第20話
血迷いのトランぺッター
昼さがり。眠気を誘うような長閑な陽光が差し込むカフェの店内は、コーヒーの香りで満ちている。大盛りスパゲッティとオリジナルブレンドのコーヒーが目玉のお店で、大学通りにあるために、いつも若い客で賑わっている。
一番、かどっこにある卓にいるのは、二人の若い女性だ。
「ようやく会えたね。話したい事、たくさんたまってるよ」
葵(あおい)が言うと、莉佳(りか)は頷いた。「久しぶりだよね。三か月ぶりだっけか?」。
「いやいや、もう半年くらい経つよ。こないだ会ったのは節分だったし」
「そっか。二、三、四、五、六、七……今は何月?」
「八月」
「なら半年経つわ」
「だしょ」
「だしょ?」
葵はフフッと笑う。「でしょ? よりかは、だしょ? の方が可愛い感じがするよね」。
「そうかなあ?」
莉佳は理解できない、といった表情で首を傾げた。
葵と莉佳はかつて小中学校と同級生だったが、二人とも二十歳になり、今では別々の街で暮らしている。新幹線を使っても二時間くらいかかる距離で、お互いにそこそこ忙しいので、会える機会は少ない。
「でさ、莉佳の親はボケてない?」
葵の切り出した言葉に、莉佳はぽかんとする。
「最初の話題がそれ? まだ五十代だよ。ボケるには早いって」
「普通はそうだよ、あたしも知ってる。けどうちの親は頭がおかしいから、ボケてるようなもんだから、なんなら昔からボケてるから」
「それはボケてるんじゃなくて、頭がおかしいんでしょ?」
「つまりはそういうこと」
「やっぱり親か。葵の悩みの種はいつだって親だね」
「あと兄貴ね」
「そうだったそうだった」
莉佳はメロンソーダを一口飲み、「で、今度は何をされたの?」。
葵はさっそく、話を始めた。
「あたしが進学する大学を決める時に、奨学金を借りて薬学部に行こうとしてたのは話したよね?」
「聞いた聞いた」
「けど結局、すぐ近くの市立大学に進学した」
「ママが反対したってやつでしょ? 薬学部は学費が高くて、卒業後に奨学金を返すのは大変だからって」
「薬剤師になれる保証もないし、なれたとしても奨学金を返し終わるまで仕事を続けられるのかもわからない。それに薬学部は近くにないから、親元を離れることになる。生活費はどうするのか。出して欲しいと言うのならば出すこともできるけど、生活費を出してもらうだけの価値のある人間になれるという自信はどこからくるのか? なんで無難なところに行けないのか? 生きるのヘタクソ。……って、散々なじられたっていう」
「名言が出たやつでしょ? ――人間はね、無難なやつが勝つのよ」
葵は心底嫌そうに口元を曲げる。
「名言じゃないよあんなの。あたしをへこませた言葉なんだよ」
「ごめんごめん。名言認定取り消す」
「それで結局、市立大学の経済学部に入ったわけじゃん? なのにさ、最近、母親が言い出し始めたわけ。――就職先があまりよくない」
「ああ、先輩方の?」
「そ。うちの学科はやっぱり地元で就職する人が多いんだ。保険会社とか銀行とか、営業マンになる人もそこそこいるかな」
「それが気に入らないんだ? 葵のママは」
「保険会社も銀行も営業職も、専門職じゃない、とかって言いだしたの」
莉佳は難問の向き合う受験生のように顔をしかめる。
「それはつまり……」
「ある日の朝にね、いつだったか忘れたんだけど……あたしが今から学校に行こうと準備をしている時にだよ? 出かける用事なんかないくせにばっちり化粧した母親がさ、あたしの前に立ちはだかってさ――やっぱり文系はダメね。……だってさ」
莉佳は目を見開く。
「ええ? なにそれ。薬学部を諦めさせたのはそっちじゃん」
「だしょだしょ?」
「うん!」
「文系は専門職になれない。これからの世の中は手に職をつけないと生きていけないのに、ショボい文系なんかに進学して。あんたって私が学生時代に付き合っていたカレシ並みに負け組根性が染みついてるのね、だとよ」
莉佳は面白がるように手を叩きながら、
「おお! 名言が出ましたよ! あんたって私が学生時代に付き合ってたカレシ並みに負け犬根性が染みついてるのね!」。
葵はうんざりしたように頬杖をつく。
「名言じゃないよ。そもそも誰? 学生時代に付き合ってたカレシ誰?」
