第24話


 笑い病、という。二年前に僕らの町で起こった病だ。罹った者は笑いが止まらなくなり、朝から晩まで、眠っている時でさえ笑い続ける、体力を奪われて衰弱して、それでも患者は笑っているのだ。笑いが止むのは死ぬ時だ。

 なぜ、僕らの町でだけ。

 病を恐れ、多くの人が町の外へと出て行った。

 残っているのは、外に出られない人たちだけだ。




 ベッドの上にはおじいちゃんが横たわっている。

 くぁっ、くぁっと、喉の奥が縮み空気が絞り出されたような笑い声。おじいちゃんの喉はもう枯れてしまった。まともな声なんて出ない。

「ほら、お粥を作ったよ」

 僕はベッドのそばに置いてあるリモコンを手に取り、スイッチを押した。ベッドを座位の高さまであげてやる。おじいちゃんはベッドの角度の変化についてこれず、体が傾く。

「危ないよ。しっかりして」

僕がおじいちゃんの体をまっすぐに直してやると、おじいちゃんは「くぁっ、くぁっ」と笑う。

僕は鍋で煮込んだ鶏肉入りのお粥をスプーンで掬い、おじいちゃんの口元へと運んでやる。

「くぁっ」

 おじいちゃんは嬉しそうに笑った。当然だろう。おじいちゃんは笑い病になってからずっと、楽しいし嬉しいのだ。ずっとだ。

「ゆっくり飲み込むんだよ」

 僕は優しく言って、スプーンを傾ける。お粥はおじいちゃんの口の中へと流れ込む。

「くぁっくぁっ! ぁっ……ぐ! ごぉほっ!」

 おじいちゃんは盛大にむせて、お粥を吐き出してしまう。僕は慌てて背中をさする。

「ごふぉっ! ……ごふぉっ……。ぅくぁ!」

 おじいちゃんは笑う。お粥なんてそっちのけ。


「どうだった?」

 休憩室へと戻ると、大沼さんが尋ねてきた。もちろん、おじいちゃんのことだ。

「今日も食べられなかったです。もう駄目そうですね」

「そうかあ」

 大沼さんは額を抑えて俯く。

 彼女はこの道三年のベテランで、バツイチの独身だ。僕より十歳くらい年上らしいけど、本人から聞いたわけではないから真実はわからない。

 僕が働くこの、共同生活組合が運営するシェアハウス。住んでいるのは五人の笑い病患者だ。お世話スタッフが三人いて、交代で住人の生活をサポートしている。

 大沼さんは笑い病がこの町で発生したころにいち早くこのシェアハウスを立ち上げ、お世話スタッフとして働いてきた人だ。この道三年、されど大ベテラン。

「羽場くんはどう思う?」

 突然に意見を求められて、僕はしばしフリーズする。

「……どう、とは……?」

「おじいちゃんを病院送りにしたとして、羽場くんはどう思う?」

「……僕は……」

 おじいちゃんが病院に入院したとして、そうしたら何が起こるだろう。

 胃に穴をあけられて無理やりに食べ物を流し込まれてしまうのだろうか。笑いすぎにより酸素濃度が下がったからって酸素ボンベを口にあてられてしまうのだろうか。栄養が必要だからと、体にたくさん点滴をぶっ刺されてしまうのだろうか。笑い病すらも抑え込む強力な睡眠薬を入れられて、強引な眠りを与えられてしまうのだろうか。

「……眠らせてあげたいな、とは思うんですよね」

 おじいちゃんは笑い病になってからこの半年間、ずっと眠りが浅い。

「病院なら、睡眠薬を調整して、僕らよりはうまく眠らせてくれると思うから」

 笑い病患者は、眠っている時でさえ笑い続ける。眠りが浅かったらそれだけ体力を消耗してしまう。

「そうねえ」

 大沼さんは言って、窓の外を見つめる。

「……私たちに出来ることって、限界があるよね」

 大沼さんは、僕がいつも思っていることをぽつりと言った。

「そうですね……」

 けれど僕は同時に、こうも思う。僕らに限界があるということは、他の人にも限界がある、ということと同義なのだ。僕らが物を食べさせることの出来なかったおじいちゃんに、医者が胃に穴をあけて看護師が栄養を流し込む。

 医者や看護師は、食べさせた訳ではない。ただ流し込んだだけなのだ。

 だからつまり。

 僕が思案を深めようとしたその時だった。

『ああああああああああああああああああああああ!』

 元気の良い叫び声が聞こえた。おそらく壁を三つか四つ挟んだところの部屋。

「木下くんね」

 大沼さんが立ち上がろうとしたところを僕は止めた。

「休憩時間中ですよね? 僕が見てきますよ」

「ありがとう」

「休憩時間は休まないと」

 木下くんは来月で十三歳になる男の子で、発症は一年前。最初は、腹を抱えて笑い続ける、という症状だったそうだ。けれど次第に、突発的な大笑いの発作が起こるようになった。

 その発作は尋常じゃない大笑いだ。五百メートル先まではっきりと届く大きな声で、腹の底から笑い続けるので、発作がおさまった後が悲惨だ。喉が切れているので口から血が出てくるし、腹筋の使い過ぎで腹部に激痛が走る。酸欠状態になっているので、息も絶え絶えだ。腹を抑えて肩で呼吸をし、口からダラダラ血を流しながら、そんな状態なのに、発作がおさまった後も木下くんは小さな声で笑い続ける。

 このシェアハウスに来たのは三か月前のことで、

「こんの野郎! 馬鹿野郎! ちんこ野郎! あっはっはっはっは! ぎゃぁあっははははは!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

書き出しメモ集 @asuka_manba

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る