第23話

 序


 時は午後九時。街灯の少ない住宅地は、しんとした静けさと深い闇に包まれている。

 依斗(よりと)は携帯電話の電源を切り、ポケットへとしまい込んだ。

 親からの着信が十件も届いている。心配だから早く帰って来いといったところか。

 高校生にもなれば、部活だの塾だので日付が変わる直前まで外にいるのはざらだ。帰宅が九時を過ぎただけでこんなに電話をかけてくるなんて、過干渉だ。

「ここらへんにいそうなんだよな」

 依斗は闇の中で目を凝らした。

 鳥ノ目市(とりのめし)の中心部から離れたこの南区の郊外では、どの家も広い敷地を持っていて、あちらこちらに畑や空き地がある。そういう空白は、完全なる暗闇に包まれる。

「あ」

 依斗は思わず声を上げた。全身に鳥肌が立ったからだ。

 これは、探している者が近くにいる時の合図。

 うぉおぉおおぁぁあああ!

 男と女と子どもの声が混ざったような、人間のものではない声だ。その声は遠くから。

 依斗は声の方向へ向かって走り始めた。

 ぐぉおおぁあああああ!

 声は近くまで迫っている。

【あああああああああああ!】

「いた!」

 依斗は足を止めた。携帯電話のライトで照らす。

 白い光に照らされて、そこにいるもの。

 顔は赤鬼。角は鹿。上半身は熊で、下半身はタコ。背丈は二メートルくらい。横幅は、相撲取りよりは痩せているだろう。

 ザラザラとした質感の頬、突き刺さったら死にそうな角、手の指は白い鉤爪で、茶色い毛でふさふさな上半身から生えた足はにゅるにゅるのタコ。たくさんついた吸盤からは、水が滴り落ちて地面を濡らしている。

「ああああああああああああ!」

 それは叫ぶ。

 依斗はカバンの中から書物を取り出した。

 江戸時代の古書かというような装丁をした、ボロボロの書物だ。依斗はそれを、兄貴のスケッチブック、と呼んでいる。

 依斗はいくつかページをめくり、あるところで手を止めた。

 真っ白なパージ。下の方に、文字が書かれている。

蛸熊鬼(たこぐまおに)、と。

「そのまんまだな、ほんと」

 依斗は苦笑しつつ、深く深呼吸をした。そして、腹の底から声を出す。

「――我、汝の主の血を継ぐ者なり。血の正当性をもって、汝と再び、百年の誓約を結ぶ」

 すると、蛸熊鬼は吠える声を止めた。

 瞳孔のない真っ黒に塗りつぶされた目で見つめてくる。そして一言。

「断わる」

 予想通りの言葉だ。依斗は続ける。

「百年の誓約は汝を縛らない。汝に安穏を与える」

「――安穏とは?」

「あるべき場所に戻れた、という感覚だ」

「いらぬ」

 依斗はため息をついた。

「兄貴はおまえをとても楽しそうに描いていたのに。何でおまえらはそうなんだろうな」

依斗の脳裏に浮かんだのは、自分の描いた化け物たちを嬉しそうに説明する、在りし日の兄の姿。

「ま、いいや。強制的にやろう」

 依斗はスケッチブックを高く掲げた。

 そして。

「還(かえ)れ!」

 たった一言。

 依斗が言うと、蛸熊鬼の体は銀色の霧で包まれる。

「うぅぁぁああああああああ!」

 この世のものとは思えないその呻き声も、銀色の霧が包み込む。

 数秒。

 霧が消え去った。

 そしてそこに、蛸熊鬼の姿はない。

 それは、スケッチブックの中。真っ白だったページに、彼の姿が描かれている。

 依斗は微笑み、スケッチブックをぱたんと閉じた。

「任務完了」

 これでまた一つ、取り戻した。


 


 

弌 謎の男


 依斗の寝室は二階だ。窓を開けるとすぐそこに、桜の木の枝がある。

 桜の木は家の庭に植えられていて、どうも曾祖父の代からあるらしい。立派に高く成長していて、鳥たちがよくやってくる。

 鳥のさえずりで目を覚ますのは毎朝のことだ。

 依斗はベッドから起き上がり、まだ眠い体を引きずり、一階まで下りると顔を洗い、シャワーを浴びて、パンかなんかを食べようと思いキッチンへ向かった。出勤間際の母親がいる。

「あんた、今日は学校に行きなさいよ」

 もう諦めてるけど、みたいな顔で、母親は言った。

「行くって。行く行く」

 依斗は目線を逸らしながら答えた。

「適当な返事ねぇ。あ、そういえば来週はテストでしょ? あんた、もしかしてテストまですっぽかす気じゃないよねぇ?」

「受けるって。受ける受ける」

 母親は「はぁ」と息を吐く。「ほんっと、どうしようもないね。しゃあないわ。……じゃあ、あたしは仕事に行くからね。家の鍵、きちんと掛けといてよ。洗濯物はそこらへんに散らかさないでカゴの中に入れておいて。使い終わった皿は洗剤に漬けておいてね。じゃ!」

 母親は仕事へと出かけて行った。

 もう諦めてる、みたいな顔をして、けれど言うべきことだけはきちんと言って行くのだから、親というのは恐ろしい存在だ。依斗は心底そう思う。

 パンの上に納豆をのせて、たっぷりのとろけるチーズにマヨネーズ。これで、トースターで五分くらい焼く。それだけでは足りないような気がして、白いご飯も用意する。レンジで温め、バターと醤油をかける。

 お腹を満たしたところで、制服に着替え、バッグを肩に引っ掛けた。

 玄関から外に出ると、太陽の光を眩しく感じた。

 今日は、見事なまでの晴天だ。

 

 高校までは徒歩二十分。途中で並木道を歩く、とても長閑なコースだ。

 空き地と一軒家が混在する広々とした住宅地を抜けて、細い小川に架かった橋を渡り、自然公園の並木道へと入ったところで、依斗は鳥肌が立つのを感じた。

 これは、紛れもなくあの感覚。

「いるのか? この近くに?」

 その時だった。

 人の悲鳴が、した。

「あっちか」

 依斗は並木道から外れ、花壇を飛び越えると住宅地を横切るように走った。

 再び、悲鳴が聞こえる。

 声のした方へ向かって走り続けると、遊具がブランコしかない小さな公園に辿りついた。

「なんだ! なんだおまえは!」

 おじいさんが、地面に倒れて叫んでいる。おじいさんを襲っているのは――。

「蛇兎蛙(じゃとかわづ)!」

 頭は蛇、上半身は兎、下半身は蛙。下半身が蛙なので、背丈は小学生ほどで小柄だが、頭の蛇は、いまにもおじいさんを丸飲みしようと大きな口を開けている。

「蛇兎蛙!」

 依斗はカバンの中から出したスケッチブックの蛇兎蛙のページを開き高く掲げた。

「還れ!」

 銀色の霧が、蛇兎蛙を包み込む。依斗はすかさずおじいさんに近づき、肩に手を置いた。

「立てます?」

 おじいさんは目をまん丸にして依斗を見上げた。

「あれは何かね?」

「気にしないでください。一瞬の幻想です」

「わたしは幻想を見たのか?」

「そうです」

「いよいよ、頭がいかれちまったみたいだな」

「じゃあそういうことで。……立つの、手伝いますよ」

 依斗はおじいさんの手を取り引っ張り上げる。足元が安定するまで背中を支えてやると、おじいさんはにこりと微笑んだ。

「お兄ちゃん、どうもさん」

「お気にせず」

 それからおじいさんは、「いやぁ、困ったなぁ、困った困った、頭がおかしくなっちまった」などと呟きながら、ゆっくりとした足取りで公園から出て行った。

 依斗は蛇兎蛙の方を見やった。

 銀の霧に包まれたまま、まだ消滅していない。

 もうそろそろ、スケッチブックの中へ還っても良い頃合いなのだが。

 と思ったら、銀の霧は一瞬で消え去った。依斗はスケッチブックに目線を落とし――目を見開いた。

「いない⁉」

「シャァァァァァアア!」

 襲い来る気配を勘で交わし、依斗は地面に転がった。

 目の前に、細長い舌を波打つように動かしている蛇の大きな顔が迫ってくる。

「何で還ってない⁉」

 依斗は蛇兎蛙から距離を取るように後退した。

 蛇兎蛙は蛙の足でピョンと跳ねる。

 そしてピョン、ピョン、と追いかけてくる。兎のふさふさな手を依斗に向かって伸ばてくる。勢いよく、牙をむく。

 依斗は蛇兎蛙と対峙するとスケッチブックを高く掲げ、短い深呼吸を一つした。

「我、汝の主の血を継ぐ者なり!」蛇の牙が襲ってくる。「血の正当性をもって、汝と再び、百年の誓約を結ぶ!」

「シュゥゥゥウウウ!」

 今まさに、噛まれようとしている。

「還れ! 蛇兎蛙!」

 銀の霧が再び、蛇兎蛙を包み込んだ。

「シャアアアアアヴゥゥヴヴヴヴ‼」

 霧の奥から苦しそうな声がする。

 そして次の瞬間。

 パンッ‼

 風船が弾けたような音だった。

 銀の霧は消滅し、蛇兎蛙は――いない。

依斗はスケッチブックに目線を落とした。

 真っ白だったそのページに、蛇兎蛙の姿が描かれている。

「良かった、還った。……血の継承者だと宣言する言葉には思ってたよりも力があるんだな……」

 依斗は息を吐きながら、スケッチブックを閉じた。


 蛇兎蛙を還したことで気力を使い果たしてしまった。到底、学校に行く気にはなれず、依斗は高校へ向かうのとは逆方向の市の中心部――駅がある方へと向かことにした。

 鳥ノ目駅は鳥ノ目市で一番の大きな駅で、駅ビルにはご当地グルメのお店がたくさん入っている。鳥ノ目市の名物といえば鳥ノ目蕎麦だ。幅が三センチ以上ある太麺に、地元の赤味噌を使った汁、生卵を二つのせる。

 四十分、歩き続けてやっと鳥ノ目駅に着くなり、依斗は真っ先に鳥ノ目蕎麦の店へと入った。

 注文してから十五分。鳥ノ目蕎麦が運ばれてきた。ずずっと吸い上げ、依斗は息を漏らす。

「うんまい!」

熱々の汁を飲んで汗をかいたところで、次はソフトクリームの店へと向かった。

 濃厚バニラソフトは、生クリームを食べているみたいな味がした。

それから依斗は、駅の待合室で座り過ぎ行く列車たちをぼぉっと眺めたり、みどりの窓口の近くに置いてある鳥ノ目駅百周年記念スタンプを数学のノートに押してみたり、観光案内所の中をぶらぶら見たりもした。

 そんなこんなしているとお昼過ぎになり、なんとなく駅を出た。

鳥ノ目市の西にそびえ立つのは縄雲連山(なわぐもれんざん)。

 その起伏の激しい厳かな稜線は、駅の構内からも見える。

 駅を出て縄雲連山の方向へ歩いて行った。そっちへ行くと、川が流れているのだ。

 川沿いまで歩いて来て、そこで依斗は歩道から河川敷へと降りた。

「いっちょ、やりますか」

 大きめの平べったい石が落ちていないかどうかを探し始めた。

これが、なかなか見つからない。

 三十分ほど探して、ようやく二つ、拾った。

「貴重な一投目! いきあす!」

 依斗は一個目の石を川面に向かって投げた。

 石は川面を一回だけ跳ねて、そのまま水面下へと沈んでしまった。

「ちっ!」

 依斗は二個目の石を手のひらで擦る。

「次こそ……最後の本気! 二投目、いきあす!」

 二個目の石を、投げた。

 石は川面を二回跳ね、沈んだ。

「おかしいなー。四回くらい跳ねらせられたはずなのに。腕がなまったかな」

 ふぅ、と息を吐き、空を仰ぐ。濃い青空に向かって、依斗は呟いた。

「……何やってんだろうな、俺は」

 その時だった。

 背中にぞわりと走る悪寒を感じ、依斗は背後を振り返った。

 けれどそこには何もいない。長閑な雰囲気の河川敷が向こうの方まで伸びている。

「気のせいか」

 しかし再び、背中を優しく撫でられたような感じがした。

「……どこだ⁉」

 右方、左方、上空、地面、背後、あたりをくまなく見渡す。

「どこだ⁉」

 その刹那、水しぶきが舞った。土砂降りのような水が上空から降って来る。

 川の中から姿を現したのは――イルカかと思うほど巨大な鯉(こい)、顔は人間――巨大人面鯉だ。目玉が大きく、可愛らしい顔つきをしている。

「こぉこぉだぁよぉぉぉおおおおお!」

 巨大人面鯉は赤子の声で叫ぶ。

 依斗はカバンの中からスケッチブックを取り出し、巨大人面鯉と記された空白のページを開いた。

「我は汝の主の血を継ぐ者なり! 血の正当性をもって、汝と再び百年の誓約を結ぶ――還れ、巨大人面鯉!」

 銀色の霧が巨大人面鯉を包み込む。

「いぃやぁだぁよおぉぉぉおおおおお!」

 巨大人面鯉はその分厚い尾ひれを水面に思い切り叩きつけた。水は空高くまで跳ね、河川敷に降り注ぐ。

「ぎょぎょぎょぎょぎょぉぉぉぉおおおお!」

 巨大人面鯉は水の中から飛び跳ねる。空中で身を捩り、全身を震わせる。

 その瞬間、巨大人面鯉を包んでいた銀の霧が音もなく消えた。

 依斗はスケッチブックに目を落とす。

「還ってない」

 ページは真っ白なままだ。そして、目の前で巨大人面鯉が口から水を噴いた。

 水は当然、依斗に掛かる。

 依斗はびしょ濡れの前髪を搔き上げると、再びスケッチブックを高く掲げる。

「我は汝の主の血を継ぐ者なり!」

 もう一度、還すために挑戦するのだ。

「血の正当性をもって――⁉」

 依斗は途中で言葉を止めた。

それは突然だった。依斗の目の前に、人の影が入り込んで来たのだ。

「誰だよおまえ⁉」

 人影は答えずに、その手から何かを放った。数枚の紙片だ。それらは巨大人面鯉を囲むように空中に浮かぶ。

「曼荼羅封術(まんだらふうじゅつ)」

 人影は言った。

 すると、紙片と紙片が金色の光の線で繋がり、線と線の間には黄色の透明な幕が下りる。

 黄色の膜は巨大人面鯉を囲む。まるで結界のように。

「封印」

 人影は一言。すると黄色い幕の中は黄金の光で埋め尽くされる。

 巨大人面鯉は悲鳴を上げる。

「なぁにぃぃいいいぁぁああああ!」

 その姿が光に包まれる。

「あぁぁぁぁあああああああ!」

叫び声が響く。。黄色い膜の中が振動する。

「いぃやぁぁあああああああああああああああ!」

 パキン、と金属音がした。

 次の瞬間、黄色い光は跡形もなく消え去った。

 巨大人面鯉の姿は、もうそこにはいない。一瞬の出来事だった。

 依斗は呆然としていた。まるで何が行われているのかわからなかった。

 ふと我に返り、人影のもとへと歩いて行くとその肩を叩いた。

「おい!」

 人影が依斗を振り返った。若い男だ。茶髪で、目つきが鋭くて、黒いジャケットは着古したようによれている。

「おまえ、それ」男は、依斗の抱えているスケッチブックに視線を落とした。「それ、回収するわ。寄越しな」

「は?」

「回収する。早う寄越せ」

 男はちょいちょいと、人差指を動かすような仕草をする。「早うしとくれや」

依斗はスケッチブックを後ろに隠した。

「渡すかよ」

 男は首を横に振る。

「それはおまえが持ってて良いもんやないねん。いいから寄越しな」

「……これは俺の兄貴のスケッチブックだ」

「その兄貴どこにおんねん?」

依斗は押し黙る。すると男は、何かを知っているかのように頷く。

「せやろ、もうおらんのやろ? 知ってんねん。やからそれはこっちが回収する。寄越せ」「……金色の膜みたいなやつは……巨大人面鯉は、どこに行ったんだ?」

 男はふっと息を漏らした。

「見てたやろ? 封印したんや。ここにな」

 男は指でつまんでいる――金色をした、水晶体のような石を。

 ――なんだこいつ。

 怪しいことこの上ない。依斗は男に詰め寄る。

「封印したって? 意味がわからない。巨大人面鯉は……兄貴の描いた絵なんだ。スケッチブックの中から出て行った。だから、スケッチブックの中に戻さないといけないんだ」

「そんな余計なことせんでええねん。いいからそれをこっちに」

「封印だのなんだのって、本気で言っているのか?」

「悪いな。こっちも楽燕の絵描き帳の全ての在りかを特定しとるわけやあらへん。まだ、回収してへんのがようさんある。おまえのもその一つや」

「……は?」

「大変やったろ? もう安心しい。あとはこっちでやる。だから寄越しな」

「……こっちって⁉ おまえは一体何なんだ⁉ 封印って? 巨大人面鯉は⁉」

「面倒なやつやな」

 男は舌打ちをすると、すっと依斗の腕を掴むと強く引っ張った。

男に引っ張られた依斗は体勢を崩す。その隙、足を払われ、そのまま顎を掴まれ地面に倒された。スケッチブックが、地面に落ちる。

――兄貴のスケッチブック……!

