十七円

たなべ

十七円

 あの瞬間のことは鮮明に覚えています。それは陽の光が斜めになって、歩く人々の影が大きく地面に落ちていた頃合いでした。私は街角の、小さな駄菓子屋におりました。何も特別なところの無い、かわいらしい(かわいらしいといったら店主に失礼な感じがしますが、事実、その駄菓子屋はミニチュアみたいでかわいらしかったのです)店舗で、年齢は定かでありませんが、高齢の、もうじきお迎えがくるであろう夫婦が、老後の暇つぶしの様に営んでいる優しい場所でした。その時の私くらいの年齢の子供は、学校の帰りに少し寄り道をして、百円だか二百円だかのお菓子を買って、二街区ほど先にある公園のベンチやらブランコやらに座って、皆でわいわいやりながら、陽が傾いて、空が橙色になるまで、ちびちびと食べていたのでした。老夫婦もいかにも優しい人で、勘定が少し足りない時は、何かともっともらしい理由をつけて私たちにサービスしてくれるのでした。

 その日は、学校が普段より遅くに終わりました。休み時間か何かに起きた、児童同士の小さな諍いを先生が帰りの会を使って、解決しようと図ったためでした。ことのあらましを聞いた私は甚だ呆れ果ててしまいましたが、そんなことで争いが起こるほど仲が良いのだなと感慨深く、先生の調停を聞いていました。結局、話し合いが終わったのは終業時刻の一時間も後で、他の教室には、カーテン越しに黄金色の陽の光が広がって、机や椅子が哀愁帯びて佇んでいました。教室は誰もいないだけで、こんなに気持ち良い場所になるのだと、美しい心持になりました。その後は、一人で帰路に就きました。友人がいないわけではありません。この日はたまたま一人だったのです。友人の一人は習い事があるといって、また一人は塾、一人はまた別の友人の家に行くとかで、私は帰りの下駄箱で入れ違いに謝られました。正直、一人になりたい様な気分もしていたので、良かったは良かったのですが、謝罪された時に、急に寂しさが湧きだしてきて、帰り道(恐らく校門を出る前だったと思います)、あの駄菓子屋に行こう、と思い立ったのです。

 駄菓子屋までは走って行きました。一刻も早く寂しさを紛らわせたかったのもありましたが、そもそも例の話し合いが終わったのが、駄菓子屋の終わる三十分前であったのです。駄菓子屋は学校から歩きで大体、二十分ほどかかったと記憶していますが、この時はもう、脇目もふらず、ほとんど信号も無視するような形で、走りました。そうしたら、十分くらいで着いてしまって、何やら拍子抜けするような気持ちに駆られました。いつも来るより遅い時間の駄菓子屋は、斜陽が店の奥まで入り込んで、何かの展示品かと思うほど完成されていました。将来、博物館にでも飾られるのではないかと思いました。平生、賑やかな場所ほど人がいなくなると、一様に美しくなるのだなあと感じました。

 目当てはありませんでした。だから、私の目的はこの駄菓子屋に来た時点で達成されていたのでした。ここに来ると、温かい気配がする。私が思いついた様にここを目指したのはそんな簡素な理由からでした。ですから、店内に入るわけは特段なかったのですが、ここまであれだけ走ってきたのだし、今日はもうすぐ閉店してしまうのだから、勿体なく思って、半ば無意識に店の中へ足を延ばしたのでした。店には私以外いませんでした。いつも増築すれば良いのにと思っていた建物は、隙間だらけで冷え冷えしました。床部の焦げ茶色をくっきりと望んだのは初めてでした。

 私はひとつの棚の前で立ち止まりました。最も高いもので百円くらいの棚です。私の小遣いは月千円ほどだったので何も心配することはありませんでした(私は貯金も普段からしていて、同級生から、お金持ちと称されるほどでした)。「ああ、これはあの子が好きなやつ」「ああこれはあの子」とか視界に映るお菓子を余裕たっぷりに見つめては、どれを買ってやろうかと王様のような気持ちでいました。私、自分より下等な存在に対しては、大いに威嚇して「ださい」「格好悪い」などと言って見下すのです。相当に矜持の強靭な子供でありました。駄菓子屋の店主に勘定のおまけをしてもらっている同級生を遠くから眺めて、何と惨めな子供だろうと憐れんでおりました。そして何でも負けるのが大嫌いで、勝つことだけに拘りました。

