第21話










若者たちも老いる季節



 中学校の保健室は静かだ。すでに始業時間を過ぎており、普段であれば、この部屋に生徒はいないはず。

 けれどこの日、教師ともう一人、女子生徒がいた。

「どうして教室に行きたくないのか、教えてくれる?」

 教師――上田は、目の前にいる女子生徒に対して、なるべく優しい声音を意識して尋ねた。

 こういう質問をする時は、決して問い詰めてはいけないのだと、教師歴七年の経験で知っていた。

「ねえ、山根さん? 熱もないし、お腹の痛みも治ったんだよね? 来られない理由は、あなたの中にある問題なのかな? それとも、クラスに何か、あなたにとって問題になるようなものがあるのかな?」

 女子生徒――山根あかりは上田と目を合わせずに、「違うからです」と言った。

「違うの? クラスが違うってこと? クラス替えに不満があったの? 仲の良い子と一緒になれなかった? でもさ、田中さんとか古峯さんとかと一緒になったでしょう? 二人と親友でしょう? 二人もね、山根さんのこと、とても心配してるんだよ?」

「もう、違うんです」

「山根さん」

 上田はさらに優しく、そして秘密を言うみたいに小さな声で、彼女の名を呼んだ。

「山根さん。話したくないことは話さなくていいよ。けど、もしクラスに何か問題があるのだとしたら、もしそうなんだとしたら、私たちはそこを改善したいと思っているんだよ。あなたが来やすいクラスにすることがより、みんなにとっての良いクラスにすることにも繋がるって思うから。だから、もし思ってることがあるのなら教えて欲しい」

「違うんです、クラスがどうとかあたしがどうとかじゃないんです!」

 あかりは強い口調で言う。

「もう違うんです! 違う存在になったんですよ!」

「……山根さん?」

「おじいちゃんがおかしくなってから、お母さんとお父さんはおじいちゃんの世話を一生懸命やってた。あたしは何もしなかった。何もしなくていいって言われたから。でも、朝のおむつ交換が、あたしの仕事になった」

 あかりの祖父が認知症だというのは、上田も知っている。世話は母親が担っていると聞いていた。

「お母さんもお父さんも、おじいちゃんのことすごく怒鳴るの。ご飯をこぼしても、服を汚しても、転んでも起こる。あたしが、そんなに怒らないで、って言ったら、ならあんたも世話しなさいよって、言われた。だから、朝のおむつ交換はあたしがやることになったの」

 上田はふと思い出す。

「山根さん、そういえば遅刻をした日があったよね。あれは、おじいさまのお世話をしていたせいなの?」

「そんなことはどうでもいい」

 上田は眉根を寄せる。

「ねえ山根さん。なんでどうでもいいの?」

「それは重要じゃないの。大事なことは……あたしも、おじいちゃんを怒鳴っちゃったの」

「山根さん」

「おじいちゃんはね、取り替えたばかりのおむつに便をしたんだ。便が肌についたままだと肌が荒れちゃうから、なるべく早くおむつを替えた方がいいの。でも、替えたばっかりのおむつに、おじいちゃんは便をしたんだ。だからあたしは怒鳴った。このくそじじい! 余計なことしやがって!」

「山根さん、よく聞いて。山根さんは何も悪くないよ。子どもがお年寄りの世話をしないといけない、なんて決まりはないんだよ。今の義務教育はね、子どもは勉強や部活動に集中して自分の能力を磨くべき、というのを前提に組まれているシステムなんだよ。だから、おじいさまの世話をしている山根さんが学業をおろそかにしたとしても、それは山根さんのせいじゃない」

「そんなこともどうでもいいの」

「どうしてどうでもいいの?」

「そんなの、あたしの気持ちには何の関係もないから」

「ねえ山根さん」

「あたしはね! お父さんとお母さんに、おじいちゃんを怒鳴らないでって言ったの! でもあたしは、おじいちゃんを怒鳴ったの」

「山根さん、聞いて」

「あたしはずっと考えてた。なんで、あたしはおじいちゃんを怒鳴ったんだろうって」

 あかりは真剣な眼差しで続ける。

「なんで、替えたばかりのおむつに便をしたおじいちゃんに腹が立ったんだろう? でもさ、普通でしょ? せっかく替えてあげたおむつに便をしたんだよ? 最低でしょ? でもね、おじいちゃんはわからないんだ。そんなこと。おじいちゃんはもう何もわからない。トイレに連れて行っても、便器を見ても、何をすればいいのかわからない。それで漏らしちゃう。だからおむつをしてるんだ」

 教師はうんうんと相槌を打つ。

「山根さんはおじいさまのことをとても思いやっているんだね」

「それはどうでもいいの。あたしはね、思った。あたしがこのままだったら、これからもおじいちゃんを怒鳴ることになるだろうって。替えたばかりのおむつを汚されるたびに、怒鳴っちゃう。怒鳴らないで欲しいって言ったのはあたしなのにね。……あたしは、自分で言ったことを自分では守れない」

「山根さんは優しい子なんだね」

「だから言ってるでしょ。そんなのどうでもいいんだって」

「でも、先生、すごく感動したよ。山根さんは良い子なんだね」

「仮に良い子だとしても、あたしがおじいちゃんを怒鳴っちゃった、っていう事実は変わらない。あたしは考えた。どうしたらいいんだろうって」

 あかりは言うと、突然立ち上った。教師は驚いたように目を見開く。

「山根さん? どうしたの?」

「あたしはわかった。どうしたら、おじいちゃんに腹が立たないのか。あたしがきちんとおトイレを出来る人間だから、おトイレが出来ないおじいちゃんに腹が立つ。あたしも同じになればいい」