止めに腹を蹴られた。依斗は身を丸めて呻く。

 男がスケッチブックを拾いあげる。

「これはもろていくで。お疲れさん」

 男は言い残して去ってゆく。足音が遠のいてゆく。

 ――追いかけないといけないのに……。

 そうは思うが、痛みで動けない。意識も遠くなって行く。

 ――兄貴のスケッチブック……。

 依斗の意識は、落ちた。


 昼下がりの午後だ。ほんわかとした陽光が窓から部屋に入ってくる。

 冷蔵庫から出したての頃はきんきんに冷えていた炭酸ジュースは、窓際に置いておいたせいでもう生ぬるくなって、どうせ飲んでもまずいだけだった。一つ年上の兄はそれが気にならないらしく、まずいジュースを飲みながら、いつものスケッチブックに向かって絵を描いていた。

 ――依斗、見てよ。きもいのが描けた。

 兄は嬉しそうな顔をして出来上がった絵を見せてくるのだ。

 ――頭は猫だ。首は二メートル。胴体は河童で、ほら、大きな皿を持っている。そこから三メートルくらいの手足が四本ずつ出てる。蜘蛛みたいに歩く。

 その生物の名前は何かと尋ねた。

 ――猫河童蜘蛛(ねこかっぱぐも)。

 そのまんまじゃん、と、心底呆れた。もっとかっこいい名前をつけてやればいいのに。

 兄は首を横に振った。

 ――だめだ。わかりやすいのが一番、いいんだ。かっこよさを狙うなんて、そんなキザなこと、するもんじゃない。

 理解に苦しむこだわりだな、と思った。

 ――こいつは人を喰わないんだ。なんてったって頭が猫だからな。けど、手足が長くて蜘蛛みたいに歩くから、とてもきもい。人を喰わないのにきもがられるんだ。可哀そうだよな。

 なぜそんな、可哀そうな生物を描くのか。兄貴は変だな、と思った。

 絵を描いてないで一緒にゲームをしてよ、と、何度言おうと思ったかわからない。けれど結局、兄が絵を描いているところをじっと眺めてしまうのだった。

 それが、依斗が中一、兄が中二の時の思い出。

兄は依斗の憧れだった。少し引っ込み思案なところはあったが、成績が良くて、気が向いたら一緒にゲームをしてくれた。兄は両親からも期待されていた。将来、兄は立派な仕事について、依斗はフリーターになってしまうのではないかと、よく言われていた。

 出来事は依斗が中学二年生の時に起こった。

 依斗の成績が、兄を上回った。

 両親の興味関心は、依斗へとシフトした。将来への期待は依斗が背負うことになった。

 両親の兄への態度は、素っ気ないものへと変化した。

 兄は、それを気にした。

 ――依斗、俺はもう違うみたいだよ。私立高校の受験がなくなった。もし受かっても、俺のために私立の学費を出すのは勿体ないんだってさ。価値がないって。……つまりそれって、その意味ってさ……。

 ――お父さんとお母さんを、おまえに取られちゃったな……。

 もともとインドア派だったせいで、引きこもって絵ばかり描くようになった。

 兄はあからさまに勉強をしなくなった。

 両親は兄のその行動が理解しなかった。

 普通、戦力外通告を受けたら、その評価を挽回しようと今まで以上に頑張るものなのではないか? なぜ、やさぐれて絵ばかり描いているのか?

 ――俺のために金を出すのは勿体ないんだってさ。出せる金はあるけど、その価値がないんだってさ。……俺もそう思うよ。

 兄は傷ついていた。

 心療内科の薬に世話になるようになった。

 そして兄は、薬をため込んでいた。誰もそれに気が付かなかった。医師も、薬はきちんと飲んでいるという兄の嘘を信じた。

 兄がため込んだ薬を一度に全て飲んだのは、半年前のことだ。一月二十日。

 ちょうど依斗の、高校受験の日。

 家ではなく、遠く離れた山の中でそれをした。発見が遅れた。全ての処置は手遅れだった。

 兄が死んだあと、依斗は不思議な発見をした。彼が絵を描き込んでいたスケッチブックを開いてみると、ページがどれも真っ白だった。四百ページほどあるそのスケッチブックに、兄は三百五十ページくらいまでオリジナルの生物を描き込んでいたのに。

 それが全部、なかった。

 その数日後に、摩訶不思議なことが起きた。

 兄が描いた生物が、いたのだ。公園に。子どもを喰おうとしていた。

 とっさにスケッチブックを取り出し、この中に還れと叫んだ。

 そうしたら、戻ったのだった。

 このような出来事が続いた。還れと言っただけで戻ってくれる生物もいたし、しばらく話し込んで説得しないといけないのもいたし、そもそも喋れないやつもいた。

 喋れる生物と話した時に、生物たちは兄の画力によって生み出され、百年の誓約によってスケッチブックの中に閉じ込められていたのだということがわかった。けれど兄が死んだことにより誓約が切れ、生物たちが現実世界を跋扈するようになったのだ。

 再誓約に必要なのは、兄の血を継いでいること。

 依斗は、やろうと決めた。

 生物たちを、スケッチブックの中に戻してやろうと。



弐 彼らの正体


 依斗は目を覚ました。唇を舐めると、土の味がする。

 だいぶ日が落ちて、空は紫と桃色のグラデーションになっている。

夕焼けが、川面に映っている。水面が揺れ動くたびに光の反射も蠢いて、万華鏡を覗いているようだ。

「あの男は……どこ行った……」

 立ち上がると、膝に力が入らない。頭はじんじんと地味に痛む。

「探さないと」

 男が消えた先。どこに行ったのか。

 皆目見当もつかない。

 けれど、一つ考えがある。

「あいつは巨大人面鯉を封印した。あとはこっちでやる、とも言っていた」

 兄の生物の気配を探そう。あの男も兄の生物を探しているはずだ――封印とやらを、するために。

 兄の生物を追い求めれば、あの男と再会出来るかもしれないのだ。

「今までとやることは変わんないな」

 依斗は兄の生物の気配を探すため、歩き出した。

 河川敷から歩道へと上がり、駅に向かう道を歩く。仕事帰りや学校帰り、買い物帰りの人たちとすれ違う。みな、やることを終えたあとの倦怠感を滲ませている。

 駅まで戻ると、喧噪が耳に入ってきた。朝と夕方が、駅が一番、賑わっている時間帯だ。ラーメン屋さんの匂いがする。

 依斗はざわつく感触を覚え、立ち止まってあたりを見回した。どちらの方向から、そのざわつきが寄ってくるのか。

 ふと、日が沈もうとしている方向にテレビ塔があるのが目についた。十階建てのビルと同じくらいの、低めの電波塔だ。試しに、電波塔に向かって歩いてみる。

「……いるかもな」

 そっちに近づけば近づくほど、嫌な予感がしてくる。

 人が並んでいるケーキ屋さんを通り過ぎ、今にも潰れそうになっているレンタルビデオ屋さんを通り過ぎ、横断歩道を渡って、古ビルが立ち並ぶ区画を抜けた。

 すると、目の前に電波塔が現れる。雑草の生えた広々とした土地。その中央に、鉄柵で囲まれて電波塔が立っている。近くで見ると、想像よりも鉄骨がいかつく、迫力のある骨組みが恐ろしく見える。

 依斗は空を仰ぎ見た。

 背中に、悪寒が走った。

 依斗は視線を下げる。電波塔の周辺に広がる、空き地。

 日は暮れた。電灯の明かりが依斗の影を作り、それは空き地の方まで伸びている。

 依斗は息を止めた。

 次の瞬間、地面を突き破るようにして出てきたのは――巨大な芋虫。

「超巨大幼虫!」

 覚えているのだ。スケッチブックの百四十三ページ。

 ――この幼虫はまじでデカい。ヘリコプターと同じくらい、デカい。

 兄は楽しそうに説明をしてくれた。

 ――皮膚の表面にあるぼこぼこは臭気穴だ。ここから臭い液が垂れてる。この臭いを嗅ぐと、並みの人間は気絶する。

 臭気穴、という設定を、兄はとても気に入っていた。

 ――依斗、臭いぞ、これは、すっげぇ臭い。まじで臭い。

 超巨大幼虫は地面の上で蠢いている。皮膚の表面に無数にある黒いぶつぶつ――臭気穴――そこから、下水のような臭いが漏れ漂ってくる。

「なにこれ⁉」

 通りかかった通行人が超巨大幼虫を目にするなり声を上げ、依斗の目の前で腰を抜かした。

「え……。えぇ……⁉」

 呆然とした表情で超巨大幼虫を凝視し、鼻を押さえる。「臭い!」その一秒後には意識を失い、そこでぐったりと横たわった。

 依斗は電柱のところまで通行人を引っ張り、もたれるような姿勢で寝かせてやった。

 通行人をどかせたところで改めて、超巨大幼虫と対面する。

「……我は、汝の主の血を継ぐ者なり。今は、汝の戻るべきスケッチブックが手元にない。取り戻したらすぐに、汝を平穏な場所へと還すことが出来る」

 すると超巨大幼虫はむぐっと、その巨体をわずかに傾けた。依斗の言葉を理解しているのか、いないのか、もぞもぞと動く。

「汝が現実世界に発現していては、他人に迷惑が掛かる。だから、大人しく還って欲しい。いいな?」

 超巨大幼虫は臭気穴を収縮させる。シュゥ、という音と共に、茶色い蒸気が噴き出した。

「……臭い!」

 依斗は思わず叫び、口を押えて咳き込んだ。その時だった。

「なんやこの臭い」

 聞き覚えのある声がした。

「これはすごいね。見たことのない化け物だよ」

 聞き覚えのない声も、した。

 依斗は横目で後ろを見た。

 そこにある、二つの人影。

やはり。

一人は、さっき巨大人面鯉を封印したと言っていた黒ジャケットの男。そしてもう一人、藍色の羽織を着て、下駄なんかを履いている和風な男だ。

「これ、羽化して大きな蝶々になったりするのかな?」

 和風な男が嬉々として言った。

 ――蝶々じゃない。兄貴は蝶々なんか好きじゃなかった。

依斗が言おうとすると、彼はこちらに気がついた。

「おや? 君は?」

 依斗はそれには答えず、

「スケッチブックを返せ」。

 言うと、黒ジャケットの男が困ったような顔をする。

「返せへん言うとるやんか。呆れたガキや」

 その言葉に、和風な男は眉根を寄せる。

「スケッチブック? どういう意味だい?」

「返せって言ってんだよ! あれは兄貴のスケッチブックだ!」

「返すって君、どういう意味だい?」

「さっき回収した絵描き帳の持ち主や」巨大人面鯉を封印した男は鬱陶しそうに言う。「回収しようとしたら拒否しおったから強引に取ったんやけど……付いて来よった」

 和風な男はその説明に納得したようで、なるほどと頷くと依斗に目を合わせてにこりと微笑んだ。

「ごめんね。あの絵描き帳はとても危険な物なんだ。だから僕らが預かっておく。君は安心して家にお帰り。そしてあの絵描き帳のことは忘れてくれ。頼む、僕らからのお願いだ」

「あんたら誰だよ」

「頼むよ。忘れてくれないと、僕らは困ってしまう」

「何であんたらが困るんだよ?」

「この絵描き帳は、僕らが回収しないといけないものなんだ」

 依斗の頭に、血が昇った。

 彼らは一体、何様なのだろう。いきなり現れたと思ったら訳のわからないことばかりをべらべらと喋る。

「……スケッチブックを返せ。早く!」

 依斗が彼らに掴み掛かろうとした、その時だった。黒ジャケットの男に横から腹を蹴られ、依斗は地面に転がった。立ち上がろうと手をつくと、和風な男が依斗の顔面に向けて、自身の手の平を見せてくる。

「……志那都比古神(しなつひこのかみ)の息」

 そう、一言。彼の手の平から、風の塊が勢いよくが吹き出した。

その風に巻き込まれて、依斗の体は遥か遠くまで飛ばされた。


 そこには藍色の空が広がっている。夜が訪れる直前。宵の口、というやつだろうか。涼しい風が、頬を撫でてくる。

 依斗はハッとなり、体を起こした。途端に、痛みを感じる。

 全身が痛い。背中も、尻も、足も腕も。腹も胸も。

 電波塔はどこかと、視線を動かす。すると、少し向こうの方に見えた。二区画くらいは先だろうか。随分と飛ばされてしまった。

 痛みを堪えながら立ち上がり、一歩を踏み出した。

 まるで足腰の弱った老人のように歩き方になってしまう。ゆっくりと歩いてやっとのことで、電波塔のところまで戻った。

すると――黒ジャケットの男と和風な男、彼らはまだそこにいる。そして、超巨大幼虫の姿が、ない。

「どこに行った⁉」

 依斗の声が聞こえたようで、二人が振り向く。

「なんや、戻って来たんか。ほんましつこいやつやな」

「結構、遠くまで飛ばしたんだけどね。タフだね」

「幼虫は⁉」依斗は叫ぶ。「幼虫はどこだ⁉ さっきまでここにいただろ!」

「ここ、ここだよ」和風な男は指につまんだ勾玉を見せてくる。「この中に封印したからね。だから、君はもう心配いらない」

「封印?」

「そうだよ、封印」

 まただ。その言葉。封印。

「聞いたことないかい? 封印は封印だ」

「ふざけんなよ。あれは兄貴がスケッチブックに描いたやつらなんだ。何でか知らないけど、兄貴が死んだら現実世界に現れた。だから俺はスケッチブックに還してやってきたんだよ。それを……」

「それを、僕らは封印しているんだ」

「……あんたら何者なんだ?」

 黒ジャケットの男がため息をつく。

「わからんやつや。絵描き帳はこっちが回収する言うたやろ。もうおまえの物やないねん」

「違う。兄貴のだ」

「同じことや」

「意味がわからない! あんたらの正体は⁉」

「封印術師だよ」

 和風の男が答えた。

「君の持っていた絵描き帳はね、画家が死ぬと、中に描いてあったものが実体を持って発現する。いつ、どこに発現するかは予測が不可能。とても危険な絵描き帳なんだ」

「知ってる! 俺がこの半年間、スケッチブックの中に還してきた!」

 兄が描いた絵たちは実体を持って発現していた。人に危害を加えようとしていたのだ。

 蛇兎蛙は、おじいさんを襲おうとしていた。

 超巨大幼虫から放たれた臭気は人を気絶させた。

 その他にもたくさん、兄が描いた生物は他人に迷惑をかけてきた。

「自分の描いた生物が他人を困らせているなんて、兄貴が知ったらきっと落ち込む。だから俺が還してやってるんだ。封印? とか、よくわかんないけど、余計なことすんな」

「君が死んだらまた同じことだ。それよりも今、封印してしまった方がいい」

「いいからスケッチブックを返せって!」

「物分かりの悪い人だねぇ」和風な男は息を吐く。「……僕らはプロなんだよ。面倒なことは、プロに任せた方がいいだろ?」

「止めや」黒ジャケットの男が遮るように言う。「そのガキになに言うても無駄や。通じてへんし、聞いてへんやん。話すだけ無駄や。このガキほっておいて、はよ帰ろ」

「でもここで説得をしておかないと。また付いて来てしまう」

「そのうち諦めるやろ」

「おい!」

 怒りのあまり、依斗は叫ぶ。

「兄貴のスケッチブックを返せって言ってるだけなんだよ! こっちの言うこと聞けって! 封印したとか意味のわからないことばっかり……っ!」

 突然に力が抜けて、依斗は屈んだ。盛大に咳をする。吐き出したのは、血だ。

 和風の男が驚いた顔で駆け寄って来る。

「大丈夫かい⁉ もしかして、僕がさっき吹き飛ばした時に怪我したのかな。優しい風で運んでやったのだけれど」

「……っぐぉほっ!」

 依斗は激しく咳き込む。再び、喀血だ。

 黒ジャケットの男はうんざりとしたような息を吐く。

「んなガキ放っておきや。はよ帰ろ」

「けど僕のせいで怪我したんだとしたら……。いったん、楽朴堂(らくぼくどう)で休ませてやろう」

「部外者やろ。あかんて」

 依斗は頭を抑えた。頭が割れるように痛い。

「このまま死なれてみろ。僕らの責任になってしまう」

「んなひ弱なガキには見えへんけど」

「でも血を吐いている。やはり術を使ったのはやりすぎだったかな。君も思い切り蹴っていたし」

「そうでもせぇへんとこいつから絵描き帳を回収は出来へんかったんや」

「こないだも強引に回収して怒られたばかりだろう?」

「回収せんくても怒るくせにな」

 そう、二人の会話する声はだんだんと、籠って聞こえてくる。

「ひとまず楽朴堂に連れていく。……車を取って来てくれ」

「あぁ?」

「早く」

「……はぁ……。おい、ガキ」

 依斗は肩を揺さぶってくる手を感じた。

「おまえが諦め悪いのがいけないんや。わかるやろ」

 耳元で囁かれたその言葉を最後に、依斗は気を失った。


 


 そこは和室のようだ。左側は障子、向かいには襖、右側は縁側で、欄間には龍を模したような木材彫刻が、そして天井には太い梁が通っている。けれど床は木材のフローリング、天井の照明はシャンデリア風だ。

 縁側から、穏やかな日ざしが差し込んでくる。

依斗は上半身を起こした。

自分が、深緑色のあまり沈み込まないソファに寝かされていることに気が付く。

「ここが……?」

 和風な男が言っていた楽朴堂、という場所だろうか。

「いやぁ、やっぱり離島で釣りするなら一週間は欲しいところだね。行きと帰りで二日使う。中一日だと、天候が悪かったら全部パーだからね」

障子の外から聞こえてくるその声は、おそらく和風な男のものだ。

「メジャーから穴場まで網羅するとなると、小さい島とはいえやはり一週間だ。となると無理だね。一週間も仕事を開けられないよ。鳥ノ目市が化け物だらけになってしまう」

 どうやら、電話で通話をしているらしい。

「うん、うん、そうだね、悪いね。僕も早く穏やかな隠居生活に入りたいよ。今はまだ稼ぎが足りなくてね。……そうだよ、聞いてくれ。一つ封印したところで大した報酬じゃないんだよ。ったく、割に合わない仕事さ。僕も出来るものなら君みたいになりたいよ。あぁ、またな」