「ママー! 学生時代にどんな男と付き合ってたのぉ? って、ママの過去が気になっちゃうやつね」
「別に気にもならないし知りたくもないけどね。それでさ、母親は言うわけ。あんたはこの先、働く人間としては負け組の側で生きていくことになるのよ、大して稼げない、貧乏生活が待ってるのよ。そんな女が、少しでも上を目指すためには何をするべきだと思う?」
「つまりそういう話ね」
「そう、そういう話なの。……母親が見せてきたのは街コンの案内サイト」
莉佳は口を開けて笑う。
「街コンですか? まさかの街コン! 結婚適齢期過ぎた人たちが行くやつじゃないの?」
「あたしがさ、彼氏を作れってこと? って聞いたら――あんた、まさか大学で彼氏つくる気じゃないでしょうね⁉」
「え、ええ⁉ 大学で彼氏つくるのダメなの⁉ まさかのダメなの⁉ 大学なんて遊ぶために行ってるやつもいるくらいなのに⁉ むしろロマンスをエンジョイするために行ってるようなもんなのに⁉」
「あんなしょぼい文系大学にいる男なんて、就職したってろくでなしのままだろうから、もっときちんとした人と出会って、結婚前提で付き合うべきだわ、だとよ」
「しょぼい文系大学! すっごいディスるね⁉ 薬学部諦めさせたのはそっちじゃん、ってなるよね」
葵は盛大なため息をつく。
「もう、母親とそんなやり取りをしてさ、あたし朝から疲れちゃって。……あ、コーヒー来た」
二人が座っている席にウェイターがやって来て、オリジナルブレンドのコーヒーを置いて去ってゆく。
コーヒーを一口飲み、葵は再度、長いため息をつく。
「でさ、あたしが大学行ってバイト行って家に帰ると、母親が泣いてるわけよ」
「あらま。それはまたどうして?」
葵は母親を真似てなのか、高い声を出す。
「――私子育て失敗しちゃったのかもしれない……どうしよう……あんなに頑張ったのに、こんな学歴も女性としての品格もない人間になっちゃった……私のせいだ……どうしよう、どうしよう……」
「ガチ泣き?」
葵はこくりと頷く。「号泣です」。言って目元を指で押さえる。
「――せっかくの女の子なのに……これなら男二人兄弟の方がまだよかった……やっぱり女の子って難しいわ……私には向いてなかったのよ……ごめんね……ごめんなさい……」
母親を真似た葵の嗚咽演技に、莉佳は腹を抱えて笑う。
「やっば! やっばいねそれ! すっげえ腹立つじゃん! 私が言われたら殴っちゃうかもしれん」
「手を出さなかったあたしを誉めてちょうだい」
「えらい!」
葵はコーヒーに砂糖を入れ、混ぜながら、「これで話を終われたら良かったんだけどね」。ぽつりと言ったのを聞いた莉佳は、同情するような表情で「ああ」と相槌を打った。
「ママだけじゃないもんね。パパもいるもんね。頭おかしいのが」
「じゃあ、次は父親の話ね」
「うん。話しちゃいな話しちゃいな」
葵は椅子に座り直す。
「ある日のことよ。あたしが長時間のバイトを終えてへとへとになって帰ってくると、リビングで父親がビールを飲みながら、こう言ったわけ。――そこで正座しなさい」
「説教かいな。疲れてる時に説教されるとか、最悪だね」
「月に二度くらいあるやつなんだけどね。で、あたしが仕方なく正座をするじゃん?」
「正座をするんかい」
「言う通りにしないと面倒なことになりそうだからさ、するじゃん? したら、足の形が違うって」
莉佳は首を傾げる。
「正座に足の形とかあんの?」
「あるんだってさ。足の甲を重ねるんだって。ほんとかどうか知らないけど、あたしが足の間隔が広い正座をしてたのね。そしたら、足が違うって言って、あたしの足を触るわけよ。わざわざ触りながら直すの」
莉佳はあんぐりと口を開ける。
「うわぁ、どこから突っ込めばいいのかわからない」
「突っ込まないでちょうだい、ただひたすら嫌悪してちょうだい」
「ラジャー。さすが葵のパパ、きもいね」
「だしょだしょ。で、正しい正座とやらをさせられて、始まるわけよ。ご高説が。――人間にとって大事なことは何だと思う?」
父親を真似てなのだろう、葵は声を低めて言う。
「人間にとって大事なのは、常に他人のために生きる、ということだ。お父さんを見てみろ。いつだって他人のために生きて来た」
「なんかイイこと言ってる風なんだけどな」
「ご高説は長いんだ。ここからが本番」
「なるほど。口挟んでごめん」
