第2話

 ナイター照明が消え始める時間に、口笛を吹いて、彼女は花壇を踏み荒していた。


 体育館とプールをつなぐ渡り廊下の脇に、手入れが行き届かない花壇がある。なけなしのチューリップが並んでいたことを、俺は彼女が踏みつけにするまで気がつかなかった。


 彼女の膝下まで伸びる首の長い花をめがけて、スカートを摘みながら、凶暴にローファーを振るっていた。赤、白、黄色。飛び散る暖色系の花びらに、有名な童謡を思い出す。


「あの歌、小さい頃から嫌いだった」


 楽器のように正確な口笛をやめてまで、彼女はそんなことを言った。


「花を綺麗なものって子ども相手に刷り込んで、単調なメロディーにのせて崇め奉っているみたい。るっきずむで、ぷろぱがんだ」


 たどたどしくて大げさな外来語を、俺は真剣に取り合わない。


「ボール、取ってくれ」


 指をさすのは、彼女の足元。雑草の中の五号球は、彼女のように一本の花を押し潰していた。


 彼女がボールを両手で拾い上げると、胸の前に抱え、手を離す。落ちてきたボールを、右足で蹴り上げた。


 ベコッ。と、彼女の足から鈍い音がした。


 二回跳ねて来たボールを左手だけで受け取る。しゃがむと三角巾がずれるから、助かった。


「利き手、左?」


 初めて彼女から質問された。


「残念なことに、右」


 答えると、彼女は下唇を噛んだ。


「俺に同情するなら、そのチューリップだけは助けてやってほしい」


 俺は、彼女の足元の最後のチューリップに顎をしゃくる。


 彼女が唇をへの字に曲げた。口元を見ていると、彼女の考えていることはわかりやすい。


 彼女が訊いてくる。


「何のために?」


 理由は、言葉にしづらかった。中学から特に成績の悪い理科の知識を、無理やりに引っ張り出す。


「光合成とか環境問題の解決、のため、だ」


「……言うと思った」


 溜め息をついて、一瞬。彼女は左足を振り抜いた。茎からちぎれて、赤いチューリップが俺の足元に転がった。


 彼女は花壇の花を全て蹴散らした。


「酸素を吐き出すから、植物は必要なの? 見ていて気分がいいから、綺麗な花は必要なの? 全部、名前も知らない誰かのために、ここに咲かなきゃいけないの?」


 まくしたてられ、なにも言えない俺に、彼女ははっきりと肩を落とす。


 そして、彼女は散乱する花弁を一枚ずつ拾い始めた。花を潰し尽くして、茎を捻じ切って、根を掘り返したのも、彼女のはずだ。花を容赦無く殺しておきながらも、足癖の悪さからは信じられない慈しみ深い手つきだ。


「なにがしたいんだよ、おまえ」


 疑念が粗暴な言葉になって、口をついて出る。ブレザーの襟元の校章は、モスグリーン。……三年生のものだと、言った後に気づいた。


「私が耐えられなかった」


 彼女は手を休めることなく答える。


「手入れされずに、必要を押し付けられて咲いていることに、耐えられなかった」


 身を屈める彼女の前髪が、風に乗ってぷかっと浮かんだ。チューリップの死骸への視線は……羨みの眼差しに一番近かった。


 俺は、自分のつま先にまで転がってきていた花を拾い上げる。


「じゃあ、これでどうだ」


 彼女のおかげで柔らかくなった土に、花を茎ごと刺した。


 もう光合成はできず、すぐに枯れて綺麗でもなくなるこの花は、たとえば腕を折ったゴールキーパーのように、花壇の中にいる意味のない存在だ。


 必要とされていなくても、ここにいていい。もしも意味があるとするなら、それだけのことだった。


 左手だけでは、茎がきちんと刺さらない。不恰好なまま、絶命した花を拾っては花壇に並べていく。


 傾く花をまっすぐにするため、隣で彼女が土を整えてくれていた。


 会話がなくなると、彼女は再び口笛を吹き始める。目の前に楽譜でもあるのか、と疑うほどに完成された演奏で、遮ることはマナー違反だと思った。


「口笛。それ、なんて曲だ?」


 曲が終わってから、俺は尋ねる。「そんなことも知らないのか」と言いたげに首を傾げて、それでも彼女は答えてくれた。


「パッヘルベル、『カノン』」


「パッヘルベル、カノン」


 忘れないように繰り返す。正直、どちらが曲名でどちらが作者なのかもわからなかった。


 彼女は、花壇の枠のレンガの上を歩いていく。両手を水平にあげて、摺り足でも軽やかに、行ってしまった。

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