 ピコン、と、通話終了を知らせる音。

 障子が開き部屋の中に入って来たのは――思った通り、和風な男だ。片手に、急須と茶碗の載ったお盆を持っている。

 依斗の寝ているところまで来ると目を合わせるように屈み、微笑みを向けてくる。

「おはよう。二日ぶりだね」

 依斗は目を見開いた。

「二日⁉」

「うん。君は二日間、寝てた」 

「……携帯……携帯電話……」

「カバンは足元にあるよ」

 彼の言う通り、足元にカバンが置いてある。

取り出した携帯電話を見てみると、充電は切れる寸前。着信通知が二十五件。二十件は母親から。五件は父親から。チャットの未読が六件。それはクラスメイトから。

 捜索願なんか出されたらたまったものではない。依斗はすぐに、母親宛てに『生きてます』と送った。

「ほら、飲みなよ」

 和風な男が碗にお茶を注ぎ差し出してくる。

 ぎこちなく受け取り、一口含み、そして依斗は、ぶはぁっと吹き出した。

「まっず! これまっずい! お茶じゃないだろ! なんだこれ!」

「青汁」

「普通のお茶、ちょうだい」

 和風な男はため息をつく。

「我がままなんだね……。茶葉なんてうちにあったかな」

 彼はぼやきながら部屋から出て行く。

 戻って来ると、その手にはティーバックが握られている。

「紅茶があった」

 依斗は心底呆れた。

「二日も寝てた人間にいきなりカフェイン飲ますのかよ⁉ あんたは⁉」

 和風な男は「えぇ?」と首を傾げる。「嫌かい?」

「水でいい! 水持って来てよ」

「我がままだなぁ」

「喉乾いてんだから! 早く持って来いって!」

 再び部屋から出て行った和風な男。そして戻ってくると、その手にはきちんと、水の入ったグラスが握られている。

 そんなこんなで、やっとのことで喉が潤い、依斗は一息ついた。

「で、スケッチブックの話なんだけど」

 言うと、和風な男は首を傾げる。

「スケッチブック?」

「とぼけんな。こっちは覚えてるんだから」

 和風な男は苦笑する。

「絵描き帳ね。あれね、あれはもう、地下に降ろした」

「地下?」

「ここの地下。保管庫だよ。安全な場所だ。回収した絵描き帳はもう二度と、地上には上げない」

 依斗はあんぐりと口を開いた。

「勝手に……! 俺の兄貴のスケッチブックなのに……!」

「ごめんな」

 依斗は視線を落とした。

 納得がいかないのだ。あのスケッチブックに、兄は一生懸命、絵を描いていた。あのスケッチブックの中に絵たちを還してやるのは、依斗の仕事だ。

 ふと依斗は顔を上げる。

「……保管庫はどうやって行く?」

和風な男は困った顔をする。「……なぜ?」

「とりあえず、兄貴のスケッチブックをこの目で直接見たい。じゃないと落ち着かない。保管庫に連れてってくれ」

 その時だった。

 ごぉん、ごぉん、と、低い鐘の音が鳴った。その音は部屋の全体に響き渡る。

 まるで部屋の中央に鐘があるかのようだ。ごぉん、ごぉん、ごぉん……。それは何度も、繰り返し。

 和風な男が立ち上がる。

「ちょうど話をしていたところで、保管庫で異変だ……少し行ってくるよ。君はここで休んでいなさい」

「いや」依斗はソファから立ち上がった。「俺も付いて行く」

「休んでなさい」

「行く」

「なぜそんなに頑固なんだ?」

「あんたは知らない。兄貴にとってあのスケッチブックがどれだけ大事なものだったか」

 急に奪われて、危険な物だからと言われて、それで納得しろと言われても困る。

 すると和風な男は、微笑した。

「仁藤五蘭(じんどうごらん)だ」

 依斗は「え?」と聞き返す。

「仁藤五蘭、僕の名前。君の名前を聞いてもいいかな?」

「……江場依斗(えばよりと)」


 和室を出ると、長い廊下が伸びている。左手に進み、突き当りにある扉を押すと――そこには下へ向かって長い階段が続いている。

 石造りの階段で、歩くと靴音がこだまする。仁藤が早足で下りてゆくので、依斗は息を切らしながら付いて行く。

 おそらく二百段は下った。ここまで下りると真っ暗で周りが見えない。

 足が、平坦なところに着いたのがわかった。

「火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)の炎」

 仁藤が呟いた。ぼぉっと、暗闇の中に炎が現れる。石の床にはうっすらと、銀製のハッチが浮いて見える。

 仁藤はそのハッチを開けた。炎がその下を照らした。階段が、下へ伸びている。これも下りるのかと依斗がうんざりしていると、仁藤が階段の脇から何かを引っ張りだした。ロープだ。

「これで下まで行くよ」

 仁藤は言うなりロープを掴み、しゅるしゅると降りてゆく。依斗も同じようにした。

 下へ着くなり、依斗は目を見開いた。

 そこにある空間。

 四方の岩壁に、書物が絵画のように飾られている。どれも表紙が古びていて、博物館に飾ってある江戸時代の書みたいだ。全て、依斗の兄のスケッチブックと似ている。

「これは……」

「ここにあるのは全て、僕らが回収した楽燕(がくえん)の絵描き帳だ。四十三冊ある。けれど楽燕は鳥ノ目市で七十八冊も作ったらしい。つまり、まだ三十五冊が回収出来てない」

「兄貴のは……?」

 依斗が岩壁に近づいた時だった。

「下がって!」

 突然、一冊の書物の表紙から黒い煙が噴き出し、飛び出して来たのは――蜂の群れだ。

群れは羽音と共に迫ってくる。蜂の群れは途切れない。次から次へと飛び出して来る。

 仁藤は地面に小石を放った。依斗の目で数えたところ、四つの小石。

「磐座結界(いわくらけっかい)」

 仁藤は呟く。すると、床に放たれた四つの石が青い光の線で繋がった。正方形が浮かび上がる。そこから、青い光の柱が上に向かって伸びた。

 依斗は目を見開いた。

 これは一体何なのだろう。魔法のようだ。見たことのない、幻想的な現象。

 蜂の群れは青い光の柱の中に閉じ込められた。その中で蜂たちが暴れ、青い光は軋む。

 仁藤はもう四つ、石を放った。さっき放った四つよりも外側に。

「磐座結界」

 その外側の四つの小石が青い光の線で繋がって、そこから青い光の柱が伸びる。蜂を閉じ込めている柱が、二重になったのだ。

 依斗はすっかり言葉を失い、目の前にある青い光の柱を見つめた。

「この絵描き帳は、三年前に回収したんだ」蜂が飛び出して来た書物を指さし、仁藤は言う。「この絵描き帳の画家は養蜂家だった。絵描き帳に蜂の絵を描いていたんだ。よぼよぼのおじいさんだよ。彼は三年前、不用品を処分するために家の前でバザーを開いていたんだ。不用品の中に、この絵描き帳もあった。僕はたまたまその家の前を通りがかり、おじいさんから絵描き帳を回収出来たんだ。そして、この保管庫に降ろした」

 依斗はハッとなる。

 兄が死んだら、スケッチブックが真っ白になり、中の絵が実体を持って町の中に現れた。

 そして目の前の書物も、蜂の絵が実体を持って現れた。

「そのおじいさんは……」

 仁藤は頷く。

「こうして蜂が実体を持って発現してしまったということは、つまり誓約が切れたんだ。おじいさんは亡くなったみたいだね」

 仁藤は結界の中で暴れる蜂たちを見つめる。

「おじいさんの血を引く人間ならば、再び誓約を結ぶことで蜂たちを絵描き帳の中に戻してやれる。けれどそれをしたって、その誓約を結んだ人が死んだらまた、蜂たちは実体を持って発現してしまう。その繰り返しだ。だから、実体を持って発現してしまったものたちは封印する。そして」

 仁藤は保管庫の中をぐるりと見渡す。

「絵描き帳がこの保管庫の中にあれば、発現したとしても保管庫の中に出る。鳥ノ目市内には出ない。この保管庫はそういう場所だ。特殊な術が施してあってね」

 仁藤は懐から何かを取り出した。依斗は目を凝らす。

 勾玉だ。深い緑色をしている。

「これは玉屋命(たまのやのみこと)の勾玉だ。っと、その前に」

仁藤は右手を結界に向けた。

「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」

 手から剣先が伸びて、それは青い光の柱を突き破る。破裂音を立てて、青い光が消え去った。

 自由になった蜂の群れが、依斗の方に迫ってくる。

「――出雲封術(いずもふうじゅつ)」

 仁藤は勾玉を宙へ投げた。勾玉が緑の光を放つ。

 すると。

 蜂の群れが、勾玉の中へと吸い込まれていった。

 全ての蜂が吸い込まれ、勾玉は緑の光を失いただの石へと戻った。

 仁藤はその勾玉を、隅のところに置いてある壺の中に入れる。

「これが封印だ」

 しん、とあたりが静まり返った。青い光と緑の光が残していった湿気が、岩壁に張り付き水滴となって落ちてゆく。やがて、ぽたん、ぽたん、と水滴の音がし始める。

「ここだと紙が湿気りそうだけど」

 依斗が言うと、仁藤は首を横に振る。

「不思議なことにね、楽燕の絵描き帳はカビないんだ」

「……その楽燕っていうのはなに?」

「三百年前の画家さ。化蛇(かだ)と呼ばれる妖怪でもあった」

「妖怪……」

「化蛇は中国から日本へやって来て、蛇神の力を借りて独自の妖術を作り出した。その妖術を用いて、絵描き帳を作った」

「それって本当の話?」

「もちろん」

「俺を騙そうとして適当に言ってるんじゃないよな?」

「僕の封印術を見ていなかったのかい? 君の知らないことが、世の中にはたくさんある」

「……兄貴の……兄貴のスケッチブックは?」

「そこにあるよ」

仁藤が指さした左下。そこには確かに、見覚えのあるスケッチブックが飾ってある。

「兄貴は、妖怪が作ったスケッチブックに絵を描いてたんだな」

「そういうことになるね」

 依斗は岩壁に架かっているスケッチブックたちを見つめた。ざっと四十冊くらいはある。どれも兄のスケッチブックと似ている。

「あれなんかはさ」仁藤は右上の真ん中らへんにあるのを指さす。「君と同じパターンだ。つまり、画家の死後に回収した絵描き帳」

「ってことは……」

「画家は絵描き帳にたくさんの吸血鬼を描いていた。けれど絵描き帳を回収したころには、もう中は全て真っ白になっていた」

「その吸血鬼たちは……」

「鳥ノ目市内で実体を持って発現していた。百六十人くらい」

「それを封印したのか? 全部?」

「そうだよ。半年くらいかかった。その間、彼らに血を吸われてしまった人々がたくさんいた」

 想像の産物である絵が実体を持ち市内に発現すると、それは人に危害を与える。

「何でもっと早くにスケッチブックを回収しなかった? 生きてるころに回収してれば、いまの蜂みたいにここで封印出来たんだろ?」

「絵描き帳を回収出来るかは運次第なところもある。よく考えてみてくれ。この鳥ノ目市内に七十八冊の絵描き帳がある。それは、どこだかわからないところにある。さあ、回収してくれ。……出来ると思うかい? 妖怪の品とはいえ、ただの紙束なんだよ」

「すごく条件の悪い宝探しだな。ヒントも何もない」

「その通りだよ。ヒントなんてないんだ。むしろよく四十三冊も回収したよね。感心するよ、自分たちにね」

「俺にしたみたいに、見つけたら奪い取る感じで?」

 仁藤は苦笑する。

「奪い取るだなんて……回収と呼んでくれ。……状況はそれぞれだよ。その吸血鬼の絵描き帳の場合は、画家が体調不良だったらしい。心不全でお亡くなりになって、死後、遺族が遺品整理を業者に頼んだ。その業者が僕の友達で、絵描き帳を見つけたと連絡をくれたんだよ」

「捨てられてた可能性もあったってこと?」

「もちろん。回収出来るかは運次第」

「でもゴミとして捨てられたんだとしたら、火に燃やされるんだろ? 別に問題ないよな」

「楽燕の絵描き帳は燃えても生き返る」

「生き返る?」

「妖術さ」

 依斗は黙り込んだ。世の中には知らないことがたくさんある。仁藤のさっきの言葉を思い出す。

「それであんたらはスケッチブック……絵描き帳を回収して、発現した絵を封印して……」

「わかるかい? 重労働だよ。今もまだ、鳥ノ市には封印していないのがたくさん潜んでいる。僕たちのわからないところで息を潜めている絵描き帳たちも」

 依斗は保管庫の中を見渡した。

 隅に一メートルほどの壺が七つ、置いてある。

「あれの中は?」

「見てもいいよ」

依斗は近づき、壺の中を覗いた。勾玉や、金色の水晶体がたくさん入っている。これが全部、封印したやつなのか。

「あんたの言うことを信じるとして……兄貴はスケッチブックを家の倉庫で見つけたんだ。それで、紙の質を気に入って絵を描き始めた。何でその妖怪が作ったとかいうスケッチブ……絵描き帳がうちにあったんだ?」

「楽燕には画家の弟子がたくさんいた。弟子が絵描き帳を受け取り、子孫が代々と受け継いで来たんだろう。つまり、君の先祖は楽燕の弟子だったのかもね」

「……へえ……」

「それか、楽燕が適当に誰かにあげて、貰った人が大切に保管していて、そのまんま、とかね」

「そういうのもよくわかっていないんだな」

「その通りさ。絵描き帳がどこにどのような形で存在しているのか、手がかりは少ない」

「へえ……」

「ここまで説明してもまだ信じられないかい?」

「いや」

 依斗は息を吐いた。

 なんだか気が抜けた。

 兄が死んでからこの半年間、兄の遺した摩訶不思議と一人で戦って来た。

 たくさんの、兄が描いた生物たちを、スケッチブックの中に還してきたのだ。

 半年間も一人で頑張ってきたのに、まるであっさりと種明かしをされたみたいで。

 依斗は仁藤の目を見つめる。常人ならざる目をしている。

 彼ならきっと、兄の描いた生物たちを、町の中で実体を持って発現してしまった彼らを、全て封印してくれることだろう。

「俺はこの半年間でたぶん、百体近くをスケッチブックの中に還した。そいつらは?」

「君が死んだ後にここに発現するだろうからその時に封印する」

「俺が死んだ後……そん時あんたらはもう」

「わかってるよ。次世代の術師に託す。この保管庫ごとね」

 依斗は理解した。

 この半年間、ずっと余計なことをしてきたのだ。スケッチブックに還すべきではなかった。還してしまった兄の絵たちは、依斗が死んだあとにここに発現するのだろう。さっきの蜂たちのように。そして誰かが、それを封印するのだろう。

 とんだ手間だ。

 落ち込んでいると、仁藤が顔を覗き込んでくる。

「どうしたんだい? しおらしい顔しちゃって」

「……兄貴のために、って思ってたんだ。それだけ」

「……お兄さま、ご病気か事故か何かだったのかな?」

「……いや」

 依斗は顔を歪めた。

「……俺が殺したような感じだ」

「まさか。そんなわけないだろ。シャバにいるんだし」

「そういうことじゃないんだ」

 兄が、両親からの期待という名の梯子を今もまだ背負えていたのなら。

 兄はその梯子を喜んで背負い続けたに違いない。それを生きがいとしたに違いない。

「……俺が、兄貴よりも良い成績を取らなければ良かったんだ」

「子どもが勉強するのは偉いことじゃないか」

「そういう話じゃない」

「ならどういう話なんだい?」

「兄貴は正しかったんだ」

 両親から梯子を外されて心苦しかっただろう。

 けれど反抗することもなくグレることもなく、ただただ引きこもりになって、絵を描いて、そして一人で死んだ。誰も傷つけずに。誰にも迷惑をかけずに。

「兄貴は正しかったし、絵を描いている時はとても楽しそうだった。それだけの話。そして、俺に出来ることはもう何もないんだろうなって、そういう話」

「そうかい?」

 仁藤は腕組みをして首を傾げる。

「君、僕らの仲間になるかい?」

 何を言われたのかがわからず、依斗はぽかんとする。

「術を教えてあげるよ。君にも使えそうなやつをね。……お兄さんの描いたわけのわからん化け物、と言っていいのか……生物たち? これからもどんどん市内で実体を持って発現するだろう。封印するかい? 僕らと一緒に?」

 依斗は大きく目を見開いた。

「やる!」

 力の込められた声で、言った。


参 初めての封印術


 縄雲連山の一峰、標高六百メートルの白景山(しろかげやま)。山道が整備されていて標高も低く、登りやすい山だ。登山口付近には広い駐車場と、お土産屋さんや蕎麦屋さんなどが並んでいる。登山口付近から車で十分ほど走ると、こじんまりとした集落がある。崖沿いに、段々に作られた石垣の上に家が建っている。

 その中の一つ、大きな古民家がある――楽朴堂だ。

 その縁側に、二人の男が並んで座っている。

 一人は胡坐。一人は正座。

 胡坐の彼は、太ももの上に頬杖をつき気だるげな表情で正座の男を見やった。

「おれはおまえのこと仲間や思いたない。子分言うたほうがしっくりくるわ。んなわけで、おまえは子分や。そのつもりでな」

 この胡坐の男、数日前に巨大人面鯉を封印した彼である――名を麻根直弥(あさねなおや)という。

 そして正座をしているのは――依斗だ。ほんの数分前、麻根と同じように胡坐で座ろうとしたのだが、麻根に正座しろと言われた。

「足、崩したらダメ?」

 依斗は尋ねた。麻根は「はぁ」と息を吐く。

「おまえ何言うとんねん、ダメや。んな当たり前やろ、子分に楽は許されてへん。修行僧みたいなもんやからな」

「……修行僧は楽したらダメ?」

 麻根は再びため息をつく。

「……んな、当たり前やろ。修行僧は人間やないねんから、楽も胡坐も許されへん」

「修行僧は人間じゃないのか?」

「修行僧は修行僧であって人間やない。当たり前やろ。おまえアホなん? ……ま、ええわ。ほい、これ」

 麻根が見せるように置いたそれは、三枚の紙札だ。

「これは……?」

「おれの曼荼羅封術(まんだらふうじゅつ)は、札が大事な要素や」

「曼荼羅封術?」

「おれが使うてる封印術や」

「封印術」

「せや。これはな、本人の資質は関係なしに、良い札を書いてスキルを磨いて、ある程度の悟りに達すれば誰でもやれる。仏性の術いうのは、誰でも使えるのが良いところや」

「誰でも……」

「仁藤の術は誰でもは無理やねん。あいつは神道の神さんたちと契約を結んでる。神道の神さんたちはな、誰でもは受け入れてくれへん」

「へえ……」

「で、この札な。一番、簡易な札や」

 一番上にある札を指さす。

 文字が書かれている。真ん中に一つの文字、それを囲うように八つの文字が配置されている。依斗の見たことのない文字だ。筆で書いたような文字で、歴史の教科書に載っていた古代文字を連想させる。