「――お父さんはな、家族のために生きてるんだ。おまえたちのために、毎日働いてる。これからも働き続ける。おまえたちがいる限りずっとな。お父さんはこの身をおまえたちに捧げてるんだよ。おまえたちの奴隷みたいなものさ」
莉佳は呆れたように息を吐く。
「奴隷がご主人様に正座させるかね?」
「突っ込みはいらないのよ」
「ごめんごめん。ご高説の続きをどうぞ」
葵は咳ばらいをし、
「お父さんを見てみろ。パン屋の店長時代は、常にお客さんのために働くことで店の売り上げた伸ばした。それだけの偉業を成し遂げたのに、准看護師に転職したのは、もっともっと他人のためになりたいという意欲があったからだ」。
莉佳は目を見開く。
「准看護師になったの? 初耳」
葵は頷く。
「いい歳過ぎて看護学校なんて行ってさ。よく資格とれたなって驚いたもんだけど」
「すごいじゃん」
「でね、父親のご高説は続くわけ。――向上心が大事だ。そして、それが自分のためではなく他人のためである、ということが大事だ。サッカー少年団でも教えてることだが」
「あ、月に何度か教えに行ってるって言ってたもんね」
「そう。小学生のね。――少年たちにも言うのは、他人のために上を目指す、という意識だ。それが人間を人間たらしめるのだ。人間にとって大事なことだ」
「何回、人間を連呼すんの」
葵はさらに声を低くする。
「では、ここからが本題だ。おまえは他人のために生きているのかどうか? お父さんから見て、おまえは自分勝手に生きているように見える。大学に行かせてもらえて、アルバイトだってさせてもらえているのに、おまえは何をしたんだ? 何もしていないんじゃないのか? 食わせてもらって勉強させてもらって、なのに他人に貢献するようなことを何もしていない」
「ひえぇ。ボランティアでもしろってのか」
「第一、 お父さんに感謝の言葉の一つすらないじゃないか」
「お、おぅ?」
「さあ、練習をさせてやろう。他人のために生きる人間になる練習だ。お父さんに感謝の言葉を伝えてみなさい。……でね、あたしは父親に、自分が知っている限りの感謝の言葉を並べたてたの。一時間くらいかけてね」
「一時間……」莉佳は脱力したように背もたれる。「しんどいわ、それはしんどい」
「あたしその翌日、道ばたで吐いたからね」
「私だったらパパの顔に飼い犬の糞を投げつけちゃうかもしれない」
「素直に言いなりになったあたしを誉めてちょうだい」
「えらい! えらいぞ葵! おぬしは勇者だ!」
葵は俯いて息を吐く。「でね、もう一人いんのよ」
莉佳は葵に同調するように大きく頷いた。
「知ってるよ知ってる、面倒なのがもう一人! 葵のブラザーね」
「そ。兄貴。でもこいつはね、親ほど嫌じゃない」
「ほう?」
「あたしのこと、単純にパシリだと思い込んでるだけ」
「十分、嫌になる要素だよ? パシリってさぁ」
葵は軽く笑う。
「飯買ってこい飯作れ洗濯しろお菓子買ってこい掃除しとけプレゼント買ってこい」
「プレゼントまでねだるんかい」
「兄貴の彼女のね?」
「……左様で……」
「レポート書けサイダー持ってこいゲーム機壊れたネットが繋がらなくなったトイレが臭いドアノブががちゃがちゃいってるゴミ出しとけ」
「パシリというか何でも屋さんだと思われてるね」
「あーあ!」葵は大きく伸びをする。残りのコーヒーを全て飲み干し、大きな欠伸をした。「……あたしの人生ってなんなんだろうね。もうわかんないや」
莉佳は何も言わず、メニュー表を開く。
「……葵。せっかくだからデザート頼もう」
「……そうだね」
五分ほどかけて悩み、莉佳は特製カラメルプリンを、葵はいちごのババロアを頼んだ。
莉佳は「そういえば」と思い出したように言う。「私、トランペット買った」。
葵はわずか、目を見開いた。
葵は小学校、中学校と、吹奏楽部でトランペットを吹いていた。莉佳と一緒に。
莉佳は高校生になってから弓道部になり、それ以降、音楽からは離れた。それがどういう風の吹き回しだろうか。あんなに、楽器はもう飽きたと言っていたのに。
「趣味がトランペットって企業の面接で受けがいいの? そんなわけないよね」
莉佳は「さあねえ」と笑う。「就活とか大学とか関係なく、なんか久々に吹きたくなって、中古で安いの買っちゃった。気分転換に音出すと、これがなかなかいいんだよ」
