第3話
アヤメが、ピアノの前に座っている。
電気もつけず、鼻先まで届く長い前髪をピンやゴムで纏めていない。
とん、とん、と軽やかにいくつかの鍵盤の調子を確かめる。遮音カーテンからのぞき見る俺のことなど、まるで意に介していない。
アヤメはピアノ以外の全てを無視している。それほどに、集中している。
高音がはじける。彼女の演奏が始まった。
右手は忙しない。左手は慎み深い。別人格のような両手が協和音を作り出す。
彼女は肩で鍵盤を弾いていた。手首と腕を固めて、筋肉の動きを指だけに集約させる。細い十指が黒と白の間をひっきりなしに往復するのは、見ているだけで指がつりそうで、包帯の中の手がぴりぴりと震えた。
音は、コンマ数秒後に曲になっていく。頭の中に叩き込まれた楽譜通りに動く彼女の指は、まるで鍵盤に吸い込まれているよう。しかし、その精密な演奏を機械的とは絶対に言えない。彼女のクレシェンドには血が通っていて、スタッカートには息遣いがあった。
天啓のように、俺は思い出した。幼い彼女は、いつもドレス姿でテレビにいた。
ピアノの腕前自慢の芸能人が天才少女と対決する様を大仰に騒ぎ立てるテレビ番組を、母は好んで観ていた。自分と歳の変わらない着飾った少女が煽てられて、ぷくっと膨らんでいた手で力強く鍵盤を叩く。彼女が大人を圧巻する姿は、人によっては痛快だったと思う。
舌ったらずな口調で大人を見下す、小憎たらしい天才少女、アヤメちゃん。一斉を風靡した人気者が、目の前で一心不乱にピアノと格闘していた。
「ふッ……ふッ……」
彼女の呼吸が荒い。体力を消耗するほどのエネルギッシュな演奏に……一匹のキアゲハが水を差す。
奴は窓から音楽室に迷いこみ、彼女の顔と鍵盤の間をたゆたうように横切った。
瞬間。彼女は左腕をしならせて、蝶を叩き落とした。
もがれた翅をばたつかせ、キアゲハはピアノの上に落ちる。震える体は鍵盤に横たわり、そこが次に彼女が奏でる場所で。
蝶の潰れる音は、低いミだった。
「……じゃま」
曲の隙間に、彼女の声が聞こえた。
「翅の音がうるさい。色がうるさい。はばたく動きがうるさい。私とピアノの、じゃま、しないで」
両手の指は速度を上げて曲を仕上げていく。ただ、彼女の口から出る暴言は、いつかにテレビから聞いた少女のそれだった。
「うるさい」
もたつく滑舌で、彼女は再び吐き捨てた。俺は身を強張らせる。
しかし、彼女の言葉は俺に向けられたものじゃなかった。そもそも彼女は俺がいることなんて、気づいてすらいなかった。
「うるさい、うるさい、うるさい。わかってる! 私は、天才じゃない。才能なんてない!」
喉を絞るような罵倒に、俺は一歩たじろいだ。
「要らなくなるなら、失望するなら! 最初から、期待なんてしないでよ!」
呼吸はとても苦しそうなのに、彼女は演奏を止めない。むしろ、彼女は音を置いていく勢いで、さらにピッチを上げていく。
「ピアノなんて楽しくない! こんなの嫌い! 大っ嫌い!」
刺々しい気持ちをぶちまけながら、彼女の曲は最高潮へと駆け上がる。部屋の空気がびりびり震えている。高音に頬を撫でられて、低音に首筋をくすぐられて、重音に鳩尾を殴られた。俺はもう、立っていられなかった。
「きらいっ!」
きぃ、ん。協和音がピリオドを打つ。
彼女の演奏は激烈だった。そして、画面の中で勝気に笑っていた天才少女は、もうこの世にいないことを俺は知った。
汗が滴る長い前髪を、彼女は右手でぐしゃぐしゃに掻き毟って、言った。
「……大好きだった、ピアノを、嫌いな私なんて、だいきらい」
鍵盤の上に残した彼女の左手は、キアゲハの鱗粉で光っていた。
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