「この札が表しとるのは中台八葉院(ちゅうだいはちよういん)や。上が東で宝憧(ほうしょう)如来、そこから右回りに普賢菩薩、開敷華王(かいふけおう)如来、文殊(もんじゅ)菩薩」

「一回ストップ」

「なんや?」

「如来とか菩薩って……寺の話でもしてんのか?」

「おまえほんまアホやな。曼荼羅言うたやろが」

「曼荼羅……」

「胎蔵界(たいぞうかい)曼荼羅や」

「……は?」

「まあええわ。まずはおれの説明を最後まで聞きや。それくらいアホでも出来るやろ。――で、文殊菩薩の隣から、無量寿菩薩、観自在菩薩、天鼓雷音(てんくらいおん)如来、真ん中にいるのは大日如来や」

「この文字は」

「最後まで聞け言うとるやろ。で、文字やろ? 文字はな、これは種字しゅじ)や。一つの仏さんを表す一つの文字。梵字言うてな、サンスクリット語や」

「サンスクリット……」

「知っとるか?」

「……もちろん」

「嘘やな。まあええわ。菩薩さんは如来を目指して修行しとる仏さんや。如来さんは悟りに達した仏さん。まずはそれだけ覚えとき。で、次な」

 麻根は二枚目の札を指さす。

「これはさっきのよりもたくさん書いとる。こっちの方が力が強い」

 さっきの札は真ん中に一字、それを囲う八字、と、九つの字が書かれていた。

 けれどこの札に書かれている字数は、パッと目で数えた限り――六十一。小さな字で目一杯書かれている。札から伝わってくる圧迫感は、さっきの札とは比べ物にならない。

「これ手書きか?」

 依斗は恐る恐る尋ねた。

 麻根はため息をつく。

「おまえほんまなんやねん。封印術の世界に機械化なんて言葉はあらへんで。札は全部手書きや」

「でもだって六十一個も文字が」

「せや。全部手書きや。で、この札はさっきの中央八葉院の周りに、さらに、上に遍知院(へんちいん)、下に持明院、右に金剛手院(こんごうしゅいん)、左に蓮華部院(れんげぶいん)」

「ちょっと待ってタンマ。全然、言葉が頭に入ってこない」

「気合が足りひんな。いいから聞いとけ。遍知院には左から七俱胝仏母(しちぐていぶつも)、仏眼仏母、一切如来智印、大勇猛菩薩、大安楽不空真実菩薩(だいあんらくふくうしんじつぼさつ)の五つ、そして下の持明院には勝三世明王(しょうざんぜみょうおう)、大威徳明王、般若菩薩、降三世明王(ごうざんぜみょうおう)、不動明王の五つ」

「タンマタンマ。何言ってるかわかんない」

「右の金剛手院には発生金剛部(はっしょうこんごうぶ)菩薩、金剛鈎女(こんごうこうにょ)菩薩、金剛手持金剛(こんごうしゅじこんごう)菩薩、金剛薩埵(こんごうさった)菩薩、持金剛鋒(じこんごうほう)菩薩、金剛拳菩薩、忿怒月黶(ふんぬがってん)菩薩、虚空無垢持金剛菩薩、金剛牢持菩薩、忿怒金剛持菩薩、虚空無辺超越菩薩、金剛鎖菩薩、金剛持菩薩、持金剛利菩薩、金剛輪持金剛菩薩、金剛説菩薩、懌悦(ちゃくえつ)金剛菩薩、金剛牙菩薩、離戯論(りけろん)菩薩、持妙金剛菩薩、大輪金剛菩薩の二十一仏」

「なに言ってんの……?」

「左は蓮華部院。被葉衣(ひようえ)菩薩、白身観世音(びゃくしんかんぜおん)菩薩、豊財菩薩、不空羂索(ふくうけんじゃく)菩薩、水吉祥(すいきちじょう)菩薩、大吉祥変菩薩、白処尊菩薩、大随求(だいずいく)菩薩、窣堵波大吉祥(そとばだいきちじょう)菩薩、耶輪陀羅(やしゅだら)菩薩、如意輪菩薩、大吉祥大明菩薩、大吉祥明菩薩、蓮華部発生(れんげぶほっしょう)菩薩、大勢至(だいせいし)菩薩、毘哩俱胝(びりぐち)菩薩、聖観自在(しょうかんじざい)菩薩、多羅菩薩、大明白身菩薩、馬頭観音菩薩、の二十一仏、以上、合計、六十一」

 まるで呪文だ。依斗がポカンとしていると、麻根は三枚目の札を指さす。

「これは完全版の札や」

 その札は恐ろしいほど小さな文字で埋め尽くされている。数えきれないほどだ。

「遍知院の上に釈迦院と文殊院、持明院の下に虚空蔵院と蘇悉地院(そしつじいん)、金剛手院のさらに外側に除蓋障院(じょがいしょういん)、蓮華部院の外側には地蔵院がある」

「さっきから思ってたけどそのなんとか院ってのは」

「部屋みたいなもんや。で、釈迦院やな。ここにおるのは如来捨、如来喜、舎利弗(しゃりほつ)、迦葉葉(かしょうは)、須菩提(しゅぼだい)、大目犍連(だいもくけんれん)」

「もういい!」

 依斗は遮るように言う。

「そんなに一気に言われてもわからない!」

 すると麻根はぺちんと一発、依斗の頭を叩いた。

「アホかおまえは。とんだ生意気やな。もういいってなんやもういいって」

 ふぅ、と息を吐く。

「こんなガキがどんな役に立つんやろな。仁藤も見損なったわ。……ま、ええわ。そこまで言うなら説明はなしや。やることだけ教えたる」

 麻根は縁側の下から木箱を取り出した。一体何が入っているのかと依斗が見つめている前で、蓋を開ける。中にあるのは、大量の半紙だ。細い筆も入っている。硯と墨も。

「種字胎蔵曼荼羅図を基にしたこの完全版の札を書けるようにせえ。それまでは帰られへんから」

 立ち上がり、縁側から出て行く。

 一人残された依斗は、麻根が置いて行った完全版の札を手に取った。

 一文字が一つの仏尊を表す。文字は梵字といい、サンスクリット語で使われている文字だという。それだけは理解出来た。

 漢字よりは簡素な字体だ。真似して書くことは出来るだろう。

 依斗はさっそく、筆を手に取った。


 もう何時間、筆を動かし続けただろうか。依斗の右手は、墨で真っ黒に染まっている。

 丸めた半紙が積みあがったゴミ山も出来ていて、猫の背丈ほどの高さになっている。数えきれないほどの札を書いた。それでもまだ、手本を見ながらでないと書けない。

「やっとるかいな?」

 後ろから声がして、依斗は振り返った。アイスバーを片手に、麻根が縁側に出てくる。

「お、やっとるな」麻根はそこから突然、真顔になる。「こらおまえ」

 その不穏な反応に、依斗は眉根を寄せた。

「この数時間、ずっと真面目にやってたんだけど」

「ちゃうねんこれ……」

「何だよ?」

「書き順が変やねん。間違うてる」

「か……きじゅん……?」

 依斗は呆然とした。そんなことは考えもしなかった。とりあえずそれっぽい形になるように筆を動かせばいいと思ってやっていた。

「書き順なんてあるのか? この梵字とやらに?」

「当たり前やろ。字にはな、書き順ちゅうもんがあんねん世界の常識や。ほら、この字を見てみ」

 麻根は札の一番真ん中、大日如来を表した梵字を指さした。

「この線とこの線をつなげて書いとるやろ? ちゃうねん、ここで止めてここから書き出すんや」

 依斗は頭を掻きむしる。

「ちょっと……ちょっと待ってそんな、わかるわけないって」

「わからへんか?」

「わかんないよ。この数時間ずっと、我流でやってた……」

「……待っとれ」

 麻根はそこからいなくなった。

数分後に戻って来ると、手には本を持っている。タイトルは、『初めての梵字』。

「これでも読んでみ」

 本の中身をパラパラめくってみると、描き順から細かく解説してある。

「わかった。これを見ながらやってみる」

 こうして、札を書く練習は、振り出しへと戻った。


 もう何時間、筆を動かし続けたのだろう。

 縁側から見える空の景色はいつの間にか青空から真っ赤な夕焼け空へと変わり、今ではすっかり闇に包まれている。庭の灯篭が、縁側まで照らしてくれる。うっすらとした灯りだと、半紙に滲んだ墨はより黒く見える。黒よりも黒く、さらに黒く。

 練習に使った半紙のゴミ山は、犬一匹ほどの高さになっている。

 依斗は手の動きを止めた。

 右手が痛い。

 授業に出たとしてもろくにノートなんて取っていない。久しぶりに文字を書いた。

「もう休もうか」

 けれども。

「……いや」

 まだ、文字を覚えていない。札を書けるようになっていない。

 依斗は再び、筆を動かし始める。新しい半紙に、ゆっくりと墨を滲ませて。

 手の感覚が消えてゆくのがわかった。感覚がないのに、手は動く。不思議だなと思いながら、依斗は字を書き続けた。

 もう何時間、筆を動かし続けたのだろう。

 さっきまで月は見えていなかったのに、今では縁側から見える位置にまで昇っている。

 空気が変わったのを感じた。おそらく日付が変わり、夜が深まったのだ。息を吸うと、肺の隅々まで静けさが広がる。

 思えば、烏の声も猫の声も鳥の声もしなくなった。

 時折、何かの生き物の遠吠えが聞こえるだけの夜は、深くて静かだ。まるで時を止めているかのよう。

 そしてもう何時間、筆を動かし続けただろうか。

「やってるやってる」

「ほんまやな。寝落ちしとるんやないかと思ったが」

「ほらね? 僕が見込んだだけあって真面目な子だろ?」

「真面目だから役に立つとは限らんけどな」

 麻根と仁藤が、やって来た。

 麻根は半紙のゴミ山からいくつか拾い上げ、中身を見てふむふむと頷く。

「……ほな、一番簡易な札だけ書いてみ。書くところ、俺らに見せてみ」

 依斗は首を傾げる。

「一番簡易な……?」

「せや。中央八葉院だけの、九仏だけの札や」

 それならば、もう何も見ないで書ける。

 依斗は新しい半紙を取り出すと、勢いよく筆を滑らせた。

 大日如来を表すアーンクと呼ぶ梵字。天鼓雷音如来を表すアクと呼ぶ梵字。弥勒菩薩を表すユと呼ぶ梵字。宝憧如来を表すアと呼ぶ梵字。普賢菩薩を表すアンと呼ぶ梵字。開敷華王如来を表すアーと呼ぶ梵字。文殊菩薩を表す、アと呼ぶ梵字。無量寿如来を表す、アンと呼ぶ梵字。観世音菩薩を表す、ボと呼ぶ梵字。

 たった九文字。

 依斗はすぐに書き上げた。

「四枚や。もうあと三枚」

 同じのを、あと三枚。依斗は光の速さで書き上げた。

「ほう!」

 仁藤が感心したように言う。

「さすがは僕が見込んだ子だ! 優秀じゃないか」

 麻根は白けたような顔をする。

「一番簡単なの書いたくらいでええ評価やな。おまえの目は節穴か」

「実際、とても優秀だろう?」

「節穴にされたおまえの目玉が泣いとるで」

「まあまあ、いいじゃないか! では、次の段階に行こう」

 依斗は首を傾げる。

「次の段階って?」

「せや」

 麻根は屈みこむと、縁側の下の方から黒い箱を取り出した。

 蓋が開けられた。その中に入っているのは――仏像だ。葉っぱの上に座禅をする時みたいに足を組んで、手は膝上で、両の手の平を仰向けで重ね親指同士をくっつけて丸い形を作るようにしている。閉じられた瞳、穏やかな表情。頭には冠のようなものを載せている。

 月明りに照らされて、その頬が艶を帯びる。

「これがうちの大日如来さんや。どうや? 力の波動を感じるやろ?」

 依斗は仏像を見つめた。

 力の波動。

「……わからない」

 そんなものは感じない。

「わからないちゃうで。わかれよ。ほれ、感じてみ」

 依斗は再び、仏像を見つめた。

 何もわからない。

「まあええわ」

 麻根が諦めたように「おれの見てな」と言うと、靴下のまま庭に出た。

 草むらの上ですっと立ち、仏像と同じ手の形を作る。手印だ。

「ナウマク サンマンダ ボダナン アビラウンケン」

 麻根は呟いた。すると、箱の中の仏像が揺れてカタカタと音を立て始めた。

 そして、金色の光を放った。

 時を同じくして麻根の手印の中に金色の炎が燃え上がった。

 仏像から放たれる金色の光と麻根の手印の中の金色の炎が、金色の線で繋がった。

 仏像からの光の流れが、麻根の手の内へと流れ込むのが目に見えてわかった。

 麻根は仏像から力を受けとっていた。

 麻根が手印を解くと、全ての光が消えた。

 依斗は何度か瞬きをした。

 世の中には、こんな力も存在していたのだ。自分が知らなかっただけで。

「……仏像って魔術師だったんだな」

「ちゃうで。仏さんは仏さんや」

 言いながら、麻根は縁側へと戻ってくる。

「これが無意識に出来るようになると、どこにいても遠くにいる仏さんからでも力を貰えるようになるんや。ほな、やってみ」

 依斗は頷く。そして、手印を組むには胡坐の方がいいのだろうと思い、足を崩した。

 その途端だった。強烈な痛みが足全体を襲った。それまでずっと正座だったのだ。一日、ずっと。それを今、崩した。

 こらえきれずに呻く。電気を通されたような痛みだ。顔がひきつる。

 身体を支え切れずに横に倒れると、仁藤が心配そうにのぞき込んでくる。

「大丈夫かい⁉」

「足! 足……!」

「足?」

「ずっと……正座……してた、から……!」

 麻根が心底呆れた顔をする。

「おまえほんまアホちゃうか? 足崩すな言われてほんまに一日中正座しとるやつおるん? 血ぃ流れんくなるぞほんまに」

「麻根、君のせいなのかい? 僕がせっかく見込んだ子なんだから、もっと大事にしてくれないと」

「ほんまにさ、言われたからってほんまに一日中、くそ真面目にずっと正座しとくやつおるんか?」

「ここにいたんだから、自分の言葉を反省してくれ」

「想定外や」

「君の読みが甘かったんだよ」

 二人がどうでも良い会話を繰り広げている間も、依斗はひたすら痛みと戦っていた。

 まるで足を次々と針で刺されているかのような、拷問のような痛みと。

 仁藤が気を遣ってマッサージなどをしてくれているのがわかったが、それは余計なことだった。触られると余計に痛い。さらに最悪なことに、足が攣った。

 悲鳴が喉で詰まり、声にならない。

「ほら麻根、君のせいで彼がこんなに苦しんでいるよ。一体どうしてくれるんだい?」

「しびれてるだけやろ? しばらく放っておき」

「そういうのを外道と呼ぶんだよ。ほら、君もマッサージしてあげなさい」

 ――やめてくれ!

 頼むから、触らないで欲しい。

「揉めばいいんか」

 依斗の心の訴えは二人には届かず、依斗の両足は二人に揉みしだかれる。足の攣りはそのまま治らず、筋肉が引き千切られるかのような痛みだ。

 ――最悪……まじで……最悪……。

 依斗はその後しばらく、痛みにいじめられる時間を過ごした。


「で、どうや? 気分は?」

 時はすでに早朝。空が赤っぽくなっている。鳥たちが囀り始めたところだ。

 依斗はすっきりとした顔で微笑んだ。

「すっげえ、足が軽いっす!」

「ほな良かった。で、やってみ。仏さんから力を受け取るんや」

 依斗は胡坐を組んだ。その上で手印を組む。仏像と、向き合う。

 ――力を。俺に力を。

 仏の顔を見つめる。その柔和な表情を。何もかもを悟ったようなその顔を。

 ――金色の力を、俺に。

 ひたすら、願った。

 けれど。

「だめやな」

 何も起こらない。

 仁藤が息を吐く。

「うーん、なんの気配もないなぁ」

「仁藤、やっぱりおまえの見込み違いちゃうん?」

「でもなぁ、出来ると思うんだけどな」

「ただの勘違いちゃう?」

 ――頼む。

 依斗は固く目を閉じ、祈った。

 兄の描いたものたちをこの手で封印してやりたいのだ。そのために術を使えるようになりたいのだ。ここでダメになってしまったら、もう二度と。

 ――兄貴の描いたやつらを封印してやりたいんだ……!