「気分転換、ねぇ……」
「葵のトランペットはどうなってる?」
「もう何年も押入れの奥」
小学校三年生の時、父親が中古の楽器を買ってくれた。たしか二万円くらいだったはずだ。
最後に吹いたのは中学三年生の九月。もう何年も、押入れの奥で眠ってる。
「気が向いたら吹いてみなよ。案外、いいかもよ」
「……気が向いたらね」
久々にトランペットという単語を聞いて、葵の脳内に中学生の頃の記憶が蘇る。
あの頃は、信じていた。
自分はトランペットと結婚するのだと。
最後に演奏した曲は何だったかと記憶を探っていると、プリンとババロアが運ばれてきた。プリンの甘い匂いがやたらと強くて鼻につき、葵はつまらない物を見る目つきで、目の前に置かれたババロアを見下ろした。
商品棚のストッパーを外すと、レールが動き、棚ごと前に出る。こうすれば奥の方に置かれている商品にも手が届く。紙パックの飲料はわりと賞味期限が短い。バイト仲間が見逃した賞味期限切れの飲料を廃棄登録するのは、葵にとってはよくあることだ。
「あ、これも」
賞味期限が昨日までになっている牛乳を見つけ、棚から出してカゴに入れた。
店内の棚を全てチェックしたために、カゴの中は廃棄登録する商品で満杯だ。
廃棄登録はレジで行う。重いカゴを持って、葵はレジに向かった。
お昼のラッシュを過ぎると、コンビニは暇になる。レジのところでは後輩バイトが暇そうな顔をしてぽけっと突っ立っている。葵がカゴを持っているのを見るなり、表情を変えた。
「先輩! 廃棄登録手伝いますよ!」
葵は後輩と並んで、商品を一つ一つ、バーコードを読み取り廃棄登録してゆく。
「先輩って一人暮らしですか?」
沈黙を埋めるかのように、後輩が尋ねてくる。
「実家だよ。普通に家族と暮らしてる。……一人暮らしなの?」
後輩は首を横に振る。
「私も実家です。けど出たいんですよね。一人暮らしがしたい。それでバイト代貯めてたんですけど、こないだ友達と熱海旅行と伊豆旅行と沖縄旅行に行って全部パーになりました」
「旅行行きすぎじゃん」
「温泉にたくさん入りましたよ。フェリーも乗ったし、沖縄で泡盛たくさん飲みました」
「いいね。なんか楽しそう」
「先輩ってバイト代何に使ってます?」
葵は記憶をたどる。
「……レポートとか調べものに使ってたパソコンが壊れたから新しいの買って……スーツ買って……服も買ったな……歯磨き粉とかシャンプー、顔のパック……教科書……」
後輩はポカンとする。
「実家暮らしなのにバイト代を日用品で溶かします? 普通?」
「だって親に頼むのたるいし」
「実家暮らしの意味ないじゃないですか。どんくらい貯まってます?」
「全然。やっぱり授業があるとあんまシフト入れれないじゃん? それでパソコンとか買っちゃうとさ……あたしも全部パーだよ」
「えぇ……もったいな! せっかく溶かすなら日用品とか勉強道具とかじゃなくて旅行とかで使った方がお得感ありません?」
葵は苦笑する。
「そりゃそうでしょ。あたしだって買いたくて買ったわけじゃないよ。てかあたしも実家出たいわ。一人暮らししたい」
「家族ってしんどいですよね」
「まじでしんどい」
「家出とかします? 私はしょっちゅう友達の家に行ってるんですけど」
葵は苦笑いを硬直させ、首を横に振った。
「家出はしたことないかな。……慣れたベッドで寝ないと腰が痛くなるんだよね」
「えぇ!」後輩は今までで一番、大きな声を上げる。「先輩の腰、弱っ! まじで弱い! 先輩の腰チョロすぎ! おばあちゃんかよ!」
後輩の反応がツボにはまり、葵は硬直した苦笑いを綻ばせて声を上げて笑った。
その時、メロディー音が鳴り響いた。店内に数十分ぶりの客が入ってきたのだ。後輩は慌てたように「いらっしゃいませ!」と声を張り上げる。
葵もつられるようにして、「いらっしゃいませ!」と、声を張った。
帰路が辛い。
出先から家に戻る時。葵が願うのは一つだけだ。
「どうか、両親と兄があたしを無視しますように」
何も言わないでいてくれますように。何もしないでいてくれますように。
葵の感情を乱すようなことが、何も起きませんように。
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