃっと破顔した。


「ミミズって好き。ふにふにで、スクイーズと感触似てるし」


「……よくできるな、そんなこと。すげえよ」


「それ」


「は?」


「それ、言った。『あなたたちってすごい。あの完成度の低いぐちゃぐちゃの伴奏で、よく歌えるね』って。褒めたはずなのに、ぶん殴られた」


 フッ、と、口元まで垂れる前髪へ彼女は息を吹きかけた。


 言葉に皮肉はなかった。彼女は本気でクラスメイトを讃えていたに違いなく、それは俺や彼らには一生かかっても理解できない思考回路だった。


 彼女は輪ゴムのようにミミズを弄んでいる。もう彼女のことを遠く感じたくなかったから、俺から初めて話を始めた。


「俺はサッカー部のレギュラーだった。1年から、キーパーで」


「……急になに」


 怪訝そうな彼女は、俺ではなくてミミズを見ている。立ち去らなかっただけで十分だ。


「運が良かったんだよ、俺。今の三年の代にキーパーがいなくって、すぐにレギュラーになれた。公式戦を無失点で終わって、県予選を勝ち進んだ時なんか、チーム全員から『救世主』なんて言われた」


「キリストと同列とか、誇大広告」


 余計なお世話だ、と思うだけで、俺はわざわざ口にしない。


「キーパーはチームで唯一、手を使っていいんだよ。だからグローブもつけるし、ユニフォームだって違う色なんだ。すげえだろ」


「じゃあ、ボールを手に持って相手ゴールに入っていい人って、キーパーだけなんだ」


 彼女の中ではサッカーとラグビーがごちゃまぜになっているようだが、それぞれを説明している時間はない。


「それが、試合中の事故で骨折。で、救急車で運ばれる直前、俺と代わって試合に出た後輩が相手のシュートを止めたんだよ。俺じゃ止められないようなやつを、横っ飛びで」


「ふぅん」


 相変わらず赤くなった口角を舐めている彼女だが、俺を見上げている。


「あの瞬間、気づいた。ゴールを守るのは、俺だけに任されたことじゃなかったんだ、って。俺だけが期待されて、チームを救える存在だったわけじゃなくて、だからさ。……だから、俺とか、その伴奏のやつは……」


「私がさっき、殴られたのは」


 俺が言い淀むと、彼女はミミズを手にしたまま立ち上がった。


「みんながみんな特別じゃないから傷を舐め合いましょう、っていう意味。あなたはそう、言いたいの?」


「……言い方は乱暴だけど、少なくとも俺は、そう思う」


「そ」


 彼女は右手のミミズを投げ捨てる。傍若無人な彼女に放たれたミミズは側溝の上で土を探していたが、やがて網目の間からぼたっと落ちた。


「あなたから見て、私は特別?」


 手についた湿った土を払って、彼女は尋ねる。一週間前に見かけたピアノの前の彼女が、鮮明に蘇った。


「天才、なんだろ。あんたって」


 ぶっきらぼうに答えると、彼女は笑った。


「ぐちょく」


「は?」


「特別じゃないから、代わりがきくわけじゃない。もしも何かが間違って、私が天才なんだとしても」


 そこで、彼女は一つ息を吸った。空を仰いだから、前髪が持ち上がる。


 俺はようやく彼女の目元をはっきり見ることができた。ばらばらと、両の頬から鼻筋を跨ぐそばかすが目に焼きつく。


「天才にも、代わりの天才がいる。みんなおんなじ。唯一無二なんて、まやかし」


 そして彼女は、俺の横を通り過ぎる。


 小さな上履きの跡の一つで、彼女が放り投げた個体と同じサイズのミミズが、踏み潰されていた。

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