 けれど。

 何も、起こらない。

「止めや」

 麻根に肩を叩かれて、依斗は目を開く。

「あの! ちょっと待って! 今はまだ出来ないけど、練習するから!」

「ちゃう。これはな、きっと、足りないんや」

「足りない⁉」

「悟りの道の端っこにも立ててへんっちゅうことや。仏さんから直接、力をもらうにはまだ足りひん、ちゅうことや」

「何が⁉」

「おまえの頭ん中は煩悩で一杯なんやろ。あんまりにも煩悩がありすぎて、仏さんは、おまえに悟りの道へ進む気持ちがあるっちゅうことすら信じられへん」

「……は?」

「違う世界の生き物やと思われてるんや。救いの対象にすらなれてへんのよ」

「それはどういう」

「仏さんはどんな存在でも救おうとする。それが出来る。けどな、救われたない人間を救うことは出来へんのや。教えを受け入れる気持ちのある人間、煩悩から救われたい思う人間でないと、救えへんのや」

「救い……」

「煩悩ってわかるか?」

「煩悩……」

「貧(とん)、瞋(しん)、癡(ち)、慢(まん)、疑(ぎ)、有身見(うしんけん)、辺執見(へんじっけん)、邪見、見取見(けんしゅけん)、戒禁取見(かいごんしゅけん)、無慚(むざん)、無愧(むき)、嫉(しつ)、慳(けん)、悪作(あくさ)、掉拳(じょうこ)、惛沈(こんじん)、睡眠、覆(ふく)」

「……それが、煩悩? 呪文じゃなくって?」

「かみ砕いて言うなら、妬む心とか激しい憎しみとか、高慢ちきとかそういうのや」

「それはなんとなくわかる」

「それが溜まりに溜まってぐちゃぐちゃになっとんのや。仏さんも手の差し伸べようがないくらいにな」

 依斗は口をあんぐりと開けた。

「それはありえない! こんなに健全に生きてるのに!」

「自覚出来てへんのやな。まずは自分を見つめ直すことから始めよか?」

「自分を見つめ直すって……学校の進路相談会かよ」

 心外だ。そんなことをここで言われるなんて。

 しかもよりによってこんな男から。

「……自分を見つめ直すって、どうやるの?」

 麻根は肩をすくめる。

「おれに聞かんといてくれる? そういうのは自分でするもんや」

「話にならない。そんなんじゃわからない」

「なら、おまえは封印術師になれへんな」

「そんな!」

 早く封印術師になりたいのに。

「今日はもう無理そうだね」

 仁藤が言った。

「江場くん、君は一度、家に帰りなさい。そしてゆっくり休んで。次の出勤は、そうだな、明日の夕方くらいでいいかな」

「待てよ!」

 依斗は仁藤の腕を掴む。

「やるから! 練習する! 自分と向き合うから!」

「大丈夫だよ」仁藤は優しく依斗の手を振りほどく。「出来ないなんて思ってないさ。けれど昨日からずっと頑張ってたんだろう? 家に帰ってゆっくり休めばいい」

「あんたらは? あんたらもこのあと家に帰るの?」

「僕らはこれから仕事さ。ここ数日、封印数が少ないからね。今日は頑張っておかないと。ノルマってやつだね」

「付いて行く」

「わからない子だね」

「絶対に付いて行く」

「……わかったよ」仁藤は諦めたように笑った。「わかったわかった。一緒においで」




 運転しているのは麻根、助手席にいるのは仁藤だ。依斗は後部座席で、外の風景を眺めていた。

 白景山のある方面を、鳥ノ目市の矢染(やぞめ)地区と呼ぶ。ここら一帯は山に囲まれた長閑な風景が広がる。畑が点々とあり、人が住んでいるのかいないのかわからないような絶妙に朽ちた一軒家がぽつんとあったりする。

 車は矢染地区から出て、国道を、鳥ノ目市の中心部に向かって走る。

 中心部に近づくにつれて、車窓からの風景は田園景色から混み入った街のものへと変化していった。午後五時の早朝なこともあって、景色の中に車や人は少ない。

 車はスーパーマーケットの駐車場へと入って行った。まだ開店していない店の駐車場は車の姿一つないがらんどうだ。

 麻根は端の方の場所に、バックではなく前から突っ込む形で停めた。

 前の席の二人が車から降りたので、依斗も降りた。

「さっそくや」

 麻根が指さした向こう。スーパーマーケットの向こう側から、まるでロボットアニメに出てくるようないかつい装甲ロボットが姿を現した。

 赤い金属の躯体。長く伸びた右アームには盾が備え付けてあり、左アームは巨大な銃を持っている。躯体の中央部分にはコックピットだと思われる飛び出した部分があり、その両側から大砲が突き出ている。顔はマスクで覆ったみたいになっているが、目のところが黄色く光っている。

 朝日に照らされて、人型戦闘ロボットは凛々しく立っている。

 依斗は恐る恐る仁藤の方を見た。

「あのさ、あれ、封印対象なの?」

 仁藤は「そうだよ」と軽い調子で頷く。「画家がロボットアニメ好きだったみたいだ。絵描き帳にはたくさんの戦闘ロボットが描かれていた。死後に絵描き帳は回収出来たけれど、こうして実体を持って発現してしまっている」

「あんなんが昼間にもっと人のいる場所に出たりなんかしたら……」

「そうそう、大変なんだよ、本当に」仁藤は全然、そうは思ってなさそうな調子で言った。「江場くん、こないだ北区の橋が崩れたの覚えてるかい?」

「ああ……」

 そういえばニュースにもなっていたし、北区から通学してきているクラスの同級生が話しているのを小耳にも挟んだ。

 北区の、弥生川に架かっている大きな橋がある。それが真ん中から崩れたのだった。

 経年劣化を過小評価し、補修を怠っていたせいだと聞いたが。

「あの橋ね、僕らがもう少し早く現場に着いて封印していれば崩れなかったよね。悪いことをした。あの橋を崩したのもこんな感じのロボットだったね、そういえば」

「人型戦闘ロボットが橋を壊しましたなんて、ニュースではやってなかったけどな」

「絵描き帳の中身が実体を持って発現した場合、それは人の目にも触れる。けれど普通の人は見た物を覚えていない。すぐ忘れる。楽燕の妖術だよ」

「俺は覚えてるんだけど」

 巨大人面鯉も。蛇兎蛙も。超巨大幼虫も。この半年間で絵描き帳の中に還したもの全て。

「ならば聞くが、君はお兄さまから絵描き帳を受け継いでからの半年間で、お兄さまが描いたもの以外を見たのか?」

「いや、それは……」

 考えてみれば、見ていない。

「君のように絵描き帳を継承した者は、その絵描き帳に関することならば覚えていることが可能だ。けれどそれ以外は見ても忘れてしまう。妖術さ」

「……そうなのか……」

「けれど今の君はもう違う。封印術師として登録されてしまったからね。これからは楽燕の絵描き帳に関する全てを記憶する」

「来たぞ!」

 麻根が叫ぶ。

 目の前にいる人型戦闘ロボットが、銃をこちらに向けた。

 低い発砲音が鳴った。弾丸が放たれた。

「天若日子(あめのわかひこ)の天之麻迦古弓(あまのまかこゆみ)」

 仁藤が一言。その次の瞬間、彼の手には弓矢が握られている。弦を極限まで引っ張り、離す。

 矢が放たれた。

 一直線に飛んで行った矢がそのまま刺さり、弾丸は散った。

 ――すごい!

 依斗が感心したのも束の間。弾丸が次々と飛んでくる。

 仁藤は素早くそれらを爆破してゆく。

 人柄戦闘ロボットは何かを悟ったようだった。装甲の両足を大きく動かし、こちらに向かって走ってくる。

 地面がどこんどこんと鳴る。ロボットの足が地面を踏むたびに、地面が軋む。

「おまえは邪魔や! 遠くに行ってろ!」

 麻根に言われ、依斗は慌てて走った。自分が近くにいてはただの邪魔にしかならない。明らかだ。

 駐車場から出て、歩道の電信柱のところで座り込む。そこから、彼らの封印を眺めることにした。

「十八界縛心術」

 麻根が言うと、彼の指先から放たれた金色の光の縄が、ロボットを縛り上げる。

「うぅぅぅヴヴヴヴヴぁぁぁあああああ!」

 ロボットが悲鳴を上げた。そして動きを止める。

「見えない! 聞こえない! 味がない! 匂いがない! 触れない! わからない!」

 ロボットは思い腕をブンブンと振り回す。

「動かない! くそお! こちら一号! 機体がっ! 制御不能ですっ!」

「仁藤! 今や!」

「わかった!」

 仁藤が勾玉を投げた。それらはロボットを囲むように落ちる。

「出雲封術」

 勾玉が緑色の光を放った。その光がロボットを包み込んだ、その瞬間。

「一号機! ここで退くは一生の恥!」

 ロボットが大きく腕を広げた。

 すると緑色の光は消え失せ、金色の縄もはじけ散る。

「くそが」

 麻根が悪態をついたのと同時、ロボットの胸のところの大砲から、大きなロケット弾がいくつも発射された。

 仁藤はいくつかの小石を宙に投げた。

「磐座結界」

 青い光の膜がロボットを包むように正方形を張った。ロケット弾は結界の中で爆発した。結界の中は煙で一杯になる。

数秒後、煙は消えていた。ロボットの機体表面は全くの無傷だ。ロボットは結界に体当たりを繰り返す。そのたびに跳ね返され、金属音を立てて後方の結界膜にぶつかる。

「この野郎!」

 ロボットの右アームからにょきにょきと黒い剣が伸びる。

 右アームが高く振りかざされた。

「おりゃぁぁぁあああああ!」

 剣先が、結界を切り裂いた。亀裂から出て来たロボットの巨体は、ものすごい速さで二人に向かって走る。ロボットの足が地面を踏むたび、コンクリートが割れて破片が宙に舞う。

「馬鹿にしやがってぇぇぇぇえええええ!」

 走りながら、ロボットは剣を振り上げる。

 仁藤と麻根は剣を避け、走ってロボットの背後に回り込む。

 二人を逃した剣は地面に深く突き刺さり、そこから長い亀裂が走った。

「くそぉ!」

 ロボットは剣を抜くのに苦闘する。

「何でっ! 抜けねぇんだよっ!」

「涅槃法術阿弥陀如来(ねはんほうじゅつあみだにょらい)――西方極楽浄土」

 麻根が術を発動した。彼の手印――右手は上げて左手は差し出す――施無畏与願印(せむいよがんいん)だ。そこから発せられるのは金色の雲。

 雲は長く伸び、長く長く伸びてロボットに絡みついた。

 ロボットは動きを止める。

「うぅっ! あぁ! 南・無・阿・弥・陀・仏! 南・無・阿・弥・陀・仏ぅぅぅぅうううう!」

 ロボットは苦し気に身を捩る。

「仁藤! 早うしろ!」

 仁藤は勾玉を投げる。

「出雲封術!」

 勾玉の発する緑の光が、ロボットに襲い掛かる。

 しかしだった。

「極楽浄土だとぉぉおおおお? 舐めやがってぇぇええええ!」

 ロボットはぶるるとその身を震わせた。

 金色の雲も緑の光も、雲散霧消してしまう。

「早うしろ言うたやろが! このヘボ術師!」

 麻根は怒鳴る。仁藤は悔し気に唇を噛んだ。

「麻根! もう一度! もう一度頼む!」

「最後や!」

 麻根は再び、施無畏与願印。

「涅槃法術阿弥陀如来――西方極楽浄土」

 金色の雲が再び、ロボットを包み込む。

 仁藤は勾玉を投げる。

「出雲封術」

 そしてさらに小石を投げた。

「磐座結界」

 さらに。

「天照大御神(あまてらすおおみかみ)の注連縄(しめなわ)」

 仁藤の両手から出てきたそれは、蛇が身を捩ったかのような太く白い注連縄だ。

 注連縄は結界を縛る。

 それによって補強された結界は、そのあまりの強度がロボットの突破を許さない。

「くそがぁああああああああああああああ!」

 それは断末魔だった。

 その悲鳴を最後にして、その人型戦闘ロボットは勾玉の中に吸い込まれて行ったのだった。

 ――そうか……。

一部始終を眺めていた依斗は、そっと息を吐いた。

 ――今のが、封印……。

 依斗の知らなかった封印術というものの、その力の全貌。

 依斗はその場でしばらく、二人の背中を眺めていた。


「やれやれって感じ」

「おまえはスピード感っちゅうのがないねん。ヘボが」

「悪い」

「トロいんや」

「でも君も、今日はちょっと術の威力が」

「なんやて?」

 仁藤と麻根はボコボコになった地面を後目に痴話げんかを繰り広げている。それが一段落すると、何事もなかったかのような顔をして車に乗り込んで行った。依斗は慌てて、二人に続いて車に乗った。

「封印はこれで終わり?」

 尋ねると、仁藤は「まさか」と言う。

「次は花咲公園にでも行こうか。あそこはよく出るからね」

 車は花咲公園に向かって走った。

 鳥ノ目市北区にある、自然が豊かな広い公園だ。

 着いて、駐車場に車を停め、公園の中にあるグラウンドに出てすぐのことだった。

「あれやろ」

 麻根が示した先。

 恐竜が浮かんでいる。犬サイズの。依斗は昔に読んだ恐竜図鑑の記憶を思い起こした。

 おそらくティラノサウルスだ。犬サイズだが。

「よし、僕がチャチャっと封印してくるよ」

 仁藤はその言葉の通り、出雲封術一発でティラノサウルスを封印した。

 グラウンドを横切って、花畑の中を歩いていると、またも小さな恐竜を見つけた。

 今度はトリケラトプスだ。画家の描いた絵が相当小さかったのだろう。こちらも犬サイズだ。

 これも、仁藤が出雲封術一発で封印した。

 花壇を眺めていると、不思議な花を見つけた。太く立派な茎、その上に咲いている花弁が、マカロンなのである。花の上にマカロンが置かれているのではない。マカロンが咲いているのだ。

「これって封印対象?」

 依斗が尋ねると、仁藤は頷く。「そうだよ」

 麻根は呆れた顔をする。

「現実世界にマカロンの花なんちゅうもんがあるわけないやろ。マカロンは咲かせるものやない、こねて混ぜて焼いたもんや」

 とても全うな言葉を言い放ち、麻根はそこに咲いていたマカロンの花を五本ほど、曼荼羅封術で封印した。

 その後、公園内をぐるっと一周した。

 封印対象には出会わなかった。

 公園から車の中に戻ってくると、仁藤はもう疲れたと言った。一方、麻根はもういくつかは封印出来ると言った。

 仁藤は電車で楽朴堂に戻り、麻根は車でこの後も封印対象を探すことになった。

 どっちに付いて行くか仁藤に尋ねられ、依斗は答えた。

「……楽朴堂に戻る」

 何も出来ないのにそこにいても、全く意味がないし役に立たないのだということが、よくわかった。

「君はこのまま家に帰ってもいいんだよ? 僕は楽朴堂に住み込みだから戻るけどさ」

 依斗は首を横に振った。

「練習したい」

 早く、大日如来から力を貰えるようにしたいのだ。


 仁藤と二人、電車に乗って、楽朴堂のある白景山の麓の最寄り駅、西矢染駅まで行った。

「今日は天照大御神を使ってしまった。とても疲れた」

 電車の中、そう言ったきり、仁藤はずっと寝ていた。

 西矢染駅から四十分ほど歩き、楽朴堂に着いた。


 縁側で胡坐を組む。手印は法界定印(ほっかいじょういん)。両の手を仰向けで重ね、親指同士をくっつけて丸を作る。

 木箱の中の大日如来と、向き合う。

 ――力を下さい。

 麻根は、煩悩がありすぎてぐちゃぐちゃになっているから大日如来が手を差し伸べられないのだと言っていた。

 だとしたら、何も考えなければいいのだろう。座禅とかでも、頭を空っぽにするのが秘訣だと聞く。

 ――何も考えない。

 何度か深呼吸をする。強張っていた筋肉の力を抜く。風を感じる。庭に差し込んでいる太陽の温かさを感じる。草木の匂いを感じる。頭の中には何もない。真っ白だ。

 ――俺は今、煩悩のない状態です。だから仏さま。

 どうか、力を。

 真っ白な頭を保つ。

 何もない状態を保つ。

 何分、いや何十分、何もない状態を守った。

 時の流れがわからなくなるほどの時間。

 とても長い間。

 体の感覚がなくなり、空間に溶けていくほどの。

 自分と世界の境界が曖昧になるほどの。

 そこには明らかに、煩悩なんてものはなかった。

 そのはずなのに。

 金色の光の欠片も、依斗の手の中にはやって来ない。

「……何でだよっ!」

 依斗は立ち上がり、木箱を思い切り蹴り上げた。

 ガサッと音を立てて、庭の草むらの上に大日如来が転がった。

 依斗は空を仰いだ。

 太陽の光を、とてつもなく眩しく感じた。


肆 煩悩とは?


 そこには何の変哲もない一軒家が建っている。屋根が平らで、縦長の箱のような外観をしている。二階建てで、玄関の前に車が二台、止まっている。

 依斗は深い深呼吸をすると、ポケットから鍵を取り出し、入り口の扉を開けた。

 玄関に入ってすぐが、リビングだ。

 依斗は息を止めた。

 車が二台あるから、わかっていた。

「あんた」

 そう、言ったのは無表情の母親。

「依斗」

 低い声で名前を呼ぶ、父親。

 二人は食卓に、向かい合うようにして腰かけている。食卓の上には割引シールの貼ったパックに入った寿司や餃子が並んでいる。

「随分と久しぶりの御帰還ですこと。一週間ぶりくらいかしらねぇ? 学校にも行かないで家にも帰らず何してたのか、ゆっくり聞かせてもらおうじゃないの」

 母親はいつになく嫌味っぽい。

 仁藤と麻根のせいで怪我をし寝込んでいた二日間、それからすぐに札の練習、封印現場の見学に大日如来から力を貰う練習。ずっと、家に帰っていなかった。

 それは事実だが。

 依斗は母親を無視し、階段を上がろうとした。

「依斗」

 父親の、低い声。

「こっちに来い。座れ」

 逆らえないほどの、圧力。

 依斗は食卓に着いた。椅子を動かし、両親から距離を取った。

「で?」

 母親はそう言ったきり、目で詰めてくる。依斗は軽く息を吐き、口を開いた。

「ちょっと家出してた。年頃なもんで」

「どこに?」

「友達の家とか、漫喫」

「誰の?」

「もう忘れた。誰だったかな」

 ドン、と、食卓を叩いたのは父親だ。

「依斗、ふざけるのもいい加減にしろ。テストもさぼって何やってんだ。担任の先生から電話が来たんたぞ。恥をかかせるつもりか?」

 依斗は肩をすくめた。

「そう言われてもさ……まあ、そういう恥に耐えるのも親の仕事なんじゃないの? 頑張ってみてよ」

 父親は眉間に皺を寄せる。

「一回、殴られでもしないとわからないのか」

「殴ってみれば? どうせ痛いだけだろ」

「ちょっとお父さん! 暴力はダメだって!」

 母親は表情を緩ませる。

「ねえ、依斗。子育てって大変なの。一人の人間を育てあげるってね、すっごく大変なことなんだよ。私は私なりに、一生懸命育てて来たんだよ。なのにそのあんたがね、そうやって無断でどこかにふらっと行ったきり、帰って来ても何も言わない。……どれだけ心配だかわかる?」

 依斗は母親から目線を逸らした。

「ま、心配するのも親の仕事何でしょ? 好きにしなよ」

 呟くみたいに言った。

「この野郎!」

 父親は立ち上がり、依斗の襟元を掴んで引っ張り上げる。

「おまえな! お父さんとお母さんが必死で働いてるっていうのに! 苦労を無駄にするつもりか⁉」

 依斗は父親を睨んだ。

「あんたらが必死で働くことと、俺が家に帰らないことと、何の関係があんの」

「お父さんとお母さんはおまえのために働いてるんだ! おまえを養うためにな!」

「子どもがいようがいまいが働くくせに。勝手に理由にすんなって」

「おい? 何て言った?」

「卑怯だってこと」

「っこの!」

「ちょっとちょっとちょっと!」

 母親の手が、依斗と父親とを引き離す。

「冷静になりましょう。冷静に。ね?」

 父親は咳ばらいをし、椅子に座り直した。依斗はドサッと腰を下ろすとポケットに手を突っ込み、背もたれに体重を預けた。父親はその態度を見て眉間に皺を寄せたが、何も言わずに黙り込む。