 時計を見ると、閉店五分前でした。駄菓子屋の店主も「そろそろおしまいだよ」と言って、何やら急かすのです。私はこの時、催眠から覚めたような感じで、はっと気付くと、急いであれとこれとそれとこれ、と駄菓子を鷲掴みにし、せかせか勘定台へ向かいました。店主は閉店間際なのに長居した私を何一つ咎めることなく、落ち着いた様子で代金を数えていました。そして、「四個で百三十円だね」と言いました。はい。勿論、持っています。そう信じて、ポケットをまさぐり、財布を取り出して中を検めました。一円玉が三枚。五円玉が二枚。十円玉が、十枚。合計はええと、百十三円。百十三円?十七円足りません。確かに足りません。いや、そんなこと有り得ない。おかしい。絶対におかしい。天変地異でも起こったのかしら。そうでなければ盗まれた?そう思うと同時に、仕舞ったと思いました。今日の朝、友人に財布の在処を言っていたのでした。「ここに置いとくから見といて」と言ったのでした(その時はちょっと外せない用事があったのです)。やられた。昼休み私はずっと外にいたからその時だろう。その時やつは私の財布から金をくすねたのです。失念していました。あいつはいつも私を金持ち、金持ちと囃し立てていました。その時点で信用何てするべきでなかったのです。

 しかし、今「お金は盗まれたのでありません」何て言えない。でもしかし、勘定を誤魔化してもらうのは嫌だ。はしたない。そうして私が何もできずもじもじしていると、店主が何かを察したかのような顔をしたのを私は見逃しませんでした。やけに、にこにこし始めたのです。そして幾秒か経った後に「お金、無いの?」と優しく聞いてきました。ついに来たか。そう思いました。この瞬間、私は別の世界に来てしまったと感じました。そこで私に浮かんだのは、諦めでも、感謝でもなく、羞恥でした。恥ずかしくって堪りませんでした。はっきりと負けを感じたような気がしました。これに「はい」と答えてしまえば、一気に私の存在は失墜して、二度と同じ場所に這いあがれなくなる、そう思いました。今、私は断崖絶壁にいるのだ。背水の陣とはこういうことを言うのだと気付きました。私はついに恥ずかしさに耐えられなくなって、「あります」と強く言いました。すると店主は疑う様子もなく「ああ、そうかい」と柔らかな口調で言って、そのまま黙って私のことを見つめるのです。この時間は五秒かそこらだったとは思いますが、私には大変に長く感ぜられました。心臓の鼓動が一回、一回はっきり聞こえました。手先が震え、冷や汗が止まりませんでした。今すぐこの場を立ち去りたい気持ちに駆られました。如何してもここから消え去りたかった、その一心でした。いつもあんなに長居をして、その間不幸な思い何て一度もしたことが無かったのに、今は何が何でもそんなわけにはいきませんでした。

 その瞬間、明確な悪意が私に思い浮かびました。いや、悪意と言っては語弊があるかもしれません。そうです。魔が差したのです。それでしかありません。私の閃きはその後の人生の分岐点となるような重大なものに思われました。まさかこの駄菓子屋で、正常と異常との狭間を行ったり来たりするとは夢にも思いませんでした。何と言ったって、私は勘定の際におまけをしてもらうような可哀想な子供では無かったのですから。ましてや、その閃きはそのおまけより卑賤で見苦しいものであったので、私はこの閃きが自分のものと思えませんでした。天から降ってきたお告げのように感じました。だからでしょう。私は逆らえなかったのです。あの時、あの場所で私は当然のことをしたのです。

 私は店主に百十三円を手渡すと、確認が終わらないうちにお菓子を持ち去って、店から走り出しました。駄菓子の陳列棚を避け、引き戸となっている入り口を開き、その間十秒と無かったでしょう。あっという間に私は店から逃走することに成功したのです。途中、店内を駆けている時、背後から「ちょっと」と店主の声が聞こえましたが、それで止まる私でもありません。構わず走り抜けました。店を出てからは実に鮮やかでした。赤信号には一回も捕まらなかったし、途中で知り合いに遭遇することもありませんでした。ものの五分少々で家の玄関まで到達しました。家の一階は明かりが灯って、カーテンが黄色く光っておりました。母が晩御飯の準備をしているのだろうと思いました。玄関の扉を開ければ母が出迎えてくれて、それで私はまずお風呂にでも入るだろう。その前に、駄菓子に目が行くかもしれない。そして何かそれについて問われるかもしれない。その時はもう嘘を吐くしかないだろう。そうやって覚悟を一丁前に決めて、扉を開けました。

 母には何も聞かれませんでした。いつも通り、お風呂に入るかどうかだけ言われたので、私は「入る」と一言言っただけでした。お風呂でシャワーを浴びている時、自然、あの瞬間が思い出されました。あの駄菓子のビニールの感触、店内の光、温度。何もかもが暴力的な鮮明さを持って私を包み込んでいきました。湯船に浸かっている間も始終、あの十七円のことを思っていました。あの店主には「お金が無い子」と思われてしまっただろうか。それが一番の気がかりでした。怖かったのです。誰かに罪を指摘されるよりも、自分の矜持の傷つけられるのが。奇妙な話でしょう。しかし、私にとってというか私の送ってきた人生にとって、これは大いに重大なことでした。「頭が悪い」よりも「スポーツができない」よりも「お金が無い」方がよっぽど惨めで恥ずかしいことのように思います。事実、馬鹿で運動音痴な子よりも貧乏な子の方が可哀想でした。いつも皆といる時、隅の方にいるのは決まって、お金の無い子でありました。そういう記憶がどうにも頭に焼き付いてしまったがために、変な方向に矜持を強化させてしまって、ほとほと困っているのです。

