あやめるアヤメにあやかって

河端夕タ

第1話

 蟻の死骸が、彼女の足元に転がっていた。


 十や二十じゃない。数えることも馬鹿らしい、夥しい量の黒色。足がもげている。触覚が折れている。体液が滲んでいる。頭だけが残っている。彼女の足元は、惨たらしくもモノクロだった。


 背後に立った俺を、彼女は顎を持ち上げるように見る。真上を向いて口がぽかっと開くのがまぬけで、鼻の頭にまで毛先の届く前髪はふわふわ浮いていた。


「何してんだ」


 聞くと、彼女は視線を再び地面に落として、石を振りかざす。


「蟻を、殲滅したくって」


 がち。


 石が地面を打つ無機質な音がする。


「掃いて捨てるほどいる、らしいし」がち。「簡単にできるから」がち。「一を殺すと犯罪者でも、百万殺したら英雄。なんだって」がち。


 感情の乗っていない言葉が耳に入って、しかし頭に入らない。目の前のこれは、いったい何を言っているのだろうか?


「ぐどん」


 言って、彼女は歯だけ見えるように笑う。


「チャップリンかよ、って、言えないの」


 トランプのジョーカーのような彼女の口元からは悪意しか伝わってこない。思えば、彼女がオシトヤカなオンナノコではないことに、この時気づくべきだった。


「とりあえず学校中の蟻を全滅させたら、ちょっとはヒーローだと思うから」


 それから、彼女は一心不乱に鉄槌を下す。まるで正しいことをしているような徹底ぶりを、しばらく横に座って眺めていた。


「楽しいか、それ」


「二回目から、何も感じない」


「蟻の被害でもあったのかよ」


「もしあるなら、誰かに感謝されたい」


「蟻を、学生服の自分たちと重ねているのか」


「その思考回路をしているあなたが心配」


 レスリング選手に組手を仕掛けるような、噛み合わない問答にうんざりしていると、彼女の魔の手から逃れた一匹の蟻が俺の靴に上ってきた。殺したいとは思わなかったが、強いて助けたいとも感じなかった。


「どうして殺すのをやめないんだ?」


 彼女は手を休ませずに答える。


「殲滅した時、何かが起きてほしいから」


 がち。「例えば蟻がいなくなって、ここの生態系でも崩れたら」がち。「蟻は必要な存在だったってわけで」がち。「要らないわけじゃないって、証明できそう」


 ぎゃくせつてきに、と、彼女はもたついた呂律で言葉を締めた。初めて会話が成り立ったのに、俺はそれ以上彼女に踏み込めなかった。


 いつの間にか膝まで登ってきた蟻を指に掬う。安全地帯で呆けているそいつを、腰掛けているコンクリートに擦りつけた。


 音もなく潰れた。黒い液体が指に付着して、なぜか嫌な気分がしなかった。


 すぐ横で、彼女が俺を見上げる。前髪から覗けた目は、共犯者を見つけた高揚感に輝いていた。


 彼女の名前は、瀧崎たきさき菖蒲アヤメという。

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