「……まあ、でも……」母親は何かを思案するように頬杖をつく。「そうなのかもね、私たちが間違ってたのかも」

 依斗は母親を見る。

「何が?」

「いや、だからさ。私たちが間違ってたのかもなって」

「だから何が?」

「息子たちの将来を思って、私たち頑張ってきたわけじゃない? 勉強をきちんとやらせてきたつもりだった。けれど一方はダメになってあんなことになってしまったし、もう一方はこうしてグレちゃってさ。中学生の頃はあんなに優秀だったのに、ねえ? 何でだろう? 何がダメだったんだろう、って。結局は私たちがダメだったんだよね」

「……わかってるじゃん」

 そう、言った自分の声が掠れていることに、依斗は動揺した。

 母親は依斗の様子を意に介さず、話を続ける。

「だから私たちも反省して、見方を変えないといけないのかもしれないね。依斗がグレてしまったことも前向きに捉えてさ。内向きにダメになって引きこもりになられるよりは、外向きにグレてくれる方が有難いのかもしれない」

依斗は息を止める。「……は?」

「だってさ、死んじゃったら元も子もないじゃないの。今までの苦労は何だったのって、思うじゃない? 親だけじゃないよ、本人もさ」

 依斗は絶句した。

 結局この人たちにとって、兄の死は苦労が報われなかった、それだけのことでしかないのか。

「それもそうだな」

 父親が言った。

「お父さんもな、最近は今までに考えなかったことを考えるようになった。あいつが死んでからだ。最近、興味が湧いてな、あいつと同じように引きこもりになった人の話を調べるようになった。同僚の弟さんは、仕事で受けたパワハラが原因で引きこもりになって、鬱もひどかったが、今はだいぶ回復して少しずつ仕事もしているらしい。けれど部長の知り合いの娘さんは、不登校から引きこもりになってそのまま自殺してしまったそうだ。……あいつと同じだよ」

 依斗は自身の手を見つめながら喋る父親を見つめた。なぜだか、映像の画面を見つめているかのように錯覚に襲われる。

「お父さんは考えるんだよ。引きこもりになっても回復した人と、引きこもりになって死んでしまった人、一体、違いはどこにあったんだろうな。あいつには何が足りなかったんだろうか」

 その瞬間、依斗の中で何かが弾けた。

「すっげぇ、上から目線じゃん」

 父親が顔を上げる。

「上から目線か?」

「いいよな、親って」

「そうか?」

「子どもの人生をそうやって、上から眺めて。楽だろ? すげぇ楽しそう」

「依斗。お父さんだって辛いんだ」

「嘘だろ」

「本当だ。けれど、いつまでも悼んでいるわけにはいかない」

「なんで」

「この世界には事実というのが存在している。確かに、あいつには勉強を押し付けすぎたし、期待をしすぎてしまったなとも思っている。しかし世の中には、親に理不尽な扱いや大きな期待を背負わされても、それでもやり切って立派な大人になる子どももいるんだ。それは事実だ。けれどあいつはそうではなかった。何が、足りなかったのだろう」

「だから! そういうのが上から目線だって言ってんだよ!」

「依斗」

「兄貴に言ったんだろ⁉ 俺が兄貴より良い成績を取ったくらいで! 兄貴に私立の学費を出すのは勿体ないって! 価値がないって!」

 父親はわずか、怯むように目を泳がせる。

「……別に、普通に公立受験だけにしなさいと言っただけだ」

「勿体ないって言ったんだろ⁉ 価値がないって、そう言ったんだろ⁉」

「依斗」

「兄貴が引きこもってからだって、あんたらはただ落ちぶれただのダメになっただの貶すばっかりで! 兄貴が絵を描くのに夢中になってるのも馬鹿にして! 価値がないって言って傷つけた責任すら取ろうとしないで!」

「依斗」

「わからなかったの!」

 母親が叫ぶように言った。

「あんなに傷つくなんて信じられなかった! まさか自殺するなんて! あんなに弱い子だなんて、知らなかった!」

「弱い⁉」

「知らなかったの!」

「違うだろ! あんたらと違って良い人間だっただけだろ!」

 依斗は耐えきれなくなって立ち上がる。

「やっぱりあんたらと話さなければよかった」

「ねえ、依斗」

「おまえらが死ねば良かったのに‼ 兄貴じゃなくておまえらが‼ そっちの方が兄貴だって喜んだよ‼」

 言い放つと、母親が顔を覆うのが見えた。父親が俯くのが見えた。

 ――そうか。

 煩悩、という言葉が、頭に浮かんだ。


 二階へ上がり自分の部屋へ行くと、ベッドの上の脱ぎっぱなしの服が目に入った。

 拾い上げて畳む。ふと思う。

 ――もうここにはいられないな。

 知っているのだ。両親は、本当に一生懸命働いてきた。朝から晩まで。依斗が小さい頃からずっと。

 自分たちの生活だけでいいのなら、あそこまで働くことはなかっただろう。

 許せることと許せないことがある。過去の、両親の兄へ言動は金輪際、許せないが。

 ――おまえらが死ねば良かったのに、か。

 言い過ぎた。

 カバンの中に数枚の衣類と下着、財布と携帯電話、充電器だけ突っ込んだ。

 それを肩に引っ提げて、依斗は家を出た。

 出て行く自分を見つめる両親の顔は、見なかった。




 一夜を公園でやり過ごし、久々に高校へ行った。教室へ入ると、同級生たちが楽しそうに談笑している。

 ――席、どこだったかな。

 教壇に貼ってある席順表で確認する。真ん中の列の一番後ろの席だ。

 席に座り、コンビニで買って来たチーズカマボコを齧っていると、中学生時代からの友人がやって来た。

「おまえ久しぶりじゃん」

 依斗は「うん」と答える。

「学校さぼって何してんの?」

「……パチンコとか?」

 友人は喉の奥で笑いつつ、「まじで? うけるんだけど」。

「ほんとは嘘」

 友人は呆れたように鼻で笑う。

「……そういえば、先生がおまえのこと呼び出すって言ってた」

「へえ。楽しみだな」

「久々にうち来いよ。新しいゲーム買った」

「気が向いたら」

「来ないだろ」

「ばれた?」

「おまえ高校入ってから付き合い悪いよ。チャットも未読だし。まじで何してんの?」

「だからパチンコだって」

「きしょ」

 友人は笑いながら「じゃあな」と言うと、去ってゆく。さっきまで話していたグループのところへと戻って行った。

 なぜだか胸がわざついた。

 ――これもか?

 煩悩、と言う言葉が再び、頭に浮かんだ。


 久々に受ける授業は退屈このうえない。運動エネルギーKを表したところで、伊藤博文が大日本帝国憲法を作ったところで、英語のことわざに少し詳しくなったところで、それが一体何だと言うのだ。限りなくどうでも良いことのように思えた。

 暇なので、携帯端末で煩悩について調べてみた。

・貧――限りない欲。執着心。

・瞋――我に背くものに対しての怒り。

・癡――真理を知らない愚かさ。

・慢――自我への固執ゆえ他と比較し心が高ぶったり安心したり卑屈になる心。

・疑――疑い。躊躇い。

・有身見――錯覚の自我。誤った自我。

・辺執見――自我は人の死後も存続する、または、自我は人の死後は断絶する、という二つの誤った見解への固執。

・邪見――因果の道理を否定する誤った見解。

・見取見――誤りの見を正しいと思い込み固執すること。

・戒禁取見――戒律や苦行に固執して悟りを開こうとすること。

・無慚――己の罪を己に対して恥じないこと。

・無愧――己の罪を他人に対して恥じないこと。

・嫉――嫉妬。

・慳――財宝や教法に執着し、おしむ心。

・悪作――過去への後悔。

・掉拳――浮つき高ぶった状態。

・惛沈――沈んだ状態。

・睡眠――眠気。意識がぼんやりとしていること。

・覆――己の罪を覆い隠そうとすること。

 そこまで調べて、依斗は息を吐いた。

 ――わかるかよ。


 午後の授業は寝て過ごし、放課後になった。友人が言っていた通り、担任の先生に呼び出された。誰もいない教室に通されて、先生と真正面から向かい合うように座らされた。

「江場。三つ、話がある」

 依斗は「はい」と頷く。

「一つ目。定期テストの件だ。このままだと、おまえはゼロ点だ。受けてないからな」

「それでいいですよ」

 先生は目を細める。

「おまえがどうしてもと言うなら、追試を受けさせてやってもいいんだぞ」

「いや、いいっす。どうせ勉強しないし」

「成績表が悲惨なことになるぞ」

「気にしないんで」

「一年の最初の成績表だぞ。それが悲惨なことになっていいのか?」

「いいっす」

「……二つ目。進路希望調査を出してないな?」

「希望がないんで」

「未定ということか?」

「いや、どうでもいいんで」

 先生はため息をつく。

「そういうの勘弁して欲しいんだよなぁ。おまえももう高校生だろ? やめろって、そのガキみたいな反抗の仕方」

「反抗じゃないです。希望がないから出せないんですよ」

「進学か? 就職か?」

「なら、就職にしときます」

 先生は目を見開く。

「なんだおまえ、働きたいのか? やりたい仕事とか、あるか?」

「特にないっす」

「何でもいいんだよ。何かこう、興味が湧くもの。ないのか?」

「まあ……」ふと、思う。「そうっすね。役に立ちたいです」

 先生は驚いたように目をまん丸くする。

「……そう、か……。役に立ちたいのか……。良いこと言うな……大事なことだ」

 先生はごほんと咳払いをする。

「三つ目だ。無断欠席はやめろ。それからなるべく学校に来い」

「まあ、そのうち」

「学生の本分は学校へ行き、友人たちと切磋琢磨することだ。今の時期にそれをしておかないと、将来悲惨なことになるんだぞ。後から後悔したって遅いんだ」

 ――ほんとこいつら……。

 将来困るだの将来が心配だの、常に先のこと、本当に訪れるのかもわからない、未来のことしか話さない。

「俺が学校行ったり勉強したりしても、別に何もないんで。どうにもならないし、得るものもないし。無断欠席がダメだって言うなら、次からきちんと学校に電話するんで、俺が学校に来てないからって親に連絡するのは止めてもらっていいっすか?」

 すると先生は、腕組みをして少し威圧的な雰囲気を出してくる。

「江場。自分の人生をもっと真剣に考えないとダメだぞ。そんな舐めた考えをしていると、いつか後悔することになる。大人になったらな、大変なことがたくさんあるんだ。学生のうちに、嫌なこととも向き合って訓練しておかないと」

「将来だの後悔だの訓練だのって……」

 そこから依斗はもう、自分を抑えることが出来なかった。

「勉強がそんなに大事なんですか? テストとか友人とか、それがそんなに大事? だったら勉強が出来なくて友人もいないやつはやっぱり死んだ方がいいの?」

「……江場?」

「勉強することが偉いとか良いことって、誰が決めたんですか? 俺が勉強したら困る人もいるんじゃないですかね? これは良いことでこれは悪いことって、一方的に決めるの、止めてもらっていいっすか?」

「江場、どうしたんだよ。何の話をしているのかわからないぞ」

 先生は困惑の表情する。それが妙に、腹立たしい。

「わかるように話す必要、あります?」

「江場」

「うざいんすけど」

 依斗は椅子から立ち上がり、カバンを肩に引っ掛けた。

 制止する声を無視し、教室から出た。

 ――何でだろ……。

 兄のことは、学校や教師や友人は関係ないのに。

 なのに妙にイライラする。

 ――これも煩悩ってことか?

 校舎から出て、その足で最寄りの駅へ行った。そこから楽朴堂へと向かった。


 西谷染駅に着くと、少し気分が落ち着くのを感じた。少なくとも、家や学校にいる時よりはましだ。

 楽朴堂の目の前まで着いて、がたつきのある引き戸を開けると、中から聞いたことのない声がした。仁藤の声でも麻根の声でもない、知らない女の声が。

「ダイナマイトボンバー! 行けぇ! ダイナマイトボンバー! 行っちまえ! 行っちまえぇえええ!」

 玄関から向かって左側の襖は、縁側のある和室だ。女の声が聞こえてくるのは右側の襖、依斗がまだ立ち入ったことのない部屋から聞こえてくる。

 玄関を上がり、少し緊張しながら、その右側の襖を開いた。

 そこには、縁側のある和室とよく似たような和室が広がっている。けれど部屋の様子はだいぶ違う。右の奥の方にキッチンがあり、洋風の食卓が置かれている。その傍に箪笥がいくつか並び、書類や布類がはみ出している。食卓の手前には揺り椅子があり、そこで仁藤が揺られながら煙草を吸っている。

 左方の奥にはベッド代わりにもなると話題の超巨大ビーズクッションが敷き詰められるように置いてあり、麻根が寝転がって漫画を読んでいる。

 そして部屋の中央、大きなテレビがある。画面に映っているのは――競馬だ。

「ダイナマイトボンバー! 差せ! 差せ! 差せ! っ! ぁぁあああっ!」

 テレビの真ん前に座り、その画面に釘付けになっている女は、世界の終わりのような悲鳴を上げて倒れ込んだ。

「あたしの愛するダイナマイトボンバー! 今日こそは勝利を見せてくれると信じていたのに! まさか出足でしくじるなんてっ!」

 彼女は畳みの上でのたうち回る。

「あたしがボンバーちゃんにつぎ込んだ三万円! たかが三万円されど三万円! けれどあたしは諦めない! いつかダイナマイトボンバーが勝つ日が来るって信じてる! 初勝利に感極まって騎手が泣く未来まで見えてるからっ!」

「ないやろ」

 麻根は漫画から目を離さずに言った。女は麻根を睨む。

「あるもんね! ダイナマイトボンバーがいつか勝ってくれるはずだから、その時まであたしは信じて、お金を貢ぎ続けるだけなんだ。あんたにわかるかな? この気持ち」

「知らんわ」

「いつか、みんなが思い知る日がやってくるはずなんだ。それは愛が勝利する日。あたしのダイナマイトボンバーへの愛が報われる日」

「そろそろ馬辞めた方がええんちゃう?」

「辞めるが負け。続けるは勝ち」

 ――うわぁ……。

 依斗が襖に手を掛けたままドン引きして立ち尽くしていると、女が気づいた。

「あら? どちら様?」

「そういえばまだ会わせてなかったね。最近、うちのメンバーになった江場依斗くんだよ」

 仁藤は煙草を灰皿に押し付けながら言う。

「すごく真面目な子だから。よくしてやってくれ」

「まさか!」女はキラキラした目で依斗を見上げてくる。「もしかして学生さん? 何歳?」

「……十六」

「若いじゃん! いいね! あたしさ、思ってたんだよね。あたしの職場にしては、ここには若さときらめきが足りないなって。けど良かった! よろしく頼むよ! 若さときらめき枠くん」

「……嫌なんだけど」

 女は真顔になり「え?」と発した。

「若さときらめき枠、嫌だ」

 女は仁藤を振り返る。

「ねえちょっと仁藤! この子可愛げがないよ! ぜんっぜん良くない!」

「若気の至りだ。許してやってくれ」

「そっかぁ、若気の至りかぁ……。そっか。きらめきが足りないけどま、仕方ないね」

 女は立ち上がると、手を差し出してくる。

「あたしは沙和玲子(さわれいこ)。仲間が増えて嬉しいよ。よろしくね」

「あ……はい。よろしく……」

 依斗は恭しく握手を交わす。

「そいつ仲間ちゃうで。入門したばかりのひよっ子や。まだ何も出来へんからな」

「新人が何も出来ないのは当たり前じゃないの。ねえねえ、何で封印術師になろうって決意したの?」

「……兄貴が描いた絵を封印してやりたくて」

「へえ、兄貴の……」

「兄貴がスケッチ……絵描き帳の画家で、絵を描いてて、それで死んだから、絵が街の中で現れるようになって、そいつらを封印してやりたいって、思って」

「そっかぁ。じゃ、一緒に頑張っていきましょ」

「はい」

 依斗は仁藤を見遣る。

「向かいの和室の縁側、使っていい?」

「もちろん」仁藤はにこりと微笑んだ。「いくらでも使っていいよ」


 大日如来は目を瞑り、穏やかな無表情でそこに佇んでいる。依斗は向かい合うように胡坐をし、その表情を眺めた。しばらく見つめているとどこか、微笑んでいるようにも感じてくる。

 ――仏さま。俺はこの一日、自分の煩悩を知りました。

 親への怒り。友人たちが楽しそうにしていることに対するもやもや感。教師への逆切れ。

 ――俺の中に、煩悩があるってわかりました。俺はこの煩悩から抜け出したいと思います。なので、俺に救いの手を下さい。

 仏の求めることとは、きっとそういうことなのだろう。

 己の煩悩を自覚し、そこから脱却するために、仏の教えと救いを受け入れる覚悟があるのだと、そういう姿勢を見せること。

 煩悩について調べた時に、仏教についての説明も読んだ。

 要するに、仏の教えや救いを受け入れることにより、苦からの脱却を目指すのだ。苦をもたらすものは煩悩。苦の自覚がないのならば、煩悩に気づくことも出来ない。

 ――救って下さい仏さま。どうか俺に力を。

 手印に意識を集中し、深く深呼吸をする。

 ――俺に力を!