 その日は気持ちが落ち着きませんでした。晩御飯の時、電話がかかってきて、それで母が応対しようと席を立った時、言い知れぬ恐怖が襲ってきました。あの駄菓子屋の店主かもしれない。十七円のことで話が来たのかもしれない。そう直感しました。私は握りこぶしをテーブルの下で強く固め、母の動向を注視しました。しかし、これは全て杞憂に終わりました。かかってきたのは、0120から始まる番号の電話でした。母は、表示された電話番号を見て、「勧誘だ」と言って、そのまま席に戻りました。この日はもうそれ以後電話がかかってくることはありませんでした。電話器がいやに静かで、その周辺だけ空間が歪んでいるような錯覚を見ました。私はそんな光景を見たくなかったので、足早に自分の部屋へ閉じ籠ってしまいました。そして早くに寝ました。

 翌日の学校は生きた心地がしませんでした。いつ先生からあのことを問い質されるか、怯えておりました。しかし、その時はいつになっても訪れませんでした。一日経っても、一週間経っても、一か月経っても、先生は何も言わないままでした。その間、私は普通の顔をしてあの駄菓子屋に行きました(本当は行きたくなかったのですが、友人が如何しても行こう、というのでほとんど無理に引っ張られて行ったのです)。ですが、駄菓子屋の店主はまるで何も無かったかのように、振舞って、そして私にもあの優しい瞳で語りかけてくるのです。私は、申し訳なさで頭がいっぱいになりました。ただ、同時に如何して私はこのような些末なことで思い悩んでいるのだろうという気付きがありました。そうして、あの日から一週間ほど経って、気に病む時間が少なくなって、一か月経って、さらに少なくなって、ついに私は進級して、もう考えることは無くなりました。そして、学年が上がる毎に駄菓子屋へ行く回数もだんだんと減って行って、ついに誰も行こうと言わなくなりました。

 私は中学生になって、それでも通学路にあの駄菓子屋はあるので、たまにあの日のことを思い出すことがあります。その度に、当時の賤しい心持を想起しては、苦しい思いに満たされます。そして如何しようかと思って、通学路を変えようかと考えたこともありましたが、私はそれを毎回すんでのところで止してしまいます。私、このわけが、分からないのですが、多分、あの駄菓子屋が私の全てだったからでしょう。楽しい思い出には全部、あの店が関わっていたし、苦しい思い出だって、悲しい思い出だって、何もかも原点まで辿ってみると、結局あの店が佇んでいるのです。気味が悪いと思いますか。おかしいと思いますか。まあ、それでもいいでしょう。そう思うのが普通ですから。ただ、私にその感情を押し付けないで下さい。私はあんなことをしてもあの店を愛しているのです。


 今日は下校途中から雨が降ってきました。大分、激しい雨だったので、このまま傘なしで帰るのもいただけないと思っていた時、あの駄菓子屋が見えました。それはいつも通り、申し訳なさそうに立っていました。調度良いから雨宿りさせてもらおうと、引き戸に手を掛けた時、あの時を鮮明に思い出しました。思えば、あれから何度かここには来ましたが、一人で来るのはあの時以来でした。一瞬、戸を開けるのを躊躇しました。しかし、その間にも雨は徐々にその強さを増していきます。私は諦めたように戸を開けました。

 そこには記憶と違わぬ光景が広がっていました。あの時、駄菓子を鷲掴みにした棚もそのまま残っています。その棚の近くまで行って私は「あっ」と声を漏らしました。駄菓子の配置があの時と全く同じなのです(あの後何度か来ていましたが、これに気付いたのはこの時が初めてでした)。駄菓子の種類も、並び方も順番も何もかも同じでした。まるで私を試しているかのように思われました。

 私はあの時と同じ駄菓子を取ると、そのまま勘定台へ行きました。店主はそうしてあの時と同じように代金を数え「百三十円ね」と言いました。私は緊張しながら財布に手をかけ、千円札を出しました。八百七十円お釣りをもらいました。私はそうすると、きびきび動いて直ぐに戸のところまで行きました。まだ強い雨の音がします。構わず戸を開けます。先ほどより格段に強く雨が降っていました。視界が真っ白になるほどでした。しかし、私はそんなこと意にも介せず、走り出しました。

 家に着いた頃には全身びしょ濡れでしたが、私はそれで良かったのです。漸く、駄菓子屋の呪縛から解放された気がしました。


 この日以後も夕立に降られたり、傘を忘れたりして雨宿りする必要に駆られたことは何回かありましたが、あの駄菓子屋に立ち寄ることはもうありませんでした。走って通り過ぎると、あの店は何だか歪んで見えるのでした。

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十七円 たなべ @tauma_2004

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