「……え?」

「あたしも、おトイレをきちんと出来ない人間になればいい」

 次の瞬間、あかりは嗚咽をあげはじめた。

「山根さん? どうしたの……?」

「おちっこ! おちっこ! おちっこ!」

 生徒はまるで赤子のように泣きながら、叫ぶ。「おちっこ出た! おちっこおちっこ! おちっこが出たあ!」

「山根さん、やめてよちょっと」

 その時、教師の鼻をとある匂いが掠めたーー尿臭だ。

 教師は恐る恐る、生徒のスカートを触った。

 そこはびっしょり濡れて、尿臭はそこから漂ってくる。

 教師は生徒を見つめた。

 とても噓泣きには見えない。

 ――これはだめだ……。

 祖父の世話がたいそうきつかったのだろう。すっかり正気を失ってしまっている。

「山根さん、ここで待っててね。すぐに戻ってくるから!」

 教師は、保健室を飛び出した。

 職員室へ入るなり、学年主任の先生のもとへと駆け寄る。

「あの! 今、保健室で待機中の山根のことなんですが」

 学年主任は飲んでいたコーヒーを机に置きながら、「どしたの?」。

「本人、かなりの情緒不安定で。今日のところはとりあえず、家に帰らせてゆっくり休ませた方がいいと思うんです」

「結局、今日も出席なしかあ。しかし、どうして教室に行けなくなっちゃったのかね?」

「彼女、結構、疲れてると思うんです。そりゃあ、祖父の世話なんかしてたら、授業受ける気になりませんて」

「祖父の世話ぁ?」

「してるみたいですよ。本人が言ってたんで」

「介護してんの? それで気疲れしてんだとしたら、家に戻しちゃっていいの?」

「私から直接親御さんに連絡しますよ。しばらくはおじいさまの世話はやらせないように、お願いしてみます。安静にさせるようにって」

「うん……じゃあ、まあとりあえずそれでやってみて」

「はい」

 学年主任からの了承も取り付けたところで、教師はさっそく、山根家に電話をかけた。

 数秒の呼び出し音のあと、女性の声が出る。

「……はぁい?」

「あの、こちら東区第三中学校の上田です。山根さんのご自宅でよろしかったでしょうか?」

「はいはい」

「あかりさんのお母さまでよろしかったでしょうか?」

「……うん」

「山根あかりさんのことなんですが、彼女、今、保健室で休んでいるんですが、相当疲れているみたいなので、今日はもう家に帰らせてあげたいんです」

「……ふぅん?」

「もしお手すきのようでしたら、学校まで迎えに来ていただけるとありがたいのですが」

「……あのぅ、車ってどうやって運転するんですか?」

 教師――上田は息を止めた。

「……お母さま? あかりさんのお母さまですよね?」

「そうだって言ってんでしょ」

 電話の向こうの声は、苛立ったように言う。

「わたしがあかりのお母さんなんだからね! 他に誰かいると思ってんの⁉」

「すみません。それで、学校へは何時ごろに迎えに来ていただけるのでしょうか?」

「学校⁉」

 母親は素っ頓狂な声を出す。

「あんたぁ、学校って一体、どこの学校よ⁈ まさか、浮気相手の勤務先とか言わないでよね」

「お母さま⁉」

 上田の額を、汗が流れ落ちる。これは何かがおかしい。確かに山根家にかけたはずなのに、番号を間違えただろうか。

「すみません、いったん失礼します」

 電話を切った。

 深呼吸をして、もう一度、連絡簿の山根のところを探す。

 あった。

 同じ番号だ。この番号にかけたはずだ。

 上田はもう一度、今度は数字の一つ一つを確認しながら、その番号を押した。

 数秒間の呼び出し音のあと、女性の声が、出た。

「だぁれぇ?」

 さっきと同じ、声だ。

「東区第三中学校の上田です。すみません、先ほどもご連絡したのですが」

「ああ、気にしないで気にしないで!」

「すみません。それで、あかりさんのことなんですが」

「あ!」

 母親は突然、声を上げる。

「おっかちゃんだ!」

「へ?」

 上田が思わず変な声を出す間にも、母親は「おっかちゃんだ、おっかちゃんだ」と連呼する。

「わたしを殺しにきたんだ! おっかちゃんが! くそ女が殺したいのはくそ女!」

 上田は二の句を告げず、電話を持ったまま固まった。

 春の自宅訪問に行った時には、朗らかで穏やかな、普通の母親だったはず。

 一体誰だ。電話の向こうにいるこの女は。

 その時だった。

「泥棒だ! 泥棒が来たぞ!」

 電話の向こうから聞こえて来たのは、男の怒声。続くはガラスの割れるような音。

 何かを、叩き割るような音。

 上田は即座に電話を切り、一一0にかけた。


 警察に事情を話し、上田も山根家に向かうことにした。学年主任は何がなんだかわからない、というような顔をしていたが、時は一刻を争う。山根家では今、確実に、何かが起こっている。

 車に乗り込むなり、カーナビで山根家を表示し、最短距離を示してもらう。

 エンジンをかけ、すぐにアクセルを踏んだ。

 ――どうしたもんだか……。

 いつも、速度40キロで走っている通勤道路。50キロで走ると、今までより少し煩わしい道に思える。のんびりと走っている周りの車両に腹が立つ。通行人や自転車車両を避けるのも、いちいちスリリングだ。

「規定速度ギリギリまで出して走ってよ!」

 今までは思ったことすらない悪態をつきながら、上田は車を飛ばした。

 山根家は、団地にあるアパートの3階にある。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る