 しかし。

 何の反応もない。

 諦めないで続けてみるが、それでも大日如来は、金色の光なんて放たない。

 依斗は我慢しきれず、立ち上がった。

「何でだよっ!」

 大日如来の収まった木箱を蹴った。その瞬間、後頭に痛みを感じる。

「何しとんねん」

 麻根に叩かれたのだ。

「仏さん蹴り上げるなんて不謹慎なやつやな。こないなやつ四半世紀ぶりに見るわ」

「大日如来が応えてくれない!」

 依斗は麻根に食って掛かる。

「誰でも使える術って言ったよな⁉ 誰でもって、言ったよな⁉ けど全然ダメだよ! こんなに煩悩と向き合ってるのに、ちっとも応えてくれない」

「そりゃおまえが罰当たりやから」

「きちんとやろうとしてるのに!」

「向いてないんやろな」

 依斗は口をあんぐりと開ける。

「誰でも出来る術って、言ったよな⁉ 向いてるとか向いてないとかあんのかよ⁉」

「あるやろ。得手不得手くらい」

「ならどうしろってんだよ⁉」

「封印術師は諦めや」

「……は……?」

「君たちどうしたんだい?」襖が開き、仁藤がやって来る。「大きな声がしたと思ったら、喧嘩かい?」

「喧嘩やない。こいつが一人で騒いでんのや」

「それはまた、どうして?」

「大日如来が応えてくれない! こんなんじゃ封印術を使えない!」

 仁藤は考えるように、腕組みをして壁にもたれる。

「……うーん……」

 それきり、難しい顔で黙り込んでしまう。

 ――何だよその顔……。

 仁藤が言ったのだ。君にも使えそうな術を教えてあげるからと。だから仲間にならないか、と。なのになぜ、そんな顔をするのだろう。

「おい!」依斗は仁藤に詰め寄る。「あんたが出来るって言ったんだろうが⁉」

 その時だった。

「何してんのー?」

 沙和が、やって来た。

「あたしも混ぜてよ」

「楽しい話やないで。修行僧が修行僧のまま終わりそうっちゅう話や」

 沙和は依斗の顔をまじまじと見る。

「すごく怖い顔になってるよ? 若さときらめき枠はスマイル大事」

「俺は封印術師になりたいんだよ! なのに出来ないから!」

「そんな焦らないでぇ」

「いいから封印してやりたいんだよ! それだけなんだって!」

 黙っていた仁藤が一言、「沙和」と呼んだ。「仙性の術を試してみよう」

 麻根は目を見開く。「本気かいな?」

「もちろん本気さ」

仁藤は依斗を見つめる。「痛いのは平気?」

 依斗は頷く。

「今さらそんなこと……。風で吹っ飛ばしてきたくせに」

「ちょっと仁藤、そんな軽い言葉じゃ駄目でしょー」

 沙和は仁藤を非難するように見て、それから依斗の顔を覗き込んだ。

「少年よ、命を懸けたことはあるかな?」

 依斗は心底呆れる。何を訊かれるのかと思ったら、そんなことか。

「兄貴は死んだんだ。命なんてどうでもいいんだよ」

 沙和は首を傾げる。

「そうなの?」

「兄貴は良い奴だったんだ。穏やかで大人しくて。憎んだり恨んだり、批判したりしない。それでずっと絵を描いてた。世界で一番、平和だった。そんな人間が死ぬんだから、命ってそんなもんだろ」

 沙和はその解答が気に入ったようだった。

「持ってくるねー」

にこにこ顔で言うと、部屋から出て行った。

戻って来た沙和が手に持っているのは、中くらいの壺だ。中には濁った液体が入っている。ざっと、五百ミリリットルくらいだろうか。

「丹薬(たんやく)だよ。飲んで」

 沙和は壺ごと差し出してくる。

「飲めばいいの?」

「そ。飲んで」

 依斗は壺を傾け、口につけた。液体を、流し込む。

 ――まずい!

 下水なのではないかと錯覚してしまう程のまずさだ。不健康極まりない味がする。

「全部飲んでよ。じゃないと失格だからね。頑張れー、頑張れー」

 応援する気の感じられない沙和の声に押され、依斗は全てを飲み干した。

 途端に吐き気がし、壺を落とす。

「吐いちゃダメよ、吐いたら失格」

 依斗は不快感に耐えた。こみ上げてくるものを押し戻す。

 しばらく我慢していると、なんとか落ち着いた。液体が全て、胃の中に収まったようだった。

「飲んだけど?」

 沙和はにこりと頷く。「うん、オッケー。じゃ、山登りしよっか」

「……は?」

「あたしと一緒に山登りしよ。楽しいよ、きっと」

「二人ともいってらっしゃい」

仁藤が言った。有無を言わせぬかのように。

 

 楽朴堂を出て、歩いて二十分。

 白景山の登山口に辿り着いた。

 しかし沙和は、登山口とは違う方向へ向かって歩き出す。

「人さまが綺麗に整備してくれた山道を歩いても意味ないでしょ。あたしたちはあたしたちの道を行こう」

『この先は登山道ではありません。危険です』と書いてあるバリケードを乗り越えて行った。依斗は、付いて行くしかなかった。

 木の枝や高く伸びた雑草が絡まり合う中を、掻き分けて進む。

 小さな虫が集まって群れになっている中を通ると目に虫が付く。それを払っていると、見えていなかった枝が額を直撃する。それをへし折ると、今度は足元に太い根が張っているのに気づかず足を取られて転ぶ。

 整備されていない林の中を進むのは、とてもイライラすることだった。

 依斗が苦労しながら少しづつ進む間にも、沙和はどんどん前へ行く。

 やっと林を抜けたと思ったら、目の前に姿を現したのは崖だ。三メートルほどあるだろうか。

「……これを登るの?」

 まさかと思って尋ねると、沙和はきょとんとした顔で頷く。

「何でそんなこと聞くの?」

「……俺、崖登りなんてしたことない」

「大した崖じゃないよ。あちこち出っ張ってるでしょ」

「そもそも山登りなんて小学生の遠足以来だ。こんなことして術を使えるようになるのか?」

 沙和は驚いたように目を丸くする。

「小さい頃に野山を駆けずり回ったりしてないの?」

「してないっす」

「小さい頃何してたの?」

「ゲーム」

 沙和は「はあ」とため息をつく。「これだから最近の子は……。あたしがきちんと指示を出してあげるから、その通りに登って。……最後の最後まで頑張れればね、封印術師になれるよ、きっと」

 沙和の指示は細かかった。

「まずはそこに出っ張りに右足―。そのごつごつしたとこに左手、体を引っ張り上げてー、左足そこ! 違う! そこ! そっちじゃない! そこ!」

 掴み損ね、滑る度に沙和は呆れたため息をつく。

「あーあっ! もう一度! 始めからー!」

 何度もやり直し、十度目くらいでやっと登り終えた。

「うん、来たね。じゃ、行くよー」

 ほんの少しの休憩も与えず、沙和はどんどん進んで行く。

 木の数が少ない、ひらけた風景の場所に出た。

 歩きやすそうなのは良いが、かなりの急斜面だ。

 息を荒げながら登る。

 呼吸が苦しくなって、依斗は立ち止まった。

 ――何だこれ?

 ふと、体の異変を感じる。

 急斜面がきついからではない。

 頭痛、吐き気、下腹の痛み、足の痺れ。

 立ち止まっていると、随分遠くにいる沙和がこちらを振り返る。

「どーしたのー? もう無理―? ギブアップするー?」

「少し休んでるだけだって」

 痺れる足を叩いて喝を入れ、再び歩みを始める。

 さっきまでと違い、体が重い。全身が石になったみたいだ。

 痛みもひどい。内臓が破かれているような感覚に襲われる。

「ねえねえ? ほんとに大丈夫―? まだ半分も登ってないけど、諦めるかーい? あたしは諦めてもいいんだよー」

「行くから!」

 足だけではなく手も痺れてきた。

 ――動けって!

 体に対して怒鳴ってみる。すると、少しだけ体に力が戻った気がした。

 右足を前に出す。体重を前に傾けて、左足も前に出す。

 右足、左足、右足、左足。

 視界が靄がかってきた。霧が出てるとか湿度が高いとか、そういうのではない。

 ――見えづらい……。

 意識も朦朧としてくる。

 自分の呼吸音が、やたらと大きく聞こえる。鼓動がする。胸が打っている。

 ――動けって。動けばそれでいいから。

 左足、右足、左足、右足。

 ――前に進めばそれでいいから。

 目に汗が入る。

 ――痛い。

 重い。体の中心部に鉛でも入れられたのか。信じられないほど、重い。

「おーい! 大丈夫かーい?」

「今行くって!」

 体はまだ動く。動いてくれているのがわかる。けれど意識を繋ぎとめることが出来ない。

 だんだんと風景の輪郭がぼやけていく。木が、葉が、根っこが、木の上を移動した何かの小動物の影が、木の葉の隙間から除く空が、混ざり合って溶けてゆく。霧が出てくる。霧は風景を覆い隠してゆく。やがて、暗くなる。

 何もわからない、灰色の世界。

 わからない。何もわからない。何も見えない。感じない。ただ重くて苦しい。そして痛い。吐き気がする。なのに吐けない。

 もう、意識がない。

「着いたね!」

 明るい声がして、顔を上げると沙和が微笑んでいる。

「六時間も頑張って歩いたよねぇ、あたしたち」

「……六時間?」

 周りを見渡してみると、前方には山脈が連なり、右方には広い大地がある。

 左方には鳥ノ目市の街並みが。そして、白景山頂上と書かれた柱が立っている。

 登山客が数名、そこで写真を撮っている。

 依斗は自分の背中を触った。汗で濡れている。ズボンもびっしょりだ。

「あげる」

 沙和がペットボトルをくれた。中の水を、一気飲みする。

「あとこれも」

 沙和がくれたのは空き缶ほどの黒い瓶だ。中身が見えない。

「これは?」

「金液。飲んで」

「それも、術を使えるようになるために必要なこと?」

「きっとね」

 沙和から瓶を受け取り一気に飲み干す。ものすごく変な味がしたが、体の重さと痛みと不快感に比べれば大したことがない。

「よし、飲んだね。ではでは、下山しましょう」

 下山は楽だった。

 体の制御はとうに失っていた。重力に任せ、斜面を転げ落ちるだけだった。

 意識はずっと曖昧だった。ずっと辛かったような気がするし、何も感じていなかったような気もした。

 少しの間、幽体離脱を経験した。依斗はガクガクとした動きで山を下りてゆく自分を、上空から眺めているのだった。そこには今にも倒れそうな少年がいた。歩き方はまるでゾンビのようだった。顔色が悪く、汗で肌が濡れていた。可哀そうな気がしたが、自分であると気が付くと、とてつもなく恥ずかしい思いになった。

 太陽が落ちてゆくのを見た。太陽はゆっくりと、けれど確かに下へ下へと沈んでゆくのだった。空の高い場所から、水平線を眺めていたのである。

 縄雲連山の向こうには町があった。依斗はそれを知っている。鳥ノ目市に隣接している南尾市(みなみおし)だ。それは山脈に阻まれて、鳥ノ目市からは絶対に見えないのに、南尾市が夕日に照らされているのを、上空から眺めていたのだった。

 幽体離脱が終わると、もうそこは白景山の麓だった。

 そこからは、重い体を何とか動かして楽朴堂へと戻った。

 沙和が棒読みで「頑張れー、頑張れー」と言っていたことだけは覚えている。

 あとは、楽朴堂に辿りつくなりソファに倒れ込んだこと。

 沙和が何かを説明してくれたこと。

「ついでに言っとくけど、丹薬の材料は水と馬糞と水銀と塩と牡蠣の殻の粉と鉛の粉末、金液の材料は金粉と銀粉と酢と雄黄と水銀と貝の殻の粉と朱砂でした。味の方はどうだった? どっちも猛毒なんだけどさ」

 言葉の意味がわからなかった。朦朧としていたのだ。雲の中にいるようなぼんやりとした意識の中で、「これで術を使えるようになるのか?」と尋ねたのは覚えている。

 沙和は確か、こう言ったはずだ。

「次に目覚めた時に、生きてたらね」


 部屋の電気は点いていない。机の電気だけが点いている。白いライトが、スケッチブックを照らしている。

 兄はペンを持っている。とても細いペンだ。スケッチブックの上で、細かくて短い線を何本も何本も引いている。

 ――兄貴。何描いてんの?

 気になるから尋ねたのだが、兄はこちらを見向きもしない。

 ――おかしいな。

 兄は依斗が声をかけたら、手を止めてこっちを見てくれるのだ。そしてスケッチブックを見せてくれる。どんな絵を描いているのか、とても丁寧に説明をしてくれるのに。

 ――なあ兄貴、何描いてんの?

 聞いてるのに、兄はこっちを向いてはくれない。

 仕方がないから、兄の手元を覗き込むことにした。

 兄が細い線で描いているその絵。

 ――兄貴?

 少年の絵だ。髪が長くて、目が隠れている。口元はひん曲がり、頬がこけている。服は穴が空いてボロボロだ。

 少年はナイフを持っている。少年の足元には、たくさんの少年が倒れている。彼らは血を流している。

 背景が細く短い線によって塗り潰されてゆく。

 シャッシャッと、ペン先が紙を引っ掻くたびに、背景はどんどん黒くなってゆく。どんどんどんどん黒くなる。

 ――兄貴、何だよその絵。

 とても怖い。

 けれど、ふと思った。

 依斗はその絵を、見たことがない。兄は、そんな絵を描かなかったはずだ。描くわけがない。

 ――夢か……。

 胸が安堵感で包まれる。

 夢ならば、いいのだ。何がどうなっても。

 場面が変わった。

 どうやら、雲の上にいるみたいだ。

 ポン、と音がして、煙の中から老人が現れた。褐色の肌の痩せた体に、着物を身に着けている。けれど日本の袴とは少し違うように見える。帯から白い布がひらひらと出ていて。羽織の上にさらにカーディガンを重ねているように見える。黒くて角ばった帽子をかぶっている。大まかなシルエットは、太極拳の時に着る服と似ている。草鞋(わらじ)を履いていて、背中に剣を背負っている。

「ここまでよくぞやって来た。その気骨を称えよう」

 老人は口元に蓄えた白髭をもふもふさせて言った。その様子は、なんだか可笑しい。

「おぬしを道士として認める。仙人への道は過酷な道だ。仙人になれぬまま、道士のままで一生を終える者も数多くいる。それでも、この道を目指すのだな? 覚悟はあるのだな?」

 依斗は首を横に振った。

「違うんだ。俺は仙人になりたい訳じゃない。封印術を手に入れたい」

「ほう?」老人は髭を再びもふもふさせる。「不老不死が欲しくはないのか」

「そんなものいらない。力が欲しいんだ。封印術師になりたい」

 老人は思案し――。

「……おぬしの考えはよぉくわかった。けれど一つだけ。修行を止めてはならない。したらば、我々との繋がりはあっという間に消滅する」

「わかった。修行するよ。力をくれ」

「良かろう」

 老人は右手を拳にし、その拳を左手でパンと叩いた。そして握っていた右手を開く。

 そこには桃がある。

「これを食べよ。したらば目覚めを得る」

 依斗は思わず笑みを浮かべた。

「大日如来はちっとも応えてくれなかったのに、あんたは優しいな。名前は?」

 老人は目を細め、口元を緩める。慈しみの顔とはこういう表情を言うのだろうと、依斗は思った。

「……少年よ、我が名は呂洞賓(りょどうひん)。しかと覚えよ」

「覚えた」

 依斗は桃を受け取った。大きく口を開けて、齧りついた。



伍 呂洞濱からの十試


 依斗は目を覚ました。

 人間の顔がある。二人分。沙和と仁藤。

「生きてる?」

 沙和が不安げに言う。

「僕が見込んだ子だよ。生きてるだろ」

 仁藤が自信満々に言う。

 依斗は身を起こした。

「生きてるっす」

 おー、と、歓声が起こった。依斗はなんだか馬鹿馬鹿しい気分になる。

「あんたら俺のこと殺す気だったの?」

「命を懸けるってそういうこと。実際、死ぬ人もいるんだよ。生きてることに感謝しなさい」沙和は嬉しそうに言い、コップを差し出してくる。「牛乳」

 依斗はコップを貰い、それを飲み干した。

「俺ってだいぶ寝てた?」

 仁藤は頷く。「三日」

「三日か」

「体の方はどうだい? 動けそうかい?」

 腕を伸ばしたり足を曲げたりしてみる。問題はなさそうだ。頭痛はまだあるが、問題のない程度だ。

「普通に動けるけど?」

「よし。なら市街に出よう。三人でね」

「何しに?」

「それはもちろん、封印しに」


 日曜日の朝の鳥ノ目駅は、利用客が少なく閑散としている。

 今日は七月一日。観光シーズンと呼ぶには少しだけ早い。一昨日は大雨だったそうで、そのせいか登山リュックを背負った姿も少ない。

 改札の前を通ると、依斗は背中に悪寒を感じた。久々の感覚だ。鳥肌が立って気持ち悪くなる、あの感覚。

「兄貴の絵が近くにいる」

 言うと、仁藤と沙和が足を止める。警戒するように、周りを見る。館内放送が聞こえる。

『間もなく、一番ホームに伏峰行きがやって参ります。黄色い線の内側で、お待ちください。伏峰行き、間もなく参ります――』

 電車がホームにやって来て、客が降りて、客が乗る。電車が去ってゆく。

 電光掲示板の表示が、変わった。

 その瞬間。

 電光掲示板から、その生物は姿を現した。

 下半身は梟(ふくろう)、胸の上から麒麟(きりん)の首が三本、伸びている。梟の胴体から麒麟の頭までの高さは二メートルくらい、かなり大きい。

 ――三頭麒麟梟(さんとうぎりんふくろう)!

 兄が力を入れて描いていた絵だ。麒麟の模様を細部まで丁寧に描き込んでいた。

 ――他にも何か……。

 兄はこの絵に関して何か、重要なことを話していた気がするのだが。

 今は思い出せない。

 三頭麒麟梟は羽ばたいて出入口へ向かって飛んでゆく。羽が動くたびに突風が吹き、構内にいる人々が悲鳴を上げる。

 バッサバッサと、羽を動かす重い音。麒麟の長い首では出入口を通れないように見えたが、三頭の麒麟はなんと首を縮めた。そのまま、外へ出て行ってしまう。

「駅前広場で封印しよう。沙和、封印対象の動きを封じてくれ。僕は結界を張るから。江場くん」

 仁藤の呼びかけに、依斗は頷いた。

「やってみる」

「よし。行こう」

 三頭麒麟梟を追って、三人は出入口に向かって走り出した。

 外に出ると、三頭麒麟梟は上空を旋回している。通行人たちが空を見上げて「あれは何だ⁉」などと声を上げている。

「随分遠くに行ってしまったね。――志那都比古神の息――吸え」

 仁藤の手の平が発する吸い込む空気の流れが三頭麒麟梟を巻き込み、引き寄せる。

「ぎゃぁあ!」

 三頭麒麟梟は仁藤の術の力に抗えず、吸い込まれた勢いのまま駅前広場のど真ん中、大きな噴水の中に落ちた。噴水の縁に腰かけていた人々が、驚きの声を上げながらその場を離れてゆく。

「沙和!」

 仁藤の呼ぶ声に応えるように、沙和はポシェットから札を取り出す。

「土行嵩山(どぎょうすうざん)!」

 元気よく叫び、札を三頭麒麟梟に向かって放った。札はぴたりと、真ん中の麒麟の額に貼りつく。

「一発成功!」沙和は嬉しそうに言い、ポシェットからさらに四枚の札を取り出した。

 その時だった。

「三の倍数。三」

 一番右の麒麟が、言った。

「三の倍数、三!」

 真ん中の麒麟が言った。

「気にするな! 沙和、続けて!」

 仁藤の指示に、沙和は頷く。

「わかった。――水行恒山(すいぎょうこうざん)!」

 二前目の札を、ロータリーを挟んだその向こうにあるビルに向かって放つ。札はビルの窓にぴたりと張り付いた。

「金行華山(ごんぎょうかざん)!」

 沙和は三枚目の札を放つ。

 すると。

「三の倍数、三っ!」

 一番左の麒麟が怒ったように言う。そして。

「無視するなぁああああああ!」

 麒麟は叫び声と共に、炎を吐き出した。

 駅前広場に敷かれたアスファルトが一面、炎に焼かれて燃え出す。

「ねえ仁藤! どうすんのよぉ、炎で札の効果が」

「おい!」沙和を遮って、依斗は叫ぶ。「炎の海だぞ!」

 仁藤はやれやれと息を吐く。

「ドラゴンじゃあるまいし……。――住吉三神! 雨くれ!」

 その途端、天から雨が降ってきた。一時的なその豪雨が、アスファルトの炎をあっという間に消した。

 雨に濡れながら、依斗は思い出した。兄が言っていたことを。

「仁藤さん、こいつらは三の倍数ゲームをしたがってる。こっちが答えてやらないと、怒って炎を吐く。こっちが間違えても炎を吐く」

 仁藤は心底嫌そうな顔をする。

「何だそれ。面倒臭いにも程がある」

「ごめん。兄貴の遊び心なんだ」

「なら、君がゲームに乗ってあげて。その間に僕らは術をやり直すよ」

「わかった」

 ゲームが始まった。

「三」右の麒麟が言った。

「六」依斗は答える。

「九」真ん中の麒麟が言った。

「十二」依斗は答える。

「十五」左の麒麟が言った。

 その間に、沙和が再び札を放ってゆく。

 三頭麒麟梟の額に土行嵩山の札。

 ロータリーを挟んだ向こうのビルに水行恒山の札。

 駅前広場を出て向かって右にある蕎麦屋に金行華山の札。

 その間も、ゲームは続いている。

「二十七」

「三十、これで終わり! 次は二の冪(べき)、一」

 ――二の冪(べき)⁉

 依斗は動揺する。二の累乗、苦手なやつである。

「……二」。「四」。「八」。「十六」。

 沙和は札を放つ。

 今通って来た駅の出入口に木行泰山(もくぎょうたいざん)の札。

 駅の出入口を出て左方にある牛丼屋さんに火行衡山(かぎょうこうざん)の札。

 依斗たちのゲームは続いている。

「六十四」。「百二十八」。「二百五十六」。「……五……五百、十二」。「千と二十四」。「二千……四十、八」。

 桁が多くなると一気にきつくなる。

 ――沙和さん早くして!

「四千と九十六」

「八千……八千……」

 ――もう無理、早く!

「盤古流気術(ばんこりゅうきじゅつ)!」

 沙和が叫んだ。

 その瞬間。

 三頭麒麟梟に貼られたものを除いた四枚の札を繋ぐように、気が、廻(まわ)り出した。

 気。

 今の依斗には、気の流れがよく見える。色もないし形もない、風のように頬を撫でることもしない。しかし、そこには流れがある。気は、万物の根源である。

 四枚の札の間で、気の流れは巡り巡り、やがて竜巻のように廻りだす。気の竜巻はだんだんと高く厚くなる。三頭麒麟梟の頭上に収束していくように、気が廻る。巡り巡る。

 やがて気の流れは、三頭麒麟梟の頭上で太い一本の柱となった。

 気の柱が、三頭麒麟梟を貫通した。

「「「気ぃぃぃいいいいいいいい!」」」

 三頭が一斉に悲鳴を上げる。沙和の術は成功したようだ。

「江場くん! もっと封印対象に寄って!」

 仁藤に言われ、依斗は近づく。

「よし! では結界を張る! この中なら何度失敗しても構わない!」仁藤は数個の小石を投げた。「磐座結界」

 三頭麒麟梟と依斗を中に入れて、結界が張られた。仁藤と沙和は結界の外だ。

 ――失敗してたまるか。

 兄が描いた生物。梟の体から麒麟の首が三本も生えているなんて、普通に考えれば気持ちが悪いのに、数字ゲームを始めるという可愛らしい面も持っている。

 ――思い出した……。

 依斗は確か、尋ねたのだった。なぜこの生物は、数字ゲームなんかやりたがるのか。

『依斗はさ、同級生が数字ゲームを始めたとしたら、入っていけるか?』

 そんな面倒なゲームには入りたくない、と答えた。そうしたら兄は――。

『俺は……入れなかったよ。昔の話だけど』

 それは昔の記憶。まだ兄が生きていたころの。

 依斗はパンと両手を合わせた。

「仙界封術――」

 封印するための力は、手に入れた。

「呂洞賓‼」

 天から雷が落ちた。それは仁藤の結界を破り、三頭麒麟梟を貫いた。

 数秒後。

 そこに三頭麒麟梟の姿はなかった。そこには一つの種が落ちていた。

 依斗にはそれがわかった。桃の種だ。封印が成功した、証だった。

 



 封印術を手に入れてから、依斗は一人で鳥ノ目市内を歩き回るようになった。

 兄の描いたものは、依斗は気配で感じることが出来る。しかしその他の封印対象は、目の前に現れてから気が付くのがほとんどだった。

 たくさんのものを封印して歩いた。

 一つ目の妖怪。マカロンの花。犬サイズの恐竜。七色の毛の猫。馬のように大きなピストル。目から血を流した少女。頭蓋骨を持った腕。

 画家はこれらの絵を描きながら何を考えていたのだろう。どんな気分でこんな絵を描いたのだろう。どんな死に方をしたのだろう。

 依斗には想像が難しかったし、想像したところで、まるでわからなかった。

 封印するのは楽しかった。

 呂洞賓は何でも封印してくれた。実体を持って発現したものたちを目の前にすると、彼から気の流れが送られてくるのがわかった。それは自分の体内を駆け巡り、重さを持った力となって放出された。

 病みつきになった。

 学校にも行かず家にも帰らず、ひたすら封印をし続けた。

 そうして今日も。

 依斗は封印をするために、外へと出た。


 閑静な住宅街の道路のど真ん中に、それはいる。

 背丈二メートルは超えてそうな、巨大なカップラーメンだ。蓋は開き、湯気が立っている。

 道の向こうからやってきた自動車がカップラーメンの前で急停車をした。運転席の窓が開き、お兄さんが顔を覗かせる。

「え……まじで……?」

 お兄さんは目を擦る。そして再び、目の前にある物をその瞳に写してみる。

「……まじで……?」

 お兄さんは首を横に振る。

「いやいやいや……。何かのイベントか? いやでもだって、道路にこんなの置いてあったら邪魔だろ。イベントやるにしても許可とってんのかな。整理員の姿が見当たらないけど」

 ぶつぶつ言いながら、車をリターンさせ、去って行った。

「確かに邪魔だよ、おまえ」

 依斗は言って、巨大なカップラーメンを見上げる。

「許可とってないもんな? 罰金代わりに俺が封印してやるよ」

 両手を合わせ、パンと鳴らす。

「呂洞濱!」

 天空から雷の光の筋が落ちた。

 依斗はホッとした表情を浮かべ、次の瞬間、眉根を寄せた。

「は?」

 巨大カップラーメンは、まだそこにいる。

 さっきよりも大きなぶくぶく音と共に極太の麺が、蓋の方から溢れ出す。

 依斗はもう一度。

「呂洞濱!」

 雷が落ちる。

 しかし。

「三分待てって言っとるだろがぁああああああ!」

 溢れ出した麺が地面を這い道路の隅々まで蜘蛛の巣のように広がってゆく。

「なんで効かないんだよ⁉」

 再び術を行使しようとするが、なぜか気が廻って来ない。

「硬麺好きもいい加減にせぇえええええええ!」

 麺は伸びる。電柱には蔦のように絡まってゆく。排水溝の中に入り込み下水を溢れさせる。一戸建ての門に鎖のように巻き絡まってゆく。麺は次から次へと伸びてくる。

 一戸建ての扉が開き、行ってきまーすの声と共におばあさんが出てくる。

「危ない!」

依斗の叫びも虚しく、おばあさんは目の前に迫ってきた極太の麺に驚き、腰を抜かして転んだ。麺はおばあさんの体にくるくると巻き付いてゆく。

「呂洞濱!」

 依斗はもう一度、術を試みた。

 雷は、落ちた。とても弱弱しい光だった。

「まだ硬いだろうがぁああああああああ!」

 巨大ラーメンは身を震わせる。蓋から汁が零れ落ちる。地面に流れた汁は、じゅっと音を立てて道路のアスファルトを溶かす。

 ――やばい。

 依斗は額の汗をぬぐった。呂洞濱の雷一発が効かないとなったら、依斗に出来ることはもうない。携帯電話を、取り出し、番号を選んで掛けた。しばらくしても、出ない。別の番号に掛ける。これも出ない。次。数回の呼び出し音の後、相手が出た。

「今どこにいます?」

 尋ねると、深いため息の音。

『……どこにいますって、なんやねんおまえ。おれの嫁か。先に用件言えや』

「俺は東野の住宅街です」

『用件言えって』

「俺には封印出来ない。けど麺がどんどん伸びておばあさんを……」

『何言ってん』

「お願いします、来てください」

 再び、ため息。

『気を練れるか?』

「……気?」

『術やなくても、気を練って当ててやれ。おれが行くまでな』

 通話はそこで途切れた。

 依斗は滴る汗を拭い、巨大ラーメンと対峙する。

 ――気を練る。

 呂洞濱から桃を貰った直後、体の中で気が流れ出したのがわかった。そして、周りの気の流れも見えるようになった。しかしここ数日、封印術を使うたびに少しずつその感覚が薄れてゆくのは、気づいていた。

 おそらく、薄れてきた時点で何らかの仙性の修行をして感覚を取り戻さないといけなかったのだ。それを怠ったせいだ。何も出来ない。

 ――気の流れ、気の流れ……。

 探る。集中してみる。

 ――ダメだ。

 気の流れがわからない。

「誰かぁ! 助けて!」

 麺に巻かれているおばあさんが悲鳴を上げる。依斗は気の流れを使うのを諦め、おばあさんの元へと走った。

 掴んでみると、麺は布ガムテープくらいには硬い。手に力を入れて麺を千切り、おばあさんを開放する。

「ちょっとぉ、何なのよぉ」

 おばあさんは涙目で巨大カップラーメンを見つめる。

「ラーメンに抱かれたいなんて思ったことないわよぉ」

「あの、すいません。もう少し家の中に居てもらっていいですか?」

 おばあさんは「え?」と依斗を見上げる。

「これから買い出しなんだけどねぇ」

「もう少しだけ待ってて下さい」

「えぇ?」

 戸惑うおばあさんの背中を押して、無理強いする形で家の中に戻ってもらった。

 蓋から伸び続けた麺は止まることを知らず、向かいの宅にも隣の家にもその斜めの豪邸にも絡みつこうとしている。

 依斗は麺を手で千切って千切って千切った。本体との繋がりを失った麺の切れ端は、吸着力をなくし地面に落ちた。

 そしてこれでもかと切って切って切りまくっても、麺は後からどんどん伸びて来て再び、あちらこちらに巻き付いてゆく。

 麺を千切り続け、今度からハサミでも持ち歩こうかなんて思う余裕も消え失せ、力を込める右手が痺れてきた頃。

「ここか」

 麻根が小さなバイクに乗って現れた。

「うまそうやな」

 麻根は言うなり、定印を組む。

「涅槃法術阿弥陀如来――西方極楽浄土」

 解き放たれた金色の光は柔らかさを保ちながら巨大カップラーメンを包み込む。

 光に包まれて金色の綿あめのようになった巨大カップラーメンは、悔し気に叫ぶ。

「南・無・阿・弥・陀・仏ぅう! 南・無・阿・弥・陀・仏う!」

 麺の伸びが止まり、よぼよぼと縮んでゆく。

 麻根は札を放った。

「曼荼羅封術!」

 金色の光がカップラーメンを中心に爆発した。

 光が消えたころにはもう、そこには黄色の石ころが一つ、転がっているだけだ。

 あっと言う間の封印だった。

 ――一瞬かよ……。

 依斗は唇を噛む。

「驕りは煩悩の一つや」

 封印した証である石を拾い上げ、麻根は言った。

「これから、封印行くんは誰かと行きや。一人は無理やねんから」

 依斗が黙っていると、麻根は鼻で笑う。

「なんや。悔しいんか。気持ちだけはいっちょ前やな」

「……別に」

「別にってなんや。そんな物言いして、しばかれたいんか」

「修行すればいいんだろ。そうすればもっと強くなるし、そうすれば今のカップラーメンみたいのも一人で封印出来るようになる」

「ならやってみ」

「やるって」

「ほんま生意気やな。助けて貰ったんやから、言うことあるやろ」

「……ありがとう、ございました」

「よく言えたな、ええ子や。ついでに牛丼屋ついて来い」

 依斗はきょとんとする。

「やから牛丼屋や。腹減ったん。ついて来い」

「なんで?」

「ええから。ほら、後ろ乗り。断るなよ、しばかれたないやろ?」

 有無を言わせぬ圧倒的な迫力を感じ、依斗は仕方なく、麻根のバイクの後ろに座った。


「こないだ嫁がご近所さんからズッキーニ阿呆程貰いよって、おれ最近ズッキーニしか食うとらんから。やっぱ肉はええな」

 麻根が牛丼にかぶりつく横で、依斗は何もせずにぼぉっとする。お冷やの氷を奥歯で砕くとゴリっと派手な音がして、麻根が訝し気な表情を向けてくる。

「何してん?」

「……いや。氷を噛んだだけ」

「氷は噛むもんやない。飲み物を冷やしたい時に入れる」

「それくらい知ってる」

「おまえ兄ちゃんのこと好きやね」

 唐突な言葉に、依斗はハッとなる。

「仲良かったん? ええ兄貴やったん?」

「……別に……」

「別にってなんや。照れんなや。家族が好きなのはええことや」

「違うって。そういうんじゃない。……自殺だったから」

 麻根は箸を動かす手を止める。

「……それで落ち込んどるん?」

「落ち込んでるっていうより……」

「聞け。鬱気分は煩悩の一つや」

「でも俺のせいなんだよ。俺が兄貴より良い成績を取ったら、親が兄貴に期待をしなくなった。そしたら兄貴は勉強を諦めたんだ。親はそれに対して怒って、呆れた。兄貴はそれが辛かったんだ。いい人だったから、ただただ辛かったんだと思う」

「聞け。己の罪を認めないのは煩悩や。目を背けるのも煩悩。誤魔化そうとするのも煩悩。やけど、真理を見ようとしないのも煩悩や」

「何だよさっきから。煩悩煩悩って。俺、煩悩がわからないんだよ」

「ほんまにおまえのせいなん? ほんまに? ちゃうで。兄ちゃんの自殺がおまえには理解できひぃんのや。やから自分のせいやと思いたい」

「……は?」

「物事の因果を見ようとしないのも煩悩。おまえのそのプライドも煩悩や」

「……意味がわかんないんだけど」

「おまえ、兄ちゃんのこと知らんのやろ。家族なのに理解できひん。やから自分のせいやと思いたいんや。その方が分かり易い。おまえほんま、プライドだけはいっちょ前やね」

「……兄貴と会ったことすらないだろ。何がわかんだよ」

 麻根はハハッと笑う。

「せやな」

 依斗は席を立った。

「帰る」

 短く言って、牛丼屋を出た。

 



 昼下がりの楽朴堂。

依斗が部屋に入ると、沙和が競馬中継の映し出されたテレビ画面を前にして叫び声を上げている。テレビからは解説が流れてくる。

「ゼットダゼット! 来ました三番ゼットダゼット! そのまま走りきりました! 一着は三番、ゼットダゼット! 続いて五番ボブディンディン、あとは詰まって……?」

 しばらくしてテレビ画面に映し出された、一着から五着。

 ダイナマイトボンバーの名前はない。

「ダイナマイトボンバァアー! アァ! いつになったら勝ってくれるのあなたはぁ⁉ あたしの愛情を無駄にしないでよダイナマイトボンバー! こんなに愛してるのに!」

 女は畳の上で暴れ転げまわる。

「今日も二万円を吹っ飛ばしてしまったぁ!」

「沙和さん」

「大丈夫! 二万円が溶けたくらいで日和るあたしじゃないからぁ! ちょっと損したくらいで消滅する愛じゃないからねぇ!」

「沙和さん!」

「愛は勝つ! なぜならそこに愛があるから!」

「沙和さん! 聞いてます⁈」

 声を張ってようやく、沙和が依斗に気づいた。

「あら、いたの」

「沙和さん、修行の方法、教えて下さい」

 沙和は「えぇ?」と眉根を寄せる。「あたしダイナマイトボンバーしか買わないから教えてあげられないよ。知り合いのギャンブラー紹介しようか?」

「競馬の話じゃなくて、封印術の話です」

 沙和は途端につまらない顔をする。

「……あぁ……。山の上で内丹(ないたん)術をしな。向こうから教えてくれる」

「内